第18話 再生1
「月、パパを起こしてあげて」
「はーい! パパ、起きて!!」
「ッゥァハー!」
月の声に驚いて、僕は息を飲み込みながら目を開けた。
「なっ! やめてよ、こっちがびっくりするから」
あまりの唐突な目覚めに、憐は少し驚いたようだった。気がつくと、僕は病院のベッドの上にいた。
「智博。なにか変な夢でも見たの?」
憐が心配そうな表情でこっちを見ている。あまりにも普通に話しかけてくるので、僕のほうが戸惑ってしまった。
どうやら僕の意識は、少し前から戻っていたらしい。でもそれは、僕自身ではなかったようだ。だとしたら、いったい誰が僕の代わりをしていたのだろうか。僕が元の世界ではっきりと目を覚ましたのは、間違いなくこれが初めてだった。
「きっと、別の俺がいたんだろうな」
僕にはうっすらと感じる、記憶のようなものがあった。それは僕ではない、おそらく別の僕が体験した感覚に思えた。
月の操作で、ベッドが少しずつ起き上がった。
「パパ、今日はこの花を採ってきたよ」
星が僕の手を取って、花を差し出した。
僕はまだ、満足に話すことはできないみたいだった。ただ、問いかけに反応することはできていた。目が見えるようになった僕は、多くの感情を表現できていたようだった。もちろん、僕ではない僕がやっていたことだと思うが。
初めて見るそこは、清潔感のある個室だった。そこには小さい音でジャズが流れていた。ロバート・バルザー・トリオとジョン・アバークロンビーの演奏する『Night』だった。
憐は、僕の好きな曲を絶えず流してくれていたようだった。ゆったりとピアノのアルペジオが流れる。まるで夜空を流れる天の川のように。やさしく、空間を大切にしながら音を紡いでいく。
目覚めたばかりの僕にはそれがとても心地よく、安心できるものだった。僕の頭の中に、少しずつ記憶が戻っていく。あの日のスーパーの帰り道のことなどが。
サイドテーブルの上におかれた卓上カレンダーは、2020年2月となっていた。
「まだそれだけしか経っていないのか」
僕は驚いた。あっちの世界とは、時間の流れるスピードが全然違う。僕は体験した出来事を整理したかったが、頭が朦朧としてできなかった。
家族のもとへと戻れた喜びは、ゆっくりと、だが強力な圧力を持ってやってきた。僕の心を喜びのその先へと、流れる音楽が押し上げていく。そして、その音の粒がはじけたと感じた瞬間、僕の頬を涙がつたった。嬉しさ、喜び、安堵、あらゆる幸福を表す感情が僕を解放していた。
「憐……。帰ってこれたよ……。やっと、帰ってこれた……」
帰ってこられた喜び以外、言葉が浮かばなかった。目の前には家族がいる。懐かしい顔があり、僕に触れている。その温もりを感じられる。
「ああ。今のこの気持ちを伝えたい。家族に伝えたい」
僕は強く思った。話すことのできない僕は、シーツを握りしめた。
憐は疲れているように見えたが、とてもきれいだった。それは、夢で見た、若き日の憐と何も変わらなかった。
こんなにすてきな女性が、この世界で他にいるだろうか。僕はそう思うと同時に、夢の世界を思い出していた。
憐の涙、憐の言葉。そして、僕の過ちを。
僕はまだ、夢の世界ともつながっていた。眠るたびに夢の世界へと引き戻された。それは長く続く場合もあったし、短い場合もあった。
家族と触れ合えた僕は、希望を持ち続けることができた。少しずつでも、元の世界へ戻れるようになっている。そう感じた。
そして僕は、2つの世界についてなんとなくだが、分かり始めている気がした。
そこには2つの異なる世界が存在し、同時に僕も2人いること。僕ら2人が同時に同じ世界にいることはなく、互いにどちらかの世界に入っていること。その間の記憶はそれぞれにしかないが、うっすらと感じることができること。まるで肉体が感覚として残してくれているかのように。
2つの肉体を2つの意識が、互い違いに入れ替わっている。おそらく僕たちは、お互いの体を行き来しているのだろう。
元の世界に戻った僕は、もう1人の自分が夢の世界の僕なのだろうと思った。そして、きっと彼も同じように気づき始めていると。
彼は僕の世界を見て、なにを思い、なにをしたのだろう。僕の知る過去は、どのように変化したのだろう。そんなことを気にしながら、僕は後悔をしていた。彼に謝りたかった。
僕が介入したことによって壊してしまったであろう、彼の人生について。本来あるべきだった世界を、僕の存在が邪魔している。その世界を元の状態に戻さなければ。憐と彼の関係を。それは、僕がやらなければならないことだと思った。
夢の世界に戻った彼は、アンプチの活動を再開していたようだった。ライブハウスからのオファーは増え、スケジュールは埋まっていた。それと同時に、憐との道も模索しているようだった。
「今ごろ何してるんだろう」
