第13話 同棲2

 憐のご両親が帰って、僕たちはまた2人になった。久しぶりの2人は静かすぎた。憐は少し寂しそうだったし、僕も何か気が抜けてしまっていた。それくらい、ご両親との時間は思い出深いものだった。


「キャッ!」


 叫び声が響くと、憐が勢いよく歩いてきた。僕は何事かと思った。


「智博! トイレを使ったら、便座下げるか、蓋を閉めてよ!」


 憐がすごい剣幕で言ってきた。


 元の世界の当時の僕は、立ち小便をした後に便座を下ろさない、まさに独身男子の典型だった。憐は何度も便座のない便器に座り、その度に僕のところへ怒鳴り込んできた。


 それ自体は、懐かしい光景とも言えた。これがきっかけで、僕は座り小便をするようになったのだから。


 しかし今の僕は違う。立って小便をするなんてありえないのだ。座ってする以上、便座を上げるなんてことも考えられない。


 座り小便が癖になってからは、便座の上げ下げで怒られたことがない。僕は自分が記憶喪失やら、二重人格やらになってしまったのかと困惑した。


 とはいえ、このハプニングのお陰もあり、僕らの生活は通常に戻った。


 テストも近くなってきた頃、アンプチでベースを弾いている荒木が遊びに来ることになった。これは、元の世界ではなかったことで、突然の展開に僕は驚いた。


 荒木は、テストで演奏するルパン三世の音源を送ってくれたりして、いろいろと手助けをしてくれていた。そんな彼が僕のテストの見学も兼ねて、初の海外旅行に来たいと申し出てきたのだ。


 相変わらず僕は大学が忙しく、日中は憐に迷惑をかけることになった。しかし憐は、嫌な顔ひとつ見せずに引き受けてくれた。もし逆の立場だったら、僕はどうしただろう。面倒くさがりの自分の性格を、僕は振り返った。


 元の世界で遠野と出会うことのなかった僕は、荒木と2人で音楽活動をしていた。僕らは自分たちのことを「ミザントロープ」と読んでいた。荒木がつけた名前で、フランス語の「人間嫌い」からきている。


 フランス古典劇にある、モリエールの喜劇でも知られているだろう。その喜劇は、社交界の偽善を憎む青年アルセストが、過度の潔癖から世を捨てる話だが、もちろん僕らはそこまでではない。


 ないにせよ、僕は面倒くさがりなので、他人の面倒を見るくらいなら、自分を優先してしまうだろう。そんな気がした。


「憐はやっぱりすごいな」


 僕のできないことを、憐はいつも簡単にこなしてしまう。きっとそんなところも、僕が憐を好きになった1つなのかもしれない。


 荒木が来る日、僕たちは2人でブリズベン空港へと迎えに行った。荒木にはイミグレーションなどの通過方法を伝えていたが、やっぱり不安だった。荒木は英語が全くと言っていいほど話せない。アイコンタクトくらいしか望めないレベルだった。


 空港に着いた僕らがゲートの前で待っていると、ミック・ジャガーに似た顔が出てきた。荒木が周りをキョロキョロしながら歩いている。なかなか面白い光景だった。


「おーい、荒木!」


 憐と僕が叫んだ。


 荒木は安心した笑みを浮かべ、こっちへと歩いてきた。


「お疲れ!」


 僕が声をかけると、荒木は本当に憔悴していた。


「いや、マジで疲れたわ……。緊張しすぎてヤバかった……」


 目を見開いて言う荒木に、憐は笑っていた。


「ワーキングホリデーに来ちゃう憐って、やっぱりすごい」


 荒木を見ながら、憐の度胸に僕は改めて感心した。


 荒木の鞄を持ち、車へと案内する。荒木は物珍しそうに、オーストラリアの景色を見ていた。


「遠野は元気にしてるの?」


 僕が尋ねると、


「あいつは相変わらずだよ。アンプチ命」


 荒木が答えた。僕は、ここからさらに3時間かかることを伝え、車を走らせた。僕たちが久しぶりの会話を楽しんでいる間、憐は満足そうに聞いていた。僕らの赤いカミーラは一路リズモアへと向かった。




 僕が大学に行っている間、憐と荒木は暇を持て余していた。移動手段である車を僕が使ってしまい、2人には徒歩しかなかった。


 洗濯などの朝の家事を終えると、2人は町へ歩いて行ったりしていた。互いの恋バナは時間を忘れさせたらしいが、さすがに徒歩では辛いはずだった。


「大学行ってる間、使わないし、車そっちで使ってよ」


 僕は提案した。憐のご両親が来ていた時のやり方だ。


「智博。学校終わったら連絡してね。迎えに来るから」

「うん。今日は17時まではスケジュールが入ってるから、それ以降になると思う。電話するよ」


 拓とのやりとり以外でさほど使わなかった携帯電話は、その時とても役に立った。


「憐、もう終わるから迎えにきてくれる?」

「分かった。待ってて」


 夕陽でオレンジ色に染まったゲート、僕はその前で憐を待った。そして家に帰ると、3人で夕食を食べた。2人のその日の出来事を聞くのは楽しくて、僕はその時間が好きだった。


