第14話 ラウンド1
ラウンドに出発する朝、僕たちは最後のパッキングをしていた。キャンプ道具や、食料、工具、救急キット、ビデオ、CDなど目ぼしいものは、昨日の内に積み終わっていた。
車は後部座席をすべて倒した、2人乗りになっていた。移動中にすぐ取れるようにと、地図やビデオ、CDなどは座席のすぐ後ろに置いた。
ベンチシートに憧れていた僕は、座席の背もたれの間に手製のスピーカーをはめ込み、布を被せてベンチっぽくしていた。
11月20日火曜日の早朝、僕たちはラウンドへと旅立った。リズモアを起点に反時計回りのラウンドを計画していた。僕らは北上した。タウンズビルを目指して。
僕らのオーストラリア一周ラウンドは、1カ月での走破を予定していた。想定する移動距離をオーストラリア大陸の海岸線に例えて、仮に約1万9500キロメートルとする。厳密に海岸線を移動するわけではないが、内に外にと走り回ることを考えれば、さほど変わらないだろう。
この距離を単純に30日で割ると、1日650キロメートル。場所によっては2泊する場合もあるだろうから、仮に20日で見積もると975キロメートル。これは、時速100キロで走ったと仮定しても10時間弱の運転になる。過酷なことは目に見えていた。
しかし僕らは引っ越しの準備やビザの関係上、それ以上の時間を見込むことができなかった。僕らの旅は駆け足だった。それでも僕らは1周ラウンドを選んだ。
リズモアを出た車は、北上を続けていた。当時はまだナビケーションシステムがなく、僕たちは『オーストラリアン ディスカバリー アトラス』という一冊の地図を頼りに走った。
途中、僕らはエアリービーチなどに立ち寄って観光をした。そこには「Vic Hislop GREAT WHITE SHARK & WHALE EXPO」というサメの博物館があった。見るからにサメの外観に、入り口には巨大なサメのはく製。そして中は一面、サメに関する展示物だった。
僕は、そこに展示されていた一枚の写真に息を呑んだ。
それは、カメラマンダイバー2人が水中撮影をしていた時のものだった。突然どこからともなくホオジロザメが近づいてきて、その内の1人を襲ったと書かれていた。
もう1人の男性はどうすることもできず、ただただそれをカメラに収めていた。ホオジロザメが、仲間の体半分を口に入れた瞬間を。
ホオジロザメが去った後、彼は仲間を抱えて船へと戻り緊急無線を入れた。病院へと運ばれた仲間は一命を取り留めたが、足を失った。そう書かれていた。
映画の撮影シーンとも思えたその写真を見た時、僕は恐怖で鳥肌が立った。憐の手を強く握った。僕がその場にいたら、もう1人が憐だったら。そう思うと、僕はただただ海に恐怖した。
そこでは、サメの脳の比較展示もされていた。サメの脳は人間の脳に比べるととても小さく、ワニの脳はサメよりもう少し大きいらしい。サメは脳が小さいため、考えるよりも行動する。痛覚も鈍いため、何度刺しても怯えないらしい。確かそう書いてあった気がする。
恐らくサメは、脳に頼った生体活動をしていないのだと思う。人間のように考えて活動しなくても、あれだけ強ければ生き残ることができるのだろう。逆に言えばあれだけ強いのだから、脳に頼ることなんて最小限で良いのかもしれない。
僕は思った。サメやシャチのように強くて、人間並みの脳を持つ生物が現れたら、その時に人類は滅ぶのかもしれないと。たとえ滅びはしなくても、奴隷のような生活を課せられるかもしれない。
僕らは数日かけてタウンズビルに着いた。そして、そこからは西を目指した。ケアンズは、今回の旅ではルートに入れていなかった。旅行の日程的に無理だったからだ。
車での旅は、思っていたより日差しが強かった。真夏の太陽が、容赦なく荒野を照り付ける。反射した光を避けるように、僕らはサングラスをした。
車が内陸へと向かい緑が減り始めた頃、とても不気味なことが起きた。
ガタン! ゴト! ゴトゴト!
「うわ! ハト!」
「キャ!」
まるで嘘のような出来事なのだが、走行中の車の目の前にハトが降りてきた。まるで、車なんて存在しないかのように。僕は急いで車を止めたが、手遅れだった。なんでハトが車の前に降りたのかは分からない。旅の始まりから、それは後味の悪いものだった。
僕らは交互に運転をし、車は内陸を目指した。ひたすら何もない一本道。途中で車が壊れようものなら、それは旅の終わりを意味する。
1日の移動距離は平均して900キロメートル。早朝に出発し、夕方に着く。そんな感じだった。なるべく早く目的地に着くために、僕らは早起きをした。
1カ月の駆け足の旅は、僕らに多くの選択を迫った。観る場所、観ない場所の取捨は絶対に必要で、時間的に行けない場所はたくさんあった。
僕らは、スケジュールを逆算しながら旅を進めた。次の目的地は、マウントアイザだった。
ここは鉱山の街として知られている。立派な煙突がそびえるその街は、大きく荒野に横たわっていた。僕たちは昼前に着き、宿泊先を探した。そして、街で昼食をとり、車で周辺の観光スポットを見てまわった。
太陽が照りつけ、海はこの世の果て。果てしなく続く荒野に作られた工業都市。人間はこんな深い内陸に都市をつくれるのか。僕はそう思うと、人類の逞しさ、欲望、探求心に驚くしかなかった。
翌日、僕たちはさらに内陸を目指した。少し北上した車は、道沿いにさらに西へ。荒野に生える低木と草。少し盛り上がった丘を横目に、道は延々と続く。
「憐、なんか道の上がザラザラしてるように見えない?」
「本当だ。何だろう」
「牛の群れじゃないもんな」
僕らはそんな会話をしていた。オーストラリアでは、普通に野生の牛、ラクダがいて、集団で道を横断していることがある。そんなところに車で突っ込もうものなら、こちらが終わってしまう。だから、道の上に何かが見えたら減速するのが鉄則だった。
牛やラクダだとしたら、肉眼でも分かる距離まできたが、僕にはそれらしい生き物が見えなかった。そこから見えるのは、黒っぽく光を反射する道路だけ。なにも確認できなかった僕は、アクセルを踏んだ。
「憐。なんか怪しいから、窓は一応閉めよう」
「うん」
僕らは窓を閉めた。真夏の荒野。それは、クーラーのない僕らのオンボロな車では死ぬほど暑かった。しばらく走ると、それは待っていた。
バチ! バチバチ! バチバチバチバチ!
