第16話 別れ1

 ダーウィンを後にした僕らは、ブルームという海辺の町を目指した。そこは、オーストラリア大陸の西海岸に位置する町だった。


 ダーウィンから一路南下して、キャサリンへ。そこからは西へ、ひたすらに1号線を移動した。すると、ノーザンテリトリーと西オーストラリア州の境界に検閲があった。


「懐かしいな。そういえばあったな、検閲」


 同じ国内なのに、検閲があることに僕は驚いた。それが印象に残っていた。果物など持ち込み禁止のものが多々あるのだった。


 その頃には辺りも暗くなりはじめていて、僕らは先を急いだ。暗くなる前に夕食の準備をしたかったのと、夜道の運転が危険だったからだ。


 目的地であるブルームに着くまでの道中、僕たちは何度かキャンプをした。暗くなった中での、テントの設営は大変だし面倒だった。


 眠るためにギアを出し、テントや寝袋の準備をする。翌朝にはそれを元の形に戻し、車に積みなおす。その繰り返しに、建設的な要素など見つからないのだ。


 食事だってそうだ。余った食材を使って、疲れた体で夕食を作る。食事の味に感動を覚えるとか、そういった娯楽を帯びたキャンプではない。


 これは次の移動のための通過点。前進するための補給でしかないのだ。僕らは、お互いを励ますように抱き合って眠った。


 ダーウィンからブルームまでの道は、見た目以上に長い。走っても、走っても着かなかった。右足でアクセルを踏むのに疲れたら、左足で踏む。そんな特異な芸当を駆使しつつ、僕らは交代して走った。


 なるべく夜道の移動を控えていた僕たちだったが、しばらくするとそう言ってもいられなくなった。予定よりもだいぶ遅れていることが分かったからだ。このペースでいくと、見たい場所を回れなくなってしまう。


 僕らはキャンプすらも諦め、順番に運転をした。夜道を走り、助手席に座る間は仮眠をとった。そうでもしないと、体が持たなかった。


 僕が運転の番になって、夜通し走っていたある日。僕はどうしても眠くて、ついに目を閉じてしまった。


「ん? わっ!」


 ふと目を覚まし、慌てて右へハンドルを切った。目の前をカンガルーが横切っていた。カンガルーは、車のヘッドライトに飛び込んでくることがある。だから夜の運転は、注意が必要だった。


 目を覚ました僕は、急いで車を止めて外に出た。左のヘッドライトのガラスが少し割れていた。周りを見回したが、カンガルーの死骸は確認できなかった。


 となりで寝ていた憐も、驚いて目を覚ました。僕は事情を説明し、反省した。憐を危険に巻き込むところだった。


 僕らは路肩に車を止め、少し休むことにした。疲れ切っていた僕らは、あっという間に眠った。しかししばらくすると、2人に異変が起きた。僕らは、同時に金縛りにあっていた。


 同時に目覚め、互いの話を聞いて震えた。その場所にいること自体が、怖くて無理だった。僕は、急いで車を走らせた。


 夜の移動では、昆虫にも困らされた。雨粒のように昆虫が飛んでくるのだ。ヘッドライトに招かれる虫、それを捕食する小さなコウモリ。みんながみんな、車にぶつかった。


 バチバチ! バチバチバチ! バチバチバチ!


 大粒の雨のように、虫や小型のコウモリがぶつかる。恐怖は感じないのだが、気持ちのいいものではなかった。僕らは夜道をぬけたくて、先を急いだ。


 朝日が昇ると、そこは荒野に戻っていた。


「やっと抜けたー!」


 熱帯雨林の木々は、暗闇のなかで置き去りにされたみたいだった。


 変わらない景色の中、僕らは西を目指した。茶色の大地と、色素の薄い草。中木と空と地平線。たまに見かける動物に注意をしながら走っていると、突然ブレーキが重くなった。


「え! ブレーキ! 壊れたかも!」

「え! ホント!?」


 僕も憐も焦った。


 止まろうとエンジンブレーキで減速しながら、ブレーキを強く踏んだ。


 ググッ!


 強く踏むと、ブレーキは効いたようだった。道はひたすら直線。ここが峠道でなかったことが救いだった。


「ブレーキブースター?」


 僕はそう思った。重くはなったものの、ブレーキ自体は効いていたので安心した。運転はしにくくなったが、まだ大丈夫。


 ただ、カンガルーにぶつかりそうになったことも、金縛りにあったことも、今回のブレーキにしたって、元の世界で経験した気がしない。


 こんなにも、いろんなことが起きただろうか。過去を振り返ろうとしたものの、それより疲れが勝っていた。僕は振り返ることすら、すぐに忘れてしまった。


 12月6日木曜日、ローバックロードハウスを直進した僕らは、やっとブルームに着いて叫んだ。


「海だー! やったー!」

「きゃー! うれしいー!」


 これは本当にうれしかった。ここまでの間、僕たちはろくに休まず、大した観光もせず、ひたすら移動に費やした。疲れとともに、移動距離が短くなる中。


 僕らは、それでもどうにか前進してきた。時間と距離を稼ぐために。それは非常にハードであったし、変わらない景色が苦しみを助長させた。


「智博! 見て! 見て! あの海の色! すごくない?」

「うん! すごい! 信じられない!」


 内陸の景色に疲れていた僕らには、海が別世界に見えた。キラキラと輝く波。それは太陽の光をはじき、まるで海と空が互いのアオさを競い合っているかのようだった。


 ブルームには、ケーブルビーチという夕陽のきれいな浜辺があり、僕らはそこでラクダに乗った。


 砂浜を染めながら、海に溶け出していく夕陽。それを眺めるラクダの、足元から伸びる影。その光景に、僕は元の世界を思い出していた。憐と2人で乗ったことがあった、そう思った。


