第20話 崩壊1

 クリスマスも近づき、街は賑やかになっていた。そして、寒さもそれに寄り添うように増していた。24日のクリスマスイブ、夢の世界に戻った僕は憐と一緒にいた。


 夕食までの時間、僕は憐とプレゼントを買いに立川の街を歩いていた。


「憐。クリスマスプレゼントなんだけど、選べなくって。何か欲しいものある?」

「智博がくれるものなら何でもいいよ?」


 憐はそう答えた。


「いや、できれば何か具体的にないかな? 例えば、憐が今度買おうと思ってるものとか」


 僕は聞いた。


「うーん。何だろう。ヴィトンのバッグは買いたいなーって思ってるけど、高いよ?」


 憐は僕を見た。


「なら、それ見にいこうよ!」


 僕は憐に促した。憐は僕の懐具合を気遣ってくれていたが、僕はヴィトンにしようと思った。せっかくのプレゼントなのだから、憐が欲しいものを買いたかった。


 立川にいた僕らは、立川髙島屋店に入った。憐は慣れた様子で店員さんの挨拶を受けていたが、慣れない僕は少し緊張した。


「智博。こっち。これ、これを買おうと思ってるんだー。可愛いでしょ?」


 憐に呼ばれて行ったそこには、肩からかける小さめのバッグがあった。


「本当はね。これとこれで悩んでるんだ。どっちも可愛いから」


 憐は表面に段差のあるデザインと、平らなデザインのバッグで悩んでいた。


「智博。ちょっと見てもらえる?」


 そういうと、憐はバッグを肩から掛けた。


「どっちがいいと思う?」


 僕に見せるその仕草がとても可愛かった。


「バッグなんてなくても可愛い。というか、憐はなんだって可愛い」


 そう思ったが、そんなことを言うと怒られるので言わなかった。


「こっちの平らな方が似合う気がする」


 アクティブな憐には、凹凸の少ない平らな方が似合うと思った。


「やっぱりそう思う? 私もこっちの方が合うなー、って思ってたんだ」


 憐は鏡を見ながら笑った。


 店員さんも、笑顔のまま、


「はい。とてもお似合いです」


 と、答えた。


「憐。俺、そのバッグ買うよ」


 僕はプレゼントをそれに決めた。


 クリスマスディナーは、国立にあるフレンチレストランを予約してあった。暖色の内装がクリスマスとマッチして、気持ちを温かくしてくれた。


 食事をしながら僕は、去年のクリスマスイブを思い出した。ウルルに着いたあの日、最悪のクリスマスと憐の寂しそうな顔。憐には、僕と付き合い直したことを後悔してほしくなかった。




「智博。ちょっと来てくれる?」


 憐の声に僕は目覚めた。自宅療養になって2週間。僕はだいぶ回復し、普通に生活を送れるようになっていた。


「分かったー」


 寝ぼけながら僕は答えた。


「また見れなかったか。どうやったら戻れるんだろう」


 眠りについても、夢の世界に戻ることは稀になっていた。僕が最後に戻れたのはもう2週間も前、病院を退院する前夜だった。


 最後に見たあの日、僕は彼の視界を見るだけの傍観者になっていた。彼の意識は、そこにしっかりと存在していた。僕は彼の支配する意識に入れないまま、テレビから流れる映像を追うだけのオーディエンスになっていた。


 僕は憐との会話を失った。冗談を言って笑ったり、急に抱きついて怒られたり、それまでの当たり前がすべて閉ざされてしまった。チャンネルが切り替わってしまったかのように。


 僕はその事実が受け入れられず、入り口を探した。どうにか夢の世界に戻ろうと、1人になるたびに眠った。しかし戻ることはなく、夢の世界の憐のことばかりを考えるようになっていた。


 僕には、やり残したことがたくさんあった。僕が変えてしまった憐の人生、それを修正したかった。


 そもそも僕は、最初の段階でミスをしてしまった。史実通りにやれていれば、こんなに違ってしまうことはなかったはずだ。


 僕の初動が憐を苦しめている。戻れるならばもう一度戻って、あそこからやり直したい。2人の憐の人生が、こんなにも違ってしまうなんて許せなかった。


「智博。呼んじゃってごめんね。ちょっとこれ開けてもらえる?」


 キッチンに行くと、憐は瓶の蓋を開けていた。


「これ、固くって。全然回らないの」


 回してみたがビクともしない。


「ぬぅぅぅ。かたぃぃぃ」


 何度やってみても、それは全く回らなかった。


「何これ、めちゃくちゃ固いよ」

「でしょー。もう困っちゃって。変に開けてこぼれても嫌だし」


 憐の話を聞きながら、僕はふと思った。この世界に、「蓋を開けられる僕」が来ることはあるのだろうかと。


 この世の万物が起こす、すべての元となる原動力。それは遥かな古代、この世の起源から始まっている。


 宇宙の果てでも起こるし、地球の隅でも起こる。太陽のフレアだってそうだし、バクテリアの増殖だってそうだ。無限とも思える事象には個々に原動力があり、それがこの世のすべてを生み出している。


