第21話 崩壊2

 彼はずっと憐の残像と生きていたようだった。それは薄暗く、視界を狭めるようにまとわりついていた。彼の心から憐が消えることはなかった。


 パラレルワールドとはこんなにも残酷なものなのだろうか。僕はこれ以上、彼の人生を見たくなかった。それは僕には考えられないほど不幸で、見るのが苦痛でしかなかったから。


 それと同時に僕は思った。別れた彼が見たかもしれない、僕の世界の家族の幸せ。それは、彼にどれほどの苦痛を与えただろう。そんな必要があるのだろうかと。


 彼の心は荒んでいたが、それでも彼は進もうとしているようだった。憐を迎えに行く、それだけを望んでいた。取り返しのつかない後悔を拒絶しながら。


『月』『君に続く道』『愛しい人よ』『君と僕と』、どれもが憐へのラブレターだった。記憶の中にだけいる、憐を拠り所に。憐との想い出だけが原動力のようだった。


 かつて、リズモアの雑貨店で買ったマグカップ。憐と2人で淹れた、コーヒーの味。戻ることのない時間が、過去の記憶をだけを漂わせた。




 コーヒーカップ(Coffee Cup) By Westball Family Band

(注:作詞作曲を著者が行なっております。ネットでバンド名と曲名を検索いただければ、音楽も同時にお楽しみいただけます)


 コーヒーを淹れるよ 眠そうな君の目を

 こするように愛を 確かめてたんだ

 想いをあなたに 伝えるのはきっと

 難しくないよ 手をつなぐ 感じでいいのさ


 君にとって たいせつな人が

 消えていく前に 伝えよう


 何気ない話も 今の僕にとっては

 捨て方さえわからない 甘いコーヒーみたい

 塞ぎっぱなしの あの頃の想い出は

 独りの部屋で 歌うときだけ 言葉になるんだ


 君にとって たいせつな人が

 消えていく前に 伝えよう


 コーヒーを淹れよう あの頃の2人に

 残された心の 水をしぼって


 君にとって たいせつな人が

 消えていく前に 伝えよう

 僕にとって たいせつな人は

 今はあの場所で 変わらない笑顔で

 新しい世界を 歩いてる




 バンドを失った彼は、最短ルートを探した。何が一番結果に近いのか。彼は諦めていたセッションミュージシャンの道も含めて、もう一度模索していた。バンドメンバーを募集したり、各地で開催されるセッションに参加したり、業界とのコネクションを探した。


 また彼はかつて大学時代に研究した、ベースラインコンピングに歌を乗せる奏法も研究していた。


 当時はアコースティックギターのソロアーティストが人気で、彼はその路線も考えていた。しかし他と同じでは埋もれてしまう。そこで、ジャズからのアプローチを取り入れたスタイルを、考えていたようだった。


 しばらくすると彼は、『ジーナ・リータ』という曲を作った。


 その歌は珍しく、彼自身の感情を歌っていた。過去に戻りたかった彼は、新しい光が生まれるまでは戻れない、そう歌った。それは、彼の人生にも見えた。


 この曲を作り終えた彼は、NHKで放送していた「熱唱オンエアバトル」という番組にデモ音源を送った。当時その番組ではお笑いと音楽の2つがあり、音楽のほうへ出ようと思ったようだった。


 彼には少し自信があった。というのも当時はまだ、そのスタイルで演奏するプレイヤーがいなかったからだ。珍しさが導いてくれるだろう、そう思っていた。


 数日後、彼の携帯に着信があった。見知らぬその番号は、NHKからだった。予想していたとはいえ、彼は嬉しかった。少し憐に近づいた、そう思った。


 2004年7月、彼はNHKオンエアバトルの公開録画に臨んだ。その番組はアーティスト10組が出演し、放映枠を競うというものだった。


 審査員は会場にいるオーディエンスで、それぞれがボールを持っている。そしてそのボールを気に入ったアーティストに投票するのだ。放送されるのは、その中の上位5組だった。


 彼は緊張しながら、渋谷にあるNHKホールに向かった。曲はできたものの、ソロアーティストとして活動していたわけではないので、1人でのライブは慣れていなかった。


 しかし、ミスをするわけにはいかない。できれば放送してほしい。そして、デビューしたい。憐を迎えに行きたい。そう思っていた。


 順番はくじ引きで決まった。くじ運が良いのか悪いのか、トップバッターになった。


 比較対象のいない一番手は、審査には好都合ともいえる。半数くらいのポイントを獲得できる可能性があるからだ。しかし、後続の演奏がすべてよかった場合は、それが最低になる可能性もある。そこは運に頼るしかない。


