第15話 ラウンド2

 内陸に入ってから、僕らはカンガルーの死骸をたくさん見るようになっていた。それはすべて、車に撥ねられてのものだった。死骸は道路沿いに無数に転がり、異臭を放っていた。


 オーストラリアにはロードトレインと言われる、全長50メートルを超える大型トレーラーが走っている。そしてその車のフロント部分には、ブルバーやカンガルーバーと呼ばれる重厚な鋼の柵がついていた。


 オーストラリアに生息する、多くの野生動物たち。それらには、牛や馬、ラクダ、カンガルーなどの大型動物も多い。その動物たちは集団で行動し、集団で道路を横断する。僕みたいな旅行者ならば、一回しか通らない道である。横断中の野生動物と遭遇する可能性も、さほど高くはない。


 しかし、トラックドライバーの場合はどうだろう。広大な大地を、何往復もするのである。危険に遭遇する確率は高くなるだろうし、それは僕みたいな旅行者とは比較にならない。野生動物の存在はドライバーの命に直結しやすく、それが原因で野生動物は命を落としていた。


 元の世界で僕は、その道を走りながらいろいろと考えた。いや、考えずにはいられなかった。自分の生存の意味、正しさとは、罪悪感、そういったものが頭を巡ったからだった。


 人間の生活に必要な食料や燃料。それらの物流が原因となり、この道路の脇には野生動物の死骸が並んでいる。それは人間からすれば仕方のないことでも、動物からすれば人間のエゴでしかないだろう。季節による集団移動も、食料を求めての集団移動も、すべては動物自身の子孫を残すためであり、他に理由がない。そしてそれは、人間にも同様の動機が存在する。


 そうした野生動物の移動を妨げずに、かつ人間がこの大きな大陸を移動するにはどうしたらよいのだろうか。現在のように柵や壁で大地を分断しない、オープンな道路や鉄道を作る。それ以外に方法はあるのだろうか。


 もし模索するならば、莫大な税金を投入して地下道を掘る、またはすべてを高架化する。そういった方法しか、僕には思いつかない。


 物流というのは、人間の移動も含め物体の移動だ。それはメールや写真のように、データとして送れない。つまり陸、海、空、そのどれかを利用した物理的な移動になってしまう。


 人間社会は、それら全てを駆使して物流をし、地球上にある多くの地域とのつながりを確保している。そのどれか1つが欠けても、人間社会は地球単位で大きなダメージを負うだろう。


 それは物価の高騰や物流の停滞、そういった形で人間社会を苦しめるだろうし、僕らはその生活や社会に不満を持つかもしれない。その社会設計を受け入れること、それは今の便利な生活を捨てることに等しいかもしれない。