 例えばこの瓶もそうで、これがここに来るまでの背景には多くの事象が積み重なっている。それはきっと、非常に大きな質量だろう。


 憐がこの瓶詰めを購入し、さっき開けようとしたエネルギーも当然堆積しているし、僕が受け取って開けようとしたエネルギーも堆積している。この瓶に堆積した原動力の最終地点は現時点になり、それは僕になる。


 世界が生み出す原動力はその発生直後から累次し、数え切れないほどの層になっているのだ。それらのエネルギーは時間とともに線のように伸び、万物の数だけ存在する。


 無限とも思えるその線は、縄を編むようによじれ合い、巨大な1本のエネルギーになっていくのだ。それがこの世の潮流や流れと呼ばれ、巨大な河として例えられるのだろう。


 万物の数だけあるエネルギーの内、僕のエネルギーは1本に過ぎない。その影響力は、0.1パーセントにも満たないだろう。


 しかし、エネルギーは伝播する。となりのエネルギーから、またそのとなりへ。僕から始まった影響も、やがてはすべてに届いてしまう。それは情報の共有でもあり、時間の共有でもある。


 それぞれのエネルギーは、そうやって情報と時間をつなぐことで、連続した一体性を持つようになるのだろう。だから無限とも思えるその線は、縄を編むようによじれ合うことができ、巨大な1本のエネルギーになれるのだ。


 もしここに握力の強い僕が来たとしたら、物理的に言えばこの瓶の蓋は開くかもしれない。しかしこの場合に重要なのは、その僕がなぜ握力を鍛えたのかということだろう。


 本来、この世界の潮流に生きる僕はギタリストを目指している。つまり、握力を鍛えることには関心がないし、だからこそ、この世界の潮流は正しく存在しうる。


 逆に握力を鍛えた僕は、ギタリストを目指していただろうか。僕にはそうは思えない。ギターの練習に費やす時間があるのなら、握力トレーニングに使うほうが効率的だ。


 人間の原動力の根源は、大体において意識である。目的となる意志が、すべての始まりとなる。それは、欲し求める対象があるから生まれるのだろう。


 握力を鍛える行為。それは、彼の目指す自分像がそこにあるからこその原動力であり、僕の求める自分像によってではない。



 ギタリストになりたい僕と、握力の強い僕。それは見た目が同じ僕だとしても、エネルギーとして見た場合は全くの別物になる。異なる原動力から始まっているのだから。


 僕が彼の世界に転移した場合、僕はその世界にそぐわない異物になるだろう。それは、ここに握力の強い僕が転移した場合も同じだ。情報と時間の共有に、一体性がなくなってしまう。


 潮流とも呼ばれるエネルギーの集合体は、そういった異物を絶対的に嫌う。拒絶する性質を持ち合わせている。それは世界を破綻させないための当然の反応で、エネルギー自身に意識があるとか、そういったものではない。


 例えるならば磁石のS極とN極のように。水と油のように。単純に、反発しあう性質上の問題なのだ。


 この世界の潮流に彼の居場所がない以上、彼の転移はありえないだろう。同じ人間だとしても、エネルギーがそぐわなければ、転移が成立しないということだ。


 しかし稀にその隙間を縫って、パラレルワールドを移動する事案もあるだろう。それが僕に起きている事象なのかもしれない。


 それらはおそらく、互いに近しいエネルギーを持つ世界間だからこそ起きてしまうのだろう。あくまでも似通った世界で、互いが破綻しない範囲内で、この転移は起こるのではないだろうか。


 それはつまり、僕がどれだけ勝手な行動をしたところで、その世界の破綻は起こせないということ。今の瓶のケースで考えれば、ここに転移してくる僕はおそらくどれも開けられない。仮にもし開けられたとしても、この世界を破綻へと導ける人間ではないということ。