彼と入れ替わった僕は、憐を思い出していた。ライブをやるほどに、憐の声が聞きたくなり、憐の笑顔が見たくなった。それと同時に、憐の寂しそうな顔や涙も浮かんだ。
「また、彼女を苦しませる気か?」
心の中で誰かが問いかける。
「あんなに嫌だったんじゃないの? そんなに軽い気持ちだったの?」
僕からの問いなのか、彼からの問いなのか、それは分からなかった。
「もう、私を見て苦しまないでいいからね。ずっと苦しませてごめんね……」
憐のその言葉が、頭から離れることはなかった。苦しませていたのは、僕のほうなのに。ライブを終えるたびに、僕は辛くなった。
僕は憐に謝りたかった。苦しませたこと、悲しませたこと、憐が僕を思ってくれていたこと。すべての罪を滅ぼしたかった。
謝ったからといって時間が巻き戻るわけではないし、そんなことは十分に分かっていた。それでも、一言だけでも謝罪したかった。これが一方的なエゴだと気づいていても。
僕は憐の携帯にメールを送った。返事が来ることを祈りながら。
「久しぶり。智博です。憐に話したいことがあるんだけど、今度会ってもらえないかな」
憐のメールアドレスは変わっていないようだった。だが、憐からの返事はしばらく来なかった。当然だと思った。今さら何の用だと。
「久しぶりだね。智博。元気にしてる? 日本に帰ってきたんだね。会うのはちょっと、どうだろう。やめといたほうがいいんじゃないかな」
1週間後、憐から返事が届いた。
「彼氏ができたとかなら、あれだけど……。もし、もしも、そうでないのなら。一言だけでもいいので、どうかお願いします!」
僕は返信した。
「彼氏はいないよ。疲れちゃったから、恋愛は今はいいかな……」
「憐。本当にごめん。オーストラリアでのこと。俺、すごい後悔してて」
憐の気持ちも汲み取れないまま、また僕は自分のことばかりになっていた。きっと憐は、僕に会うと辛くなってしまうのに。あれだけの言葉を言わせてしまったのに。
僕はパジェロミニで、憐の実家のある大和市へと向かった。憐に直接謝罪をするために。そしてできることなら、今の気持ちを伝えたかった。
「や、やあ。憐。久しぶり」
僕の言葉に、憐は軽く会釈をした。憐はどことなく疲れているように見えた。
「憐。何か食べたいものとかある?」
「智博に任せるよ」
僕はうまく話すことができなかった。パースを発って以来、憐とまともに話していない。憐の顔すら、まともに見ていない気がした。
僕らは無言だった。僕は頭の整理もできないままに走っていた。そして、気づくとみなとみらいに来ていた。
当時まだ開発途上だったみなとみらいは、ビルよりも空き地のほうが多かった。建設予定地のそれは、本当にビルが建つのかさえ疑わしかった。
空き地に作られた駐車場に車を停めると、僕らはクイーンズスクエアへと向かった。2人とも少し前までは一緒に暮らしていたのに、憐との距離は遠く感じた。
「懐かしいな。ランドマーク」
僕はつぶやいた。
「そうだね」
憐もつぶやいた。憐は何も聞いてこなかった。
僕は、初めてロイヤルパークホテルに泊まった時のことを思い出していた。抽選券でくじ引きをした、一連の流れが頭をよぎった。初めてみなとみらいに来たのも、憐に連れてきてもらった時だった。憐は僕に多くの初めてをくれた。たくさんの景色へ導いてくれた。
言葉を見つけられない僕は、行き先も決められないまま歩いた。ショーウインドーの服を横目に。憐は無言で、寂しそうな表情はあの日のままだった。しばらく歩いた僕らは、テラスのあるカフェに入ることにした。
「憐、俺買ってくるよ。何にする?」
「カフェラテにしようかな。ありがとう」
列に並ぶと、メニューを見た。僕は、カフェのメニューを選ぶのがあまり得意じゃない。いつも決めかねてしまうのだ。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
「えーっと。じゃあ、カフェラテ2つで」
いつものパターンになった。憐と同じものを頼む。まるで社会勉強をしている子どものように。
「お砂糖などは、こちらからお取りください」
「はい。ありがとうございます」
こぼさないように気を付けながら憐のもとへ向かうと、彼女は遠くを見つめていた。それは僕の好きな憐の癖だった。ほんの少しだけ瞼を下げ、また戻す。よく見ていないと気づかない、ほんの小さな仕草。
憐がわざとやっているのかは分からないが、僕はその癖が好きだった。憐は遠くを見て、物思いにふける時だけこれをやる。僕は立ち止まり、見惚れていた。
「お待たせ。カフェラテ買ってきたよ」
テラスの階段を降りると、憐が振り向いた。
「智博は何にしたの?」
「俺? 俺も憐と同じのにしちゃった」
なるべく明るい雰囲気にしようと、僕は振舞った。照れや動揺もあったが、憐の笑顔を見たい気持ちもあった。
「で、智博。話したいことって?」