 結果は5位で、ギリギリで放映枠を勝ち取った。6位との差はわずか12ポイント。おそらく一番手だったことが功を奏したのだと思う。


 その後、ソロ活動を始めた彼に、インディーズのレコード会社が興味を持った。この会社はラジオ番組の制作会社としては大手で、その傍らでインディーズレーベルもやっていた。


 彼が新大久保にある、大久保水族館というライブハウスで歌っていると、少し小太りの紳士が話しかけてきた。


「浅野君だよね? この前のNHKの番組を見てね。今日ライブがあるみたいだったから観に来たよ。君、いいね! 僕はこういう者なんだけど、興味があったら連絡してよ」


 突然に名刺を渡された。そこには「インディーズ・ハウス」と書かれていた。


「ありがとうございます」


 その後彼は、このレーベルを経由して音楽事務所に所属することになった。そして自身のCDをリリースし、本格的な活動が始まった。


 彼は時間があれば路上で演奏をした。立川駅北口駅前のペデストリアンデッキと、渋谷の神南1丁目交差点が彼の主な演奏場所だった。路上で地道にCDを売りながら、事務所から仕事があれば積極的に参加した。


 当時フジテレビで放送していた「HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP」。そこに女性モデルのバックバンドで出演をしたり、中腰姿勢で歌うPVがヒットした楽曲のアレンジャーのレコーディングに参加をしたりした。


 有名ハンバーガーショップのラジオCMでは「タラッタッタッタ」と歌い、日比谷公園での大イベントにも出演をした。


 立川にあるデパートの店舗生誕50周年記念ソングも作り、彼の歌声は立川のオーロラビジョンで鳴り響いた。


 彼は精力的に活動し、それは順風満帆に見えた。しかし、彼の心は死んだように暗かった。


 憐の人生から逃げてしまった彼は、彼女のもとへは戻れなかった。もう月日が経ちすぎていた。現在の彼女を知るのが怖かった。受け入れてもらえるとは思えなかった。彼は、彼女の残像と生きていくしかなかった。


 彼は歌で憐を愛し、歌で憐に謝った。そして、歌で憐の幸せを祈った。過去を悔やみ、戻すことのできない時の中を歩き続けた。憐のいない音楽。そこに彼の求めるものは、何一つ存在しなかった。


 彼は気づいていた。音楽ではなく、憐が一番だったことに。自分があの日に下した決断の過ちに。そして、自分が今やっている音楽の無意味さに。しかし、それはもう遅すぎた。


 それは彼に下された罰のようだった。憐を悲しませた償い。そして、そのまま彼は壊れていった。


 2009年10月、彼は『アネモネ』という曲を書いていた。真っ黒く染まった心に、これ以上進む力はなかった。すべてを終わらせるかのように、それは憐への最後の歌となった。




 アネモネ(Anemone) By Westball Family Band

(注:作詞作曲を著者が行なっております。ネットでバンド名と曲名を検索いただければ、音楽も同時にお楽しみいただけます)


 大好きな あなたのことを

 忘れることに しました

 気がつけば 青春はすべて

 溢れるくらい あなたでした


 どっちを向いても あなたに続く道

 わざと外れてみても あなたへの道でした


 あなたには 2回恋をして

 苦い思いさせて ごめんなさい

 3度目が もし許されたなら

 すべてを捨てても よかったのです


 どっちを向いても あなたに続く道

 わざと外れてみても あなたへの道でした


 3月が 10日過ぎた今日は

 10年目の 誕生日

 アネモネの 花言葉思う

 君を愛す 真実


 どっちを向いても あなたに続く道

 わざと外れてみても あなたへの道でした

 僕のすべては あなたがくれた道

 僕を支えるすべて あなたへの道でした


 アネモネの花

 さようなら

 ありがとう




 彼はこの曲を簡単にレコーディングし、MP3ファイルにした。


「憐。元気にしてる? 突然ごめんね。もう結婚してると思うけど。俺、憐の歌作ったんだ。勝手でごめん。でも、これが最後の歌。聴かなくてもいい。自己満足だから。憐に渡したくてさ。ごめん」


