第23話 余生2

 2020年1月10日金曜日。仕事を終えた彼は、いつも通りジムに向かった。そして日課のトレーニングを終えると、いつものスーパーへ。それは、彼にとってはいつもと変わらない夜だった。


 夜のスーパーは品物が少なく、彼はメニューを決めかねていた。スーパーはいつも通り閑散としていて、いつもの店員がレジの前で暇そうにしている。


「今日はミネストローネでも作るか」


 彼は材料をカゴに入れると、レジへと向かった。明日から世間では3連休だった。しかし家族もなく、フリーランスの彼には特に関係ない。その夜は特に寒くて、ミネストローネを思うだけでも心が和らいだ。


「アレクサ。音楽かけて」

「スポティファイを再生します」


 キッチンに立つと、彼はアレクサに話しかけた。ウェス・モンゴメリーのサムピッキング特有の、マルっとしたギターサウンドが聴こえてきた。大学時代に好んで演奏した『Four on Six』だった。


 憐との出会い、恋人生活、別れ、再生、崩壊、余生。憐と出会ってから、いろいろなことがあった。


 ミネストローネを煮込んでいる間、彼はウェスの音楽に過去を重ねていた。彼が選んだ数々の間違いが走馬灯のように思い浮かんだ。


 その晩、彼は夢を見た。それは温かく穏やかな家族の光景。


 彼はミネストローネを作りながら、家族の帰りを待っているようだった。


「パパ、ただいまー。お腹すいたよー」

「パパ。明日お婆ちゃんにゲーム買ってもらうんだー」

「智博、準備してくれてありがとう。助かったわ」


 そこには憐がいた。子どもたち2人は憐の子だとすぐに分かったようだった。憐は昔とまるで変わらない。声も話し方もすべて。


 憐と何気ない会話をし、2人でキッチンに立つ。嫌な緊張感はない。自然なつながり。家の中は一体感と、愛情で満たされていた。


「月、星、お風呂入ろう?」


 憐が子どもたちを連れてリビングを後にする。


「ああ。これが家族の光景なのか。温かくて落ち着く。なんて心が満たされていく感じなんだろう。憐がとなりにいるなんて。俺たち結婚できたんだな。よかった。本当によかった」


 彼はそう思いながら、リビングのソファに腰掛けているようだった。手のひらであふれる涙を拭いながら。彼は自分を抑えられなかった。体も心も、涙を止めることができなかった。


 死人のように余生を過ごした日々から、急に表舞台に戻されたような。諦めよう、忘れようとしていたすべての記憶が、堰を切ったようにあふれ出る。


 捨ててしまった感情が体の奥を突き動かし、忘れたはずの記憶が遡るのを感じた。病から目覚めるように、体が軽くなる気がする。このためなら全てを手放そう、そう思った気がした。


 それは、僕が事故に遭う前夜、2020年1月10日金曜日の光景だった。彼は僕が事故に遭う前日から、パラレルワールドを見ていたのだった。


 僕はおぼろげに思い出していた。オーストラリアの寮に転移したその日、元の世界に戻ろうと目を閉じた後の夢。そこに見た光景は、事故に遭う前夜の僕だった。


 そこで僕は、誰かの涙を感じた。誰かの涙が、あふれている気がした。しかしその時は、僕の夢を誰かが見ているのか、誰かの夢を僕が見ているのか分からなかった。


 でもきっとそれは、その両方だったのだ。僕の世界を、彼は夢の中で見ていた。その彼の夢を、僕は夢の中で見ている。あれは彼の涙だったのだと思った。


 翌日、彼は打ち合わせのために自転車を走らせていた。最近付き合いの始まった出版社のようで、その編集担当の家の近くで、打ち合わせの約束があるようだった。


 駅に近い国道から、住宅街の路地へと入る。


「ミャーオ」


 猫の鳴き声に気を取られ、ちょっと視線を逸らした瞬間だった。少し前の交差点で、車の急ブレーキ音が聞こえた。


 慌てて視線を戻し、前方を確認する。すると走行車線の前には人が立っていて、その向こうには車らしきものが見えた。


 避けようにも間に合わず、そのまま衝突、はじけ飛んだ。ゆっくりとスローモーションに、地面が下から消えていく。最後の衝撃はコンクリートだっただろうか、スローモーションに感じたまま真っ暗になった。


 目覚めるとそこは、彼が青春時代を過ごした大学の寮にそっくりだった。オーストラリアの音大で課題に追われていた当時の部屋に。


 少しシミのある白い天井に、赤レンガ造りの壁。見覚えのあるギターのポスターが2枚貼られている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンのストラトと、ブライアン・セッツァーのナッシュビル。それは僕がいた寮と同じだった。


