第22話 余生1
僕は久しぶりに夢の世界に戻った。だがそれは今までと違い、さらに微弱なものになっていた。
彼の意識が僕に転送されてくるような、もはや彼の目を介して見ることすらできなくなった。僕は彼をどこからともなく見ているだけの、何かでしかなかった。もうすぐ彼とのつながりが切れることを予感した。
音楽を辞めた後の彼は、貯金を切り崩しながら暮らしているようだった。人生の行き先を失った彼は、拠り所も同時に失っていた。あり余るほどの時間が、砂嵐のように彼を削った。
存在するだけで浪費する、人間という生き物のむなしさを感じていた。生きることは、狩りをすること。そんな世界は遥か昔に終わり、人類は今の状態まで進歩したのだ。
お金を得る、そのためには何をする。どこを見る、どこへ向かう。すべてが真っ白で、彼は色すら選べないでいた。音楽を捨てた彼に、お金を生み出す何かがあるのか。彼はそれを探し続けた。
彼は旅に出たかった。知った日常はもう見たくなかった。彼を濡らした梅雨はすぎ、セミが夏を呼び込もうとしていた。世間はお盆休みを待ちわび、夕陽は街の屋根を真っ赤に染めた。
関東が夏に入ったある日、彼は与論島に行こうと決めた。そこは母親の生まれた島で、ルーツとも呼べる。彼はそこに拠り所、生きるための支えがあると思ったらしい。
彼は、ギターと簡単な着替えだけを持って電車に乗った。京浜急行電鉄を乗り継ぎ羽田空港へ。お金がなかった彼は、深夜の安い飛行機をとっていた。
25時半過ぎ、飛行機は那覇空港に着いた。バックパックとガットギターの入ったケースを受け取ると、空港の外に出た。深夜の沖縄、そこは人もまばらだった。
タクシーを使う気のなかった彼は、歩いていた。どうせ翌朝のフェリー出航までは暇なのだ。彼は憐との沖縄旅行を思い出しながら、那覇港にある船客待合所まで歩いた。
途中土砂降りのスコールにあったが、そんなことはどうでもよかった。憐との沖縄旅行を思い出し、その感覚を体の中に探していた。
3時半過ぎに待合所に着いた彼は施設内を散策し、眠れそうな場所を見つけると野良犬のように横になった。1人で沖縄にいる感覚は、憐を思い出して辛かった。
話し声で目覚めた彼は、フェリーの出航が近いことを知った。身支度を整え、外に出る。真夏の青々とした空の下、フェリーは彼を待っていた。
与論島に滞在中、彼は空き家になっていた祖父母の家に滞在した。家の管理を親戚がしてくれていたのだった。
真夏の与論島。そこは空が美しかった。ちょうど、しし座流星群が流れた夏で、彼は息をのみながら見上げた。
すべては儚い夢のよう。彗星が流す光跡を彼は指でなぞった。それは遥か遠く届かない。まるで憐との思い出のように。
彼は1人、与論島を歩いた。遺跡や墓地、浜辺にサトウキビ畑。何にも縛られない海風に誘われるように。
白い砂浜、真っ青な海、果てしなく続く空の先にはきれいに水平線ができる。与論島の海は、地球が丸いと教えてくれているようだった。
館山で見た太陽を、与論島で一人ぼっちで見ている。なにも変わらないと思った。憐がいないことを除いては。
一応、過去に東京でデビューしていたということも手伝い、夏祭りのステージで彼は歌うことになった。それは辛くもあったが、歌えたことに感謝もした。
その祭りは、幼い頃に母親と来たものだった。懐かしかった。サンシンが得意だった祖父、その影響を受けたのかは分からないが、彼も僕も音楽を志した。
祭りも終わり滞在先に戻ると、彼は曲を書き始めた。ここ与論島で受けた思い、感覚、景色、それらを言葉にまとめた。いつか憐と来たかった与論島。彼はその歌を『星空の島』と名付けた。
旅先で彼は、自由を探していたようだった。拠り所となる自由を。そして彼は、答えを見つけたようだった。
東京に戻ると、彼はまた音楽を始めた。ここからの人生は余生だ。余った人生をとにかく生きてみよう。彼はそう思ったようだった。
彼は新たにバンドを組み、自身の音楽レーベルを立ち上げることにした。与論島で作った『星空の島』をスタートにして。
彼は1人で録音を始めた。すべてを自分でやるようだった。どうせ予定のない人生なのだ。1人でのんびりはじめられた。
メトロノームに合わせてギターを録り、ベースを録り、パーカッションを録る。ドラムは遠野に頼んだ。
この頃の彼は、指名手配犯でギターヴォーカルだった