 僕と違い、荒木はファッションにこだわりがあった。そういう点では、憐としても目的地を選ぶのに難しくなかっただろう。ショッピングモールやら観光地やらと、いろいろな場所を回っていた。


「今日は、ゴールドコーストまで行ってきたんだよ」


 憐がそういうと、


「あそこすごいのな! 日本人の数! ここと段違いだったぞ! みーーんな日本人!」


 荒木が興奮して言った。


 ゴールドコーストのサーファーズパラダイス。そこはオーストラリアでも指折りの日本人街として知られていた。


「土産屋さんに入ったんだけど、店員がみんな日本人なのな。書かれてるのも日本語だし、日本と全然変わらない! 逆にショックだったよ」


 荒木が笑いながら言った。ここはオーストラリアなのだから、彼が驚くのも当然だ。僕も最初は、とても驚いた。


「でも、英語を話さなくてよかったから、楽だったろ?」


 僕が言うと、


「いや、逆に日本語の方が恥ずかったわ」


 荒木が笑いながら答えた。


 荒木がいる間に僕は、最後のテストを迎えた。僕は会場に、バーを選んだ。当日は朝から忙しく、目が回るようだった。しかも、観客の中には、憐と荒木がいる。僕はいつも以上に緊張した。


 このライブでは、曲によって奏者を変えていた。リハーサルのスケジュールが合わないなどの都合もあったが、この曲はこの人にお願いしたい、そういった僕の希望もあった。やはり一番盛り上がったのはルパン三世のテーマ曲だった。サックスは、アフリカから留学していたカギーソに頼んだ。


 彼に譜面を渡す時、


「日本で有名なアニメがあって、その曲をやろうと思うんだ」


 と、参考音源を聴かせると、


「この曲知ってるよ! 大好きなアニメだ!」


 と、言われて驚いた。お陰で、リハーサルはスムーズに進んだ。


 僕の最後のテストは、完璧とまではいかなかったが、満足のいくものになった。観客からも先生からも好評だった。


「浅野。お疲れ! いいライブだったよ!」


 荒木も褒めてくれた。もちろん憐も。楽しくも怖かった3年間のテストはこれで終了した。


 学年のテストが一通り終わると、僕たちギター科の卒業生は、先生の自宅で開かれる夕食会に招かれた。これは、卒業生だけが受けられるご褒美だった。先生のご婦人の手料理をみんなで食べ、談笑した。鬼のように怖かった先生も、その夜だけはずっと笑っていた。


「もしもし、憐。終わったから迎えに来てもらえる?」


 すっかりほろ酔いだった僕は、憐の運転で帰宅した。会食中、ずっと憐の顔を思い出していた。


「ああ。今ここに憐がいてくれたら、どれだけ幸せだろう」


 僕は、憐とこの幸せのすべてを分かち合いたい気持ちでいっぱいだった。


 荒木が帰った後、リズモアは夏に片足を突っ込んでいた。僕らはラウンドの準備を始め、だいたいの行程を決めていた。


 僕は元の世界でのルートを思い出そうとしたが、20年近く前の記憶はあいまいだった。ダーウィンや、パース、ウルル(当時はエアーズロックと呼んでいたが)など、大都市や観光地に行ったのは思い出せるが、ルートや旅の詳細までは思い出せなかった。


 ラウンド中の、一瞬一瞬に受ける情報量は莫大だった。そのすべてが刹那的であり、新体験の連続なのだ。それを20年近く記憶に留めるのは、とても不可能だった。


 ラウンド仕様にと、僕は車の後部座席から後ろをフルスモークにしていた。それは紫外線対策というよりも、防犯だった。


 僕らは、帰国の途中でベトナムによることも決めていた。旅を続けながら北上し、日本へ帰ろうと。


 そして大学を卒業する日がきた。卒業式に参加できない母親に頼まれて、僕は憐にビデオの撮影をお願いした。ハンディな8ミリのビデオカメラだった。


 僕はこのビデオに家や車、僕の生活環境なども収めた。オーストラリアでの暮らしを、僕の両親にも見てもらいたかったからだ。そして、ラウンド中の大自然も収めようと思った。


 この頃になると、僕にはちょっとした変化が起きていた。それは、元の世界では感じなかったストレス。僕は憐のちょっとした行動に、ストレスを覚えるようになっていた。


 些細なことに苛立ち、そのストレスに疲れた。将来の不安、就職、音楽、人生。苛立ちはストレスを生み、それがさらなる苛立ちになる。その嫌なサイクルは、その後の僕に大きな影響を及ぼすことになった。

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