 彼はしばらく意識不明の重体だったようだ。入院中、彼の意識は過去の世界を旅したようだった。僕が過去を旅したように。


 しかし、僕は彼の転移のスタートが見えなかった。オーストラリアの寮に戻ったところで、感覚が途切れてしまったから。


 最後に見た光景からすると、あれは間違いなくオーストラリアの寮だった。ただそれが、僕の世界だったのかは分からない。あの記憶だけでは判断できなかった。


 彼はどこの世界へ飛んだのだろう。そして何を思ったのだろう。僕の世界を見たとしたら、どう思っただろう。戻りたくないと思っただろうか。


 彼が、僕の世界に飛んだもう1人の僕なのかは分からない。僕自身も、誰のパラレルワールドに飛んだのか分かっていないのだ。それを知る術は、今のところない。


 今の僕には、僕の世界の記憶や経験のすべてが、僕によるものだと断言できない。憐を騙して生きてきた、そう思われても仕方がないかもしれない。そう考えると、とてもやるせなかった。




「智博。この前の話なんだけど」

「どの話?」


 リビングでうたたねをしていた僕に、キッチンから憐が話しかけてきた。


「パラレルワールド。あれから私も気になっちゃって。いろいろ想像するようになっちゃった」


 洗い物を終えた憐はリビングまで来ると、僕の隣に座った。それも、ピタッと寄り添うように。


「ど、どうしたの? 急に? パラレルワールドなんて言い出して?」


 突然のことにドキッとした僕は、以前の憐のように答えてしまっていた。


「あれから、たまに夢で見るようになっちゃって」

「夢で? なにを?」

「パラレルワールドって感じの夢」


 憐に言われて、僕は青ざめた。さっきまでのトキメキは、嫌なものへと変わっていた。


「ちょっと待って。夢なんだよね? そのパラレルワールドって。なにか変なこと起きてないよね?」


 気がつくと、憐の肩をつかんでいた。居ても立ってもいられなかった。


「う、うん。たぶん夢……。だと思う……。辛すぎるから、正夢にならなきゃいいなって、思うけど……」

「そんなにリアルなの? え? 例えば、ど、どんな感じ?」

「私、一人ぼっちになっちゃってて。智博を探してもいなくって。月も星も答えてくれないし。この家にいるのに……」


 僕は、僕の体験したパラレルワールドとの類似性を考えていた。憐は、いったいどのような世界の憐を見たのかと。


 しかし、この家が出てきたのなら大丈夫かもしれない、とも思った。もちろん確証なんて持てないし、そんなパラレルワールドもあるかもしれない。


 それでも僕の知る限り、この家にいるならば家族にはなっているはずだった。それが僕を少しだけ安心させてくれた。


「この家にいるならきっと大丈夫だよ! だってここは俺と憐で、土地から探して建てた家だよ? 2人で設計士さんにお願いして、図面も書いてもらったんだから。だから、ここにいればみんな帰ってくるよ。大丈夫」


 僕はそう思った。この家の景色さえ見えているなら、僕と憐は一緒にいるだろうし、子どもたちもいるはずだと。それが、僕の知る事実としてあったから。


「そうなのかな……。でもね。ものすごく辛いの。智博がいなくなっちゃって。置いてかれちゃって。ずっと待ってるのに、迎えに来てくれないの。私、本当にずっと、智博のことを待ってたんだよ……。ずっと……智博のこと……。一人ぼっちで……」


 憐はうつむいた。思い出させてしまったことを、申し訳ないと思った。


「憐、ありがとう。そこまで思ってくれてうれしいよ。俺も憐のこと、同じくらい思ってる」


 うまい言葉を見つけられないまま、うつむく憐の頭にキスをした。




 2020年11月1日。事故から回復した彼は、メンバーと一緒にいた。彼らは、活動10周年を迎えていた。


 それは、彼が憐への幕を下ろしてからの歴史でもあった。憐を求め、さまよい歩いた日々。その幕から10年がたっていた。彼はもう大丈夫だと思った。これからは1人で生きていける。そう思った。


 彼が求めた憐との世界。それは叶うことなく消えてしまった。だからこそ、彼は諦めて生きてきた。


 唯一望みがあるとしたら、それは自由だった。忘れてしまっても、生きていける自由。大事なものがなくても、生きていける自由。自分を失っても、生きていける自由。


 確かに彼は、自由らしきものは手に入れていた。でも僕にはそれが、本当の自由とは思えなかった。だって、彼が残した音にはやっぱり憐がいたから。彼はそれを音に残せるようになっただけで、憐への思いから解放されているようには見えなかったから。


 彼が気づかないだけで、その音の中にはいつも憐がいた。人知れず静かに。時がたった今も、憐はその世界を歩き、話し、歌っていた。あの頃と変わらない、一幕の舞台女優のように。


 誰にも分からない、誰も知らない、時空を超えた秘密の舞台。それは昔と変わらずに残っていたのだと思う。


 憐との2人の21年は、図らずも歌の中に残り続けていたのだと思う。消しようのないそれは、歌詞という言霊になって音楽を伴いながら。


 偶然にも『蒼い星』をリリースしてからちょうど20年だった。憐に初めて告白したあの日、1週間しかいられなかった2人。その思いを綴った『蒼い星』。


 二度と会うことのない2人の痕跡は、いまだにひっそりと残っていた。過去に彼らが、つながっていた証として。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る