「いや、えっと。その……」
憐はこっちを見ていた。静かな、本当に静かな瞳で。
「憐。オーストラリアでは本当にごめんなさい。俺が悪かったです。許してください」
「…………」
憐は何も言わず、こっちを見ていた。寂しそうな表情は変わらなかった。
「俺、本当に後悔してて。本当に、どうかお願いします……」
僕は再度頭を下げた。
「何が悪いと思ってるの?」
憐が小さく答えた。
「自分勝手だったこと、傷つけたこと、話を聞かなかったこと。いろいろ全部です……。謝っても謝りきれないくらい」
憐は、テーブルに置かれたカフェラテに目を落とした。そして少しの沈黙のあと、言葉を選ぶように慎重に答えた。
「本当に、そう思ってる? 今だけなんじゃ、なくて?」
この言葉が持つ意味を、この時の僕は分かっていなかった。本当に大事なのは、自分の心に対する理解、そして覚悟。
パースを発ってからの言動や行動。そういった衝動を、僕自身が理解できているのか。その理解がない限り、2人の未来なんてありえない。そのことを、憐は考えていたのだと思う。
「いえ。心から思ってます。どうか許してください。お願いします! もう一度付き合ってください!」
憐は黙って聞いていた。寂しそうな表情が変わることはなかった。憐はまた遠くを見て、静かに答えた。
「本当に辛かったんだよ?」
僕はこのままブラックホールに吸い込まれて、消えてしまいたいと思った。
「もう一回だけだよ」
憐は振り向きながら答えた。声も荒げず静かに、少しだけ喉を詰まらせながら。
その日、憐は最後までお父さんの話をしなかった。今年5月にお父さんが旅立たれたことについて。
あの日以来、僕らは恋人同士に戻った。憐は僕の気持ちを受け入れてくれた。僕たちはまた1つになれた。でも今思えば、一度ついた傷は簡単には消えない。
憐はあの時すでに、昔のように笑わなくなっていた。僕の好きな瞳。変わらないその目を見せてくれても、深く潜ればそこは暗闇だったのだと思う。
憐は変わらず僕らのライブに来てくれたし、支えてくれた。でも昔と同じに見えることも、実際は変わってしまっていたのだと思う。
ちょうどこの少し前の2002年4月、アンプチは『ダンシングモンキー』というデモCDを発売していた。これは僕がここにいない間に、彼がレコーディングしたものだった。
そこには『僕の命』という曲が入っていて、それは彼が憐を思って書いた曲だった。元の世界の憐は知らない、彼がこっちの憐だけに送った曲。
リズモアの家を去る前日、憐は僕に花を残した。花瓶代わりのコップには、紫のリボンが結ばれていた。憐が去った後も、その花はリビングで咲き続けた。やがて花はしおれ、そして枯れてしまった。しかし僕は、どうしても捨てることができなかった。憐が唯一のこしたもの。彼女の形見だったから。
この曲は、その花から生まれた。枯れてしまった花から。彼はこの曲に憐への謝罪、憐への思い、憐への感謝、あらゆる感情を込めた。もしいつかまた憐に会えたなら、伝えたいと思うすべてを。
僕の命 By Ampticpomp
(注:作詞作曲を著者が行なっております。ネットでバンド名と曲名を検索いただければ、音楽も同時にお楽しみいただけます)
暗い部屋に 君の花は 声も立てずに 今日も咲いている
紫のリボンは 何を意味するの あなたのように 今日も僕をつつむ
古いテーブルと 脚のよれた椅子 夢を見るには 十分足りるさ
いつか朝がきて 君の花は消える それでも僕は ずっとずっと水をあげる
声が鳴り 響きあう この部屋に 君と僕
真夜中に 踊りだす 暗いなか 二人きり
生きてると 感じてる 瞬間を 今は待つよ
信じてるの ひと言で 走り抜ける いのち
眠れない夜が 疼きはじめ 懐かしい歌が 聴きたくなる
あの時あなたが くれた言葉が 胸の奥のほうで 流れながれ僕をさそう
声が鳴り 響きあう この部屋に 君と僕
真夜中に 踊りだす 暗いなか 二人きり
生きてると 感じてる 瞬間を 今は待つよ
信じてるの ひと言で 走り抜ける いのち
花にやる水はある 足りないものなどない
夢を書くペンはある 足りないものなどない
過去があり今はある いらないものなどない
君がいて僕はいる 今すべてがはじまる
今すべてがはじまる
声が鳴り 響きあう この部屋に 君と僕
真夜中に 踊りだす 暗いなか 二人きり
生きてると 感じてる 瞬間を 今は待つよ
信じてるの ひと言で 走り抜ける いのち
真夜中に 咲く花に 僕の声は 見えない
果てしなく 続く日々に こころは 削られる
生きている 君がいる すべての 不安はいつか
愛してるの ひと言で 走り抜ける いのち
いのち……
僕の命……
いのち……
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