しかし、たまたまこのバンドでスタジオに入ることがあり、遠野と一緒になったのだった。仕事の都合で大幡が遅れていたこともあり、空いた時間でオーバーダビングをしてもらうことにした。
それは本当に簡易な機材だったし、遠野も初見、通常ありえないほど即席のものだったが、彼はそれで十分満足していた。彼は純粋に音楽だけを楽しんでいたのだ。
録り終わった彼は、遠野と遅れてきた大幡にレーベルの話をした。そして、レーベル付きのバンドを作りたいという話も。
2人に参加しないかと聞いたところ、2人とも快諾した。改めて大幡にギターのレコーディングをお願いし、その夜にすべてがまとまった。
そのバンドは『Westball Family Band』と言った。ドラムに遠野、ギターに大幡、そしてベースヴォーカルは彼だった。彼はあれほど時間を費やしたギターを置き、ベースを弾いていた。僕には彼が別人にさえ思えた。
彼の心は、驚くほどスッキリしていた。今までの淀んだ感覚はなくなっていた。彼は、旅先ですべてを洗い流したようだった。彼の心にまとわりついていた、黒く染まった部分を。
2010年11月1日、彼の新たな世界が始まろうとしていた。1999年の日本に帰国したあの日、憐とあきる野で迎えた最初の朝と同じ日。それは、父方の祖父の誕生日とも同じで特別な意味があった。
憐と同じ寅年の祖父は、大事の時に使えと50万円を孫に残した。僕と彼はそれを憐とのデートで使い切った。
彼の場合は分からない。しかし僕に限って言えば、その使い道には今でも満足している。祖父のお陰で、憐とスノボー旅行にも行けたし、帝国ホテルにも泊まれたのだと思う。
母方のルーツである与論島で書いた曲を、父方の祖父の誕生日にリリースする。余生のスタートにはあっていると、僕も思った。
レーベルの第1弾シングル『星空の島』が世界にオンライン配信された。彼らの曲はiTunes、アマゾンなど、世界中どこでも買えるようになった。彼らは自前でPVを撮影し、自由を求めて音楽を楽しんだ。
その後も精力的にレコーディングをし、楽曲をリリースした。それらの曲は、彼がかつて憐を思って書いた曲ばかりだった。ぽっかりと空いた穴を少しずつ埋めるかのように、彼はかつて作った曲を録音した。
2012年には『コーヒーカップ』をリリース。ジャケ写には、かつてリズモアの雑貨店で買ったマグカップが使われた。2つのマグカップは、あの日のように仲睦まじく並んでいた。もう二度と会うことのない、憐の幸せを祈るように。
翌年、2013年には『月』をリリース。それは、娘の月が生まれた年だった。ただの偶然なのか、それとも彼が月の誕生日を覚えていたのか。僕にはそれは分からなかった。
月(Tsuki) By Westball Family Band
(注:作詞作曲を著者が行なっております。ネットでバンド名と曲名を検索いただければ、音楽も同時にお楽しみいただけます)
波の行方 還らない蝶々
月へ連れてって 頬を少し染めた
イチゴを5つ ひとつずつ並べて
美しいのかな 彼女がシャッターを押した
僕はとなりに 彼女を乗せて 走り続けるから
今はまだ 何もないけれど もう少しだけ
こっちを 向いていて 欲しいだけ
それだけ それだけさ
普通の日差し 緩やかな線 砂の上に描いて
道ができ 街ができ始め
僕が生まれて 君とあの日 出逢って
新しい 時間が過ぎて このまま
僕たちは ひとつになれるよ
波の行方 還らない蝶々
月へ連れてって 頬を少し染めた
僕はとなりに 彼女を乗せて 走り続けるから
今はまだ 何もないけれど もう少しだけ
こっちを 向いていて 欲しいだけ
それだけ それだけさ
彼は憐の残像を断ち切るのに10年近くを要し、その間ずっと悔やみ続けた。それは彼を蝕み、彼は誰も愛さなくなった。彼を好いてくれる女性は何人かいたが、彼の心がそれを拒否した。
しかし、ひとり旅から戻った彼の心は、少しずつ開かれるようになった。そして旅から戻って数年が経った頃、一度だけ彼は恋に近い思いを持った。その人となら人生を歩みたいと思った。
その後の数年間、彼は平穏な日常を取り戻していた。僕は彼の幸せを祈ったが、その恋に似た思いが実ることはついになかった。
余生を悟った彼は、やりたかったことに挑戦するようになった。以前のように作曲に没頭することはなくなった。いや、没頭できなくなった、と言ったほうがいいのかもしれない。