「うわぁあ」
「きゃーー」
「何だこれ? バッタ?」
「いやーーー! いやーーー!」
車内はパニックになった。僕らはイナゴの大群の中にいた。そこは一面イナゴで覆われた土地だった。車に驚いたイナゴは、一斉に飛び出し僕らの車にぶつかった。見渡す限り、茶色と黒のその光景。
前は全く見えない。道がどこにあるのかも分からない。ひたすらに、茶色と黒の世界が続いた。大雨、大雪と同じ、イナゴの世界。時速100キロで突っ込んだ僕は、一気に減速した。前の見えない僕には、そうするしかなかった。
バチバチバチバチバチバチバチバチバチバチバチバチ!
スピードが出せないまま、僕らは恐怖の中を進んだ。イナゴの大群が砂嵐のようにぶつかってくる。憐は耳を塞ぎ、座席の下に隠れた。僕も頭を下げながら運転した。
「助けて! ホントやだ! きゃーーー!」
数分が経ち、やっとの思いで抜け出した。僕は車を止めた。
「どうにか抜けた……」
「怖かった、窓が破られたらどうしようって思った……」
憐の言葉に、僕もそう思った。突然すぎて、僕らにはどうすることもできなかった。もし窓を開けていたら、そう思うとゾッとした。車の中にも居られなくなる。
ワイパーで、フロントガラスの汚れを洗い落とそうとしたが、イナゴの体液は落ちなかった。僕は車を降りて車体の確認をした。イナゴの嵐が、車の色を茶色と白に変えていた。ラジエーターにもイナゴの死骸がへばりついていた。先ほどのイナゴの世界は、はるか後方へと移動していた。
「次のガススタで洗い落とそう」
「うん」
憐が答えた。僕はオーバーヒートを気にしながら走った。ただでさえ暑い荒野の道は、エンジンブローの可能性が高い。やっとの思いで街に着くと、僕らはガソリンスタンドを探した。
「智博、あそこ」
僕らはガススタを見つけた。店員に訳を話し、水を使わせてもらった。車体はある程度きれいになったが、ラジエーターは取りきれなかった。
とんでもない経験をした僕らは、荒野の凄さを目の当たりにした。同時に、僕は元の世界との違いを感じていた。ハトのことといい、イナゴのことといい、忘れてしまうものだろうかと。
「ここから300キロメートル先までガソリンスタンドなし。バイクは予備タンクに給油を」
内陸に行くと、こういう看板が目についた。
「やっぱりすごいな、オーストラリアって」
僕はその看板を見たことがあった。僕の知るラウンドで。荒野の中にはっきりと目立つ、白くて大きな看板。元の世界でも、この道を通ったのだろうと思った。
「同じ道、覚えてない出来事」
思い出せることと、思い出せないこと。その違いは、いったいなんなのだろう。ハトやイナゴのことと、この看板のこと。その印象に、どれほどの違いが存在するのだろう。
空の色、大地の匂い、それらは何も変わらない。忘れてしまったことは、思い出せないだけなのだろうか。この世界は、一体なんなのだろう。
僕は、そんなことを考えていた。これまでもいろいろと違いがあったし、考えても仕方がないかもしれない。それでもこの旅は、僕の知ってるラウンドとは違う気がしてならなかった。
答えも見つからないまま、車は荒野を走った。僕はアクセルを踏んだ。一路テナントクリークへと。
テナントクリークで、僕らは日本人旅行者と知り合いになった。観光地では日本人観光客も少なくないので、互いに日本人と分かると会釈をすることはあった。しかし、話したりすることは初めてだった。
彼はバイクでラウンドをしていた。ラウンドを終えてから恋人と合流し、日本に帰る予定らしかった。
「バイクでのラウンドってすごいですね!」
僕は心底思った。こんな荒野を1人で走るのだ。しかも、観光客である。僕にはできる気がしなかった。
「いや、大変なこともありますが、楽しいですよ」
彼は言った。
「コケたりしないんですか?」
「ここに来るまでに、3回コケました」
その人とは宿泊先の宿で一緒になり、仲良くなった。僕らは一緒に夕食を食べ、イナゴの話をした。
11月29日木曜日、テナントクリークを後にした僕らは、来た道を引き返し北へと向かった。マタランカを目指して。
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