「ああ……。このオレンジの世界……、知ってる……」


 僕は、今の今まですっかり忘れていた。その美しい光景は、僕の記憶のどこにあったのだろう。こんなに美しい景色を、どうして忘れてしまっていたのだろう。その景色を見て、僕は泣いてしまいそうになった。


「俺の記憶なんて、あてにならないもんだな」


 僕は、心からそう思った。これまでの違うと思った出来事。それもきっと、気のせいかもしれない。僕は自分の記憶力が情けなかった。


 僕たちの乗ったラクダは、ヒトコブラクダだった。憐が前、僕が後ろに乗ったラクダは、見かけ以上に背が高かった。


 立ち上がる時には前後に強くスイングをし、寝ぼけていたら落とされるかもしれないと思った。ラクダは導かれるようにゆっくりと歩き始めたのだが、それが思いのほかに揺れたので、僕らは驚きながら笑った。


 潮風や景色の変化は、僕らを復活させた。ラクダの優しそうな眼にも。荒野のドライブに限界を感じていた僕らに、移動の力を与えてくれた。


 ブルームを発った僕らは、次の目的地であるモンキーマイアを目指した。オーストラリア大陸の西側を、大陸に沿って進んだ。変わらない荒野の一本道は退屈だったが、僕らは旅の目的をまた見出していた。


 ブルームからモンキーマイアまでの道のりは、おおよそ1800キロメートル強といえる。それは日本最北端の宗谷岬から、鹿児島湾に浮かぶ桜島までの直線距離と変わらない。


 1日の運転で900キロメートル以上を走破できれば、1泊2日での移動も可能だろう。しかし僕らにはそこまでのガッツはなく、3泊4日の行程を選んだ。


 僕らはひたすらに1号線を南下した。ポートヘッドランドを抜け、途中でオンズローを経由しカーナーボンへ。そしてそこから、一気にモンキーマイアへ。


 6時間程度を移動に費やし、余った時間で少し観光をした。カーナーボンまで来てしまえば、モンキーマイアは目と鼻の先といえた。


 目的地のモンキーマイアは、ツアー客で賑わっていた。日本人観光客もたくさん訪れていて、そこはリゾート感あふれる光景そのものだった。


 僕はやっと来られたことがうれしかった。もちろん、過酷な移動から解放されたのもそうだが、ここモンキーマイアは強く印象に残った場所だったからだ。年を取ったらまた来よう、そう思ったくらいだった。


「憐。イルカ、この時間に行くと見れるっぽいよ!」


 僕らはまず、イルカを見にいった。僕はもう一度イルカを、目の前で見たいと思っていた。気が付けば走りだしていた。モンキーマイアのシャークベイでは、浜辺にやってくるイルカと遊ぶことができた。


 このツアーでは、イルカの生態なども教えてくれる。シャークベイのイタチザメのことも。イルカとイタチザメの関係は興味深いものだった。


 僕らは船に乗って、シュノーケリングにもいった。そのガイドは鼻の皮膚がただれていて、元の世界とたぶん同じ人だった。僕はシュノーケリングよりも、ガイドの鼻が印象にのこっていた。


 しかしこのシュノーケリングでは、少し問題が起きた。途中から波が高くなり、憐が溺れかけたのだ。


「ゴホ、ゴホ、ゴホ、ゴホ」


 シュノーケルに波しぶきが入り、憐は呼吸困難になっていた。慌てた僕とガイドは2人で憐を抱えて泳いだ。船に急ぐが、波が高くて思うように進めない。僕一人だったら危なかった。憐に何かあったらと思うと、僕は恐怖した。


 僕らはサンセットクルーズにも参加した。夕陽を見ながらのクルーズはなんとも言えない解放感だった。海風が心地よく、水平線の上に夕陽が傾く。それは「SHOTOVER」と言うヨットで、西オーストラリアの海を独占したような時間をくれた。


 僕らの泊まった「モンキーマイア ドルフィン リゾート」という施設は、まさに名前の通りリゾートと呼べるものだった。ビーチ沿いにはコテージが並び、小さな集落のようになっている。


 集落内にはレストランやカフェがあり、海と食事とベッドの安らぎが太陽の光に輝く。過酷とは真逆の、白い砂浜に白壁のコテージ。これまでのサバイバルが嘘のような、快適で最高のシチュエーション。それは、僕らを癒やして離さなかった。


 モンキーマイア、そこは僕の知る美しさそのままだった。僕らが過ごした時間も、元の世界と同じだった気がした。憐が溺れかけたことを除いては。


 次の目的地は、パースだった。車は一路南下し、西オーストラリア州の州都を目指した。この後に待つ未来に、飲み込まれるように。


 今思えば、ここモンキーマイアは、僕たちが過ごした最後の楽園だった。パースは、悪い意味で忘れられない街となり、僕たちに最後まで付きまとった。

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