 この世界の僕と、夢の世界の僕。僕らはお互いに無害と認識されているからこそ、転移したのだ。つまり僕ら2人には、世界の潮流を変えることはできないということ。


「憐。ありがとう。俺、少し分かった気がするよ」


 夢の世界の傍観者となった僕は、この後すべてを辞めたくなるほどの絶望を見ることになる。苦痛と怒りしか生まれなかったそれを、僕はまだ知らなかった。




 あれは2003年1月。僕が一番恐れていたことが起きた。突然アンプチが解散したのだ。それはメンバー間の揉め事が原因だった。


 アンプチの解散は、彼に大きな影響を与えたようだった。これが彼の人生を変える、最悪のターニングポイントになった。


 彼は憐との結婚を真剣に考えていた。そもそも彼があれほど曲を書き、音楽に没頭したのも、憐との人生が目標にあったからだった。


 それは同時に彼の悩みでもあった。音楽のせいで、憐を苦しませていると思っていた。自分が、憐の足枷になっている気がしていた。


 それは、彼を焦らせもした。憐はもう29歳。これ以上、憐を待たせるわけにはいかない。少しでもいいから結果が欲しかった。


 しかし、頼みのバンドは解散し、スタート地点に戻されてしまった。それまでの時間は、音もたてずに溶けていった。


 彼の脳裏に「就職」という文字が浮かんだ。それは、彼が今まで考えまいとしてきたこと。彼が唯一嫌ったもの。


 しかし冷静に考えれば、就職が一番無難なのも理解していた。それは僕の世界を見た彼ならば、当然だと思う。


 憐と人生をともに歩く。その未来像を描くには就職が一番だった。しかし、彼は夢を捨てられなかった。僕のように就職をして、趣味としての音楽を楽しむ。それを受け入れる自信がなかった。


 食事の時間を惜しんでまで、何十時間と練習をしたギター。海外にまで渡って、費やしてきた時間。そしてここ日本で積み上げた、これまでの努力。それをすべてやめてしまう。


 バンドという希望をなくした彼に、これまでの人生を捨てるような未来は怖かった。これまでの道筋で、憐とともに生きたい。しかし、バンドを組み直して再出発をする、そんな時間はない。


 僕が入れ替わったことで、彼にどれほどの影響を与えてしまったのかは分からない。そもそも、互いの人生を変えるなんて、できないのかもしれない。


 それでも、彼が僕の人生を少しでも体験したのなら、憐を捨てるなんてことはありえないと思っていた。彼は家族を知ったはずだ。僕の世界の憐との会話、子どもたちとの触れ合い。その心地よさや温かさ、家族がいる安心感を。


 それならば就職して、その上で音楽を突き詰めればいいじゃないか。彼は僕とは違う。彼には僕よりも音楽の才能がある。それはきっと、結婚しても変わらない。 彼がこれまで努力してきたことは「無」にはならない。それを志した原動力は続いていくし、そのエネルギーは堆積していくのだから。


 しかし、僕の願いは届かなかった。彼がずっと感じてきた罪悪感。それは憐にも音楽にも一途にいたいがゆえに、天秤にかけてしまう苦悩。彼はそんな自分をずるく、不誠実だと思った。


 憐の羽ばたきを、阻害している。自分は憐をつなぐ鎖であり、引き留める錘。羽ばたこうとする憐の手を、自分のためだけにつなぎ続けている。いつまでそれを続けるのか。解放してあげないのか。


 この事件をきっかけに、彼は憐との別れを決断してしまった。彼は完全に自信を失っていた。憐と生きていく自信を。


 彼は、憐に人並みの幸せを送ってほしいと願った。それが彼といることで叶えられないのであれば、ほかの誰かに託すしかないと思った。


 そしていつか有名になって、その時まだ憐が1人だったら迎えに行こう。そんなことを、彼は本気で信じるようになった。いや、恐らく自ら信じ込ませたようにも感じた。


「憐のためなら何だってできる、はずだった……」


 彼は自分に失望し、逃げるように音楽にすがった。風船のように浮かぶ2人の未来を、彼は自らの手で割ってしまった。


「本当にそう思う? 今だけじゃないの?」


「本当に辛かったんだよ?」


「もう一回だけだよ」


 憐の言葉が、彼の中でこだまするのが分かった。


 憐は、きっと気づいていたのだと思う。涙の別れと、その意味。理解すること、向き合うこと。その覚悟がない限り、2人の未来はありえないということを。


 そして彼に、気づいてほしいと願っていたのだと思う。乗り越えてほしいと、望んでいたのだと思う。苦しい時も、辛い時も、支え合って突き進めるように。


 憐の未来への涙は、彼の涙と混ざり合って、僕の感覚を伝った気がした。2人の傷の深さが、終わりを証明しているように感じた。彼は憐を失い、歌詞だけが揺れていた。


 2度と見たくない光景だった。消せるものなら、画面ごとすべて消し去りたかった。僕はこんな光景を見るために、彼の人生を歩んだわけじゃない。


 僕は本気で殴りたいと思った。自分しか見えない彼を、甘ったれた彼を、臆病な彼を。そして、憐の愛から逃げてしまった、最低の彼を。


 愛しているからといって、常に全力でいる必要なんてない。いつも力一杯に抱き締めなくたっていい。相手の愛を頼ったっていいのに。


 彼にはもっと、憐に寄りかかってほしかった。不安を打ち明けてほしかった。愛はもたれあって1つになるのだから。

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