作ろうにも、なにも出てこないのだろう。憐のいない彼に、インスピレーションは残っていないようだった。そして、彼が楽器に触れることも減った。
おそらく彼にとって、憐とは本当に特別な存在だったのだと思う。それは僕が憐に抱く感覚とは、また少し違うのかもしれない。
その代わりに、彼は一眼レフカメラとオープンカーを買った。彼は思い立つと車で出かけた。そして写真を撮っては、インターネットにアップした。彼は風景写真が好きで、多くの場所を巡り、多くの景色に癒やされた。
また彼は、LINEスタンプを作ったり、発明で特許を取得したり。これまでの人生とは違い、音楽以外の活動を大切にした。彼はそこに満足感を見出していた。
まるで少しでも憐を思い出さないように、憐から離れた場所を大切にするように。没頭できる何かを求めているようにも見えた。
この頃になると、彼は校正校閲の仕事でもフリーランスとして独立していた。それはまだデビューしたての頃に、アルバイトで始めたものだった。
当時の彼は、所属していたレーベルの親会社で、ラジオ番組を制作するアルバイトをしていた。そして、その後に所属した事務所に紹介されたのが、校正校閲のアルバイトだった。彼はその2つを生活の糧に、音楽活動をしていた。
本来ならば校正校閲とは専門職で、日本語全般、社会、数学、歴史など、わりと広く深い知識が必要なのだが、彼は何も知らないままその世界に入っていた。校正校閲の意味も知らずに。僕はむしろ、漢字の苦手な彼には合わない仕事と思っていた。
彼が初めて携わった仕事は、数字の照合だった。それは主に伝票とかで、日本語力の低い彼でもできると言われていたからだ。
しかし歌を書く、作詞をする彼は、そんな自分を恥ずかしく思った。彼の作品には、校正校閲する価値すらない、そう言われているように感じた。自分の語彙力を恥じ、感覚だけの自分を責めた。
それはやがて、悔しさに変わっていった。もっと日本語を知りたい。勉強したい。そのたびに、彼は憐の顔を思い出した。
彼は校正校閲について独力で学んだ。彼の日本語能力では、それは酷いものだった。見落とし、間違い、指摘もれ、挙げれば切りがない。
漢字が読めないというのは、やはり厳しかった。特に「東雲」などの独特な読みは、知らなければ答えられない。彼の恥じ入る感覚に、僕も情けなくなった。代わりに答えてあげたかった。
彼の恥じる日々は続いた。英語力は、その世界では助けにならない。日本語ができての英語なのだ。彼は恥じる中で覚えるしかなかった。一度覚えれば次は恥じることがない。そうやって弱い部分を改善していった。
少しずつだが彼は前進し、気づきの目を養っていった。文字の上を歩き、紙の大地を眺める。登場人物と意識をつなぎ、風船のように俯瞰する。矛盾や整合性、現実との事実関係を丁寧に読み解く。版面の世界が破綻しないように、気をつけながら。それは媒体によって異なる気づきの目であり、校正校閲で最も大切なことだった。
お金を得る、そのためには何をする。どこを見る、どこへ向かう。その答えに彼は、校正校閲を選んだようだった。
多くの編集プロダクションに営業をかけ、取引先を増やそうとした。日本語が苦手な彼の、一見無謀だとも思える挑戦。それは次第に実を結び、依頼は徐々に増えるようになった。
彼は大手メディアの週刊誌やシリーズ本、大手出版社の小説やエッセイ、アニメーション大手の物品や冊子、専門書や博物館のガイドブック、ネットサイトに動画と、文字のあるあらゆるものに携わるようになった。
憐から逃げてしまった彼の、ただひとつ形として残ったもの。それは校正校閲だったのかもしれない。憐に書いていた拙い日記、それはやがて日本語との対話になり、彼の人生を支える一部になったようだった。彼は言葉を、日本語を大切にし、その深さに学んだ。
2018年、彼らは『アネモネ』をリリースした。作曲してから9年が経った頃だった。ジャケ写は大幡が描いた。いくつもの矢印が、それぞれ別々の方角を指しているが、そのどれもが同じ行き先。その絵は、まさにあの頃の彼だった。
右も左も変わらない。進もうが戻ろうが、答えは1つだけ。憐にたどり着くことのない人生を、たどり着けないと知りながらも、憐に向かって歩く。
そこは永遠に終わることのない、無意味にも思える世界。
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