 データを添付すると、彼は送信ボタンを押した。憐のアドレスは、まだ使われているようだった。しかし、彼女から返事が来ることはなかった。


 それを最後に、彼は音楽を辞めた。それまで培ってきた、業界のすべてから手を引いた。


「音楽を辞めた彼に何が残るのだろう」


 彼は独りぼっちで空っぽだった。人生にも音楽にも。




 元の世界の僕は体調も回復し、通常の生活へと戻っていた。仕事にも復帰し、事故に遭う前の生活を取り戻していた。


 しかし僕の心は、まだ夢の世界に囚われていた。それは、逃げたくても逃げられない。夢の世界に戻るたびに、不在中の記憶を共有された。拒否することもできないまま。


 僕はそれが、苦痛でしかなかった。憐のいない世界、憐を失った世界。そんな世界に、何の意味があるのだろう。その世界を見るだけで、愚かな自分に嫌気がさした。


 どうして僕は、パラレルワールドに行くことになってしまったのか。なぜ、僕が選ばれる必要があったのか。苦痛を受け入れるたびに、僕はそんなことを思った。その意味が知りたかった。僕という人格を、なぜにここまで苦しめるのか。


 そもそも、パラレルワールドが2つとは限らない。だとしたら、そのほかの世界の僕はどうだったのだろう。この転移によって得をした僕はいたのだろうか。


 もしも、パラレルワールドが複数あるとして。転移したこと、転移している間、すべてにおいて満足できた僕はいたのだろうか。それを成就させるために、僕は犠牲になっていないだろうか。


 僕は、他のパラレルワールドとの関係を知りたくなった。あの日、事故にあった日、他のパラレルワールドではどうだったのかと。もし他にもあるのなら、みんな一緒に移動したのだろうかと。


 そもそもパラレルワールドの移動が、2つの世界間だけとは限らないじゃないか。似たようなエネルギー帯の世界はもっとあるだろうし、それがランダムに行きかうことだって考えられる。


 僕はこの世界に来た彼が、夢の世界の彼だと思い込んでいた。同時に、僕が転移した世界も同じものだと。


 しかし、別のパラレルワールドの可能性もあることに、やっと気づいた。複数の僕が、どれがどれかも認識できないまま転移していたとしたら。


 僕はこの転移で、初めてパラレルワールドと僕の関係を知った。僕の人生に、他の僕が介入していた可能性があるということを。


 それはつまり僕の人生が、他の僕の影響によってできた可能性を否定できない。僕の判断で、僕の人生は決まってきた。そう思いながら、僕はこれまでを生きてきた。しかし、それは間違っているのかもしれないのだ。


 僕は、僕の持っている記憶自体が怪しく思えた。憐へのプロポーズだって、僕が決め僕がやったものなのか。その時の僕は、僕だったのだろうか。それすら分からなくなっていた。


 ノートに引いた無数の線は、気づくといくつも重なり合っている。息苦しくなった僕は、ペンを置いた。書斎の扉を開け、リビングへと向かう。何か冷たいものが飲みたかった。


「憐。憐って、パラレルワールドとか信じる?」


 キッチンに行くと、コーヒーを飲む憐に聞いた。


「小説の話? もう書き始めてるの?」


 憐はダイニングテーブルの前に立ち、ファッション雑誌に目を落としながら答えた。


「いや、まだなんだけどさ。憐はそういうの信じるのかなーって」


 僕は冷蔵庫のオレンジジュースを取り出すと、コップに注いだ。


「どうだろう。ないとは言えないけど、でも信じることもできないかな。見たことないし」

「そうだよね。なら例えば、別次元にも僕らがいて、世界は同じなんだけど、僕らの人生は違ってる。そんな世界に入っちゃったらどうする?」


 僕は憐のとなりでオレンジジュースを飲みながら言った。


「やめてよ。怖いから、そんな話」


 憐はこっちを向いて答えた。


「いや、例えばの話。その世界の憐とこの世界の憐が入れ替わっちゃって、そっちの世界の僕らは結ばれない運命だとしたら」

「そんなの悲しすぎる……。絶対に智博を探しに行くよ」


 憐は寂しそうな顔をした。それは、夢の世界の憐を思い出させた。


「そうだよね、俺も憐を探しに行く」


 僕は、あっちの世界の憐を思った。そして、目の前にいる憐を抱き寄せた。

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