 僕が憐に送った日記だって、飛行場までは陸送だ。そこに野生動物の犠牲がなかったかと問われれば、僕はないとは言い切れない。僕はそこに確証を持てない。


 かといって、僕が飛行場まで、毎週定期的に持っていくことはできないし、そこへの移動手段も自動車が使えないのならば厳しい。


 動物との共存を考えた時、人間のエゴで成り立つ部分を含んだ世界に対して、そのことを忘れずに生きること。僕が感じる喜びの裏には、こういうこともあったのだと知ること。


 それらを頭の片隅にでも入れて生きることが、大切なのではなかろうか。そう思ったのだ。僕らがそれを意識しなければ、今の人間社会は保てないのではないかと。


 異臭を放つ死骸、そこを突き抜ける一本の道。道と死骸が織りなす関係性に、僕は考えを巡らさずにはいられなかった。




 荒野の大地から熱帯性気候への境界線。オーストラリアではそれが突然に、誰にでも分かる形で現れる。


 それまで荒野だった景色は、一線でも越えたかのように一斉に緑になっていく。そして、雨。これまで全く降らなかった雨粒が、空からどっと押し寄せた。


 それは不思議な光景だった。こんなに鮮明に、気候の変化を感じられるのかと。他の国では、なかなか経験することができないと思った。


 熱帯へと変わっていく大雨の中を、僕らは走った。そしてその大雨も、なんの前触れもなくあがった。まるでイナゴの嵐のように。それは突然であり、はっきりとしていた。


 その日はマタランカに一泊した。キャンプ場にテントを張った後、僕らは温泉に向かった。マタランカは有名な温泉スポットで、それ目当ての観光客が多かった。


 温泉はジャングルの中にあり、茂みを歩いていると巨大な蛇もいた。蛇が苦手な僕は冷や汗が出たが、観光客の多くは写真を撮っていた。


 翌日、僕らはダーウィンを目指した。走るほどに緑量が増え、ダーウィンに着く頃にはリゾート地のような景色になっていた。


 ダーウィンではいろいろな場所を見てまわった。その中には、元の世界で行ったものもあった。


 まず僕たちは、ダーウィンでも有名なワニ園に向かった。そこは「ダーウィン クロコダイル ファーム」というワニ園だった。今はもう閉園してしまったようだが、当時は巨大な入江ワニの剥製や餌やりを見学できた。


 入江ワニは海水、淡水の両方で生息できる珍しい生物で、それについての研究成果なども紹介されていた。ワニには強い抗体があり、人間に転用できる研究が進んでいる、といった話も聞けた。


 その施設のフードコートでは、なんとワニバーガーも売っていた。相変わらずアクティブな憐は、当たり前のようにワニバーガーを注文していた。臆病な僕も当然、普通のハンバーガーを注文したのだった。


 しかし、残念なことに、彼女の所望したワニバーガーは売り切れていた。店員が、鶏肉を餌とする飼育ワニの肉は、鶏肉の味がすると教えてくれた。それは、どこかで聞いたことがある話だった。


 次に僕らは、ジャンピング・クロコダイル・クルーズに向かった。うす茶色いアデレード川を見たときに、僕は元の世界での旅を思い出した。ここはおそらく、一度来たことがある場所だった。


 このクルーズの目玉は、水中から勢いよくジャンプするワニだった。水面をパンパンと鶏肉のついた棒で叩いていると、あちこちからワニがやってくるのだ。


 ワニたちは船のそばまで来ると、いったん水中に身を隠した。そして突然、餌めがけて水中から飛び上がる。スタッフが食いつく瞬間に棒を振り上げるものだから、餌に釣られたワニはそのまま空中にジャンプする。なんとも豪快だった。


「うぉ! でけー!」

「すごーい!」


 憐も興奮していた。


「ワニの天敵はワニなんだ」


 そんな言葉が耳に入った。スタッフが説明をしているところだった。


「彼女がここら辺では、一番の古株なんだ。右手は他のワニにやられたが、細菌の多いこの河で、何事もなかったかのように生きている」


 強い抗体を持つ、ワニならではのエピソードだ。僕は、すっかりワニのファンになっていた。それは懐かしい感覚だった。


 岸に戻り船を降りると、そこには巨大なニシキヘビを抱えるスタッフがいた。希望者は蛇と写真を撮ってもらえるのだ。それも首に巻き付けた状態で。


 ちなみに僕は、この世で一番ヘビが苦手だ。


「智博! 私あれやりたい!」


 僕は顔が引きつった。それだけはどうかご勘弁を、と思ったが、元の世界でもやらされた記憶が一気に蘇った。僕は憐に苦笑いを浮かべた。


 僕には信じられないサービスだったが、憐はとても楽しんでいた。そして笑って僕を呼びつけ、無理矢理に巻かされた。必死に断ったが、無意味だった。


 ひんやりとした感触が、首に重くのしかかる。触れた瞬間、身も心も凍った。もはや動くことすらできなかった。


 僕は高校時代に読んだ、とあるニュースを思い出していた。15メートル級のニシキヘビが、ゴム園の従業員を襲い射殺されたのだ。新聞に掲載されていたその写真は、今でも忘れられない。


 人の体が半分蛇の中に飲み込まれていた。新聞にそんな写真を載せるところが、さすがは海外である。解剖の結果、ヘビの中からはたくさんの宝石が出てきたらしい。つまり、他にも被害者がいたということだ。


 僕の結末がそうならない保証はない。蛇がニュルニュルしている間、僕の記憶はグルグルしていた。


「なんでもいいけど、今までどうもすみませんでした!」


 こういう時、人に理屈は無意味なのだと思った。


「智博! こっち見て! 写真撮るよ!」


 憐はニヤニヤしながら写真を撮った。恐怖のどん底を味わった僕は、ヤモリの人形まで買わされていた。


 僕らはイーストポイント戦争博物館にも行った。僕はここにも来たことがある気がした。そこは日本軍の攻撃を受けた場所で、施設には当時の状況、作戦、攻撃など、戦闘情報や武器、車両などが展示されていた。


「日本軍は、こんな遠くまで来ていたのか」


 僕は素直にすごいと思った。おそらく、以前に来た時もそう感じたと思う。確かに、日本とオーストラリアは、歴史のある期間で敵国となった。それは変えようもないし、互いに祖国のために戦ったのも事実だ。


 結果的に日本は負けたわけだが、だからと言って僕には日本が一方的に悪いとは思えなかった。それはオーストラリア人にも同じ感覚があるだろうし、そういう意味も含めてこの施設はあるのだと思う。


 大東亜戦争。そこに発展した歴史的な経緯は、調べたことがあった。避けられた戦争とも言えるだろうし、避けられなかった戦争とも言えるだろう。


 しかし僕には「避けられた・避けられなかった」の論点よりも、歴史的背景や行動原理のほうが重要に思えた。考えられる分岐点をいくつも繙き、理解していく。それが重要に感じたのだった。


 そもそも僕は、争いを好まない。しかし争い事態は、動物のとってしまう通常の行動だとも思っている。それは自然界も人類史も変わらない。


 縄張りの奪い合い、異性の奪い合い、獲物や食料の奪い合い。これらはすべて、生物の歴史から消すことはできないだろう。それらは自然界では、日常的な出来事でしかない。


 もしこれらを争いと定義するならば、この地球には争いが絶えないことになるし、争いと定義しないのではれば、そもそも争いとはなんなのか、そういう疑問が湧いてくる。


 人間は他の動物とは異なり、幸と不幸の概念を持ち、それを成熟させようと努力した。その結果、争いを拒むようになってきたのではないだろうか。だから僕の思考には、争わないように努力する遺伝にも近い意志があるのだと思う。


 しかし、努力がいつも成功するとは限らない。夫婦喧嘩や親子喧嘩から、殺人に発展するケースもいまだにある。幸と不幸の存在を知ったからといって、欲望を絶てるようになるわけではないのだ。


 少しの欲求を満たすために、家族が崩壊し不幸になる。そんなケースもあるだろう。自分のうっ憤を晴らすために、相手が不幸になることなんて日常にあふれている。今の成熟度の人間には、他人と争う可能性がまだ十分にある。僕にはそう思えるのだ。


 博物館を後にした僕らは、ミンディル・ビーチを歩き、その近くの墓地も巡った。あまり知られていないかもしれないが、ダーウィンの真珠産業と日本人の関係にも深い歴史があった。


 昭和初期、多くの日本人がここで真珠産業に従事していた。世界恐慌で真珠の価格が暴落するまで、ここは真珠産業の中心地だった。ここにその時の日本人労働者の墓地がある。元の世界で初めて知った僕は、不慮の事故などで命を落としてしまった方々に祈りをささげたのだった。歩きながらに、そのことが思い出された。


 僕らは海にほど近い場所に宿を取っていた。そのまま散歩をしながら帰ると、夕食まで少し休んだ。


「憐。ちょっとエンジンオイルの交換をしてくるね」

「うん。分かった。気を付けて」


 夕食を済ませると、僕はエンジンオイルの交換のために車を走らせた。そして、平らで何もない場所を見つけると、夜な夜なエンジンオイルの交換をした。1日で900キロを走破するのである。エンジンオイルも定期的に交換した。


 この頃になるとカミーラは、エンジンのオイル漏れを起こしていた。走るたびに減っていくオイル、補充をしながらの旅。それは今思えば、僕らの旅のようだった。オイルが漏れるように、僕の心も漏れていった。しかし、この時の僕はまだ気づいていなかった。

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