第12話 同棲1

 同棲生活が始まると同時に、足りないものがたくさんあることに気づかされた。食器類もそうで、2人になると全く足りなかった。


 僕たちは家具、食器、雑貨などを買い足していった。お揃いのマグカップもこの頃に購入した。白地に青の刺繍柄が入ったマグカップだ。想い出のマグカップとの久しぶりの再会に、僕は元の世界の憐を思った。


 僕らは町に行っては、いろいろな物を見てまわった。忘れていた記憶が、次々に蘇る。本来なら、2度と体験することのできない過去の思い出が。


 10月に入ると、大学最後のセメスターは山場を迎えた。スケジュールはどんどん埋まっていき、やることに追われる日々になった。僕はベースラインコンピングの研究を続けながら、期末テストの準備を始めていた。


 3年生の最後のライブテストは、ジャンルの縛りがない。自由な選曲が許されており、持ち時間もこれまでの倍だった。


 しかも、会場はどこでも構わない。学校のホールでも、町のパブでも。先生を招待し、音楽で満足させられれば合格というものだった。プロミュージシャンになる予行演習のようなものだ。


 僕は、ジャズ、ファンク、フュージョンをやろうと思っていた。憐に書いた曲とオリジナルのファンク、そしてルパン三世のテーマ曲などだ。譜面のないものは、すべて耳コピで起こさなければならないので大変だった。管楽器の譜面は、通常と違いBフラットチューニングなので、さらに手間がかかる。早めに手をつける必要があった。


 憐のご両親が来る日も近づいていた。


「明日のお母さんが着く時間って何時だっけ?」

「10時半に着く便だったはず」

「そっか。なら7時前にはここを出たいね」


 お母さんが来て、憐と2人でニュージーランド旅行をし、その後お父さんがやってきてシドニーで合流する。ご両親の旅行はそういう段取りだった。


「ニュージーランドの宿とか予約してあるから、大丈夫だと思うけど、何かあったら連絡して」


 僕はあらかじめ、憐とお母さんの旅の準備をしていた。ワーホリで来ていたとはいえ、憐はそこまで英語が得意ではなかったからだ。憐に旅の予定を聞き、それに合わせてニュージーランドでの宿泊先やレンタカーを手配した。


 10月6日土曜日、僕は憐をブリズベンまで送り届けた。憐とお母さんの、親子水入らずの旅である。


 そしてしばらくの間、僕は一人暮らしの生活に戻った。それは憐が来る前と何ら変わらない、音楽中心の生活。耳コピによる譜面起こしに、ただただ追われた。


 それから5日後の木曜日、憐とお母さんが旅から戻った。僕は2人をピックアップしにブリズベンへと向かった。帰りの道中、2人はニュージーランドでの出来事を楽しそうに話してくれた。オーストラリアとは異なる風景に、僕は引き込まれた。


 翌日僕は授業に出席し、その夜にシドニーへと旅立った。リズモアからシドニーまでは車で10時間ほどかかる。憐とお母さんには日中に仮眠をとってもらっており、行きは憐に運転をしてもらった。僕は車内で仮眠をとり、翌朝運転を代わることにした。


「元の世界でも、憐と走った道」


 窓に映る景色が、記憶を掘り起こす。僕は懐かしさと愛おしさで、憐を抱きしめたい衝動に駆られた。




「シドニーはメルボルンと違って、なんとなく近代的だな」


 目覚めた僕は、独り言をつぶやいていた。


 リズモアに転校してくるまで、僕はメルボルンに住んでいた。そこで僕は大検をとった。話すと少しややこしいのだが、僕は両親の転勤の都合で、マレーシアの高校を中退していた。そのまま1人、メルボルンへと越してきたのだった。


 メルボルンでは大検を取るために、トリニティカレッジという学校に通った。同時にギターの家庭教師にもついた。


 僕は、大学でジャズを学びたかった。バンタイで衝撃を受けたジャズの即興演奏。アウトサイドの音を聴いた時に感じる快感。あれを弾けるようになりたかった。しかしパンクロックばかり演奏してきた僕には、音楽理論の知識がなかった。オーストラリア留学前のアドバイスでも、入学に最低でも2年はかかると言われた。


「1年で入れ。無理ならその程度の才能だ。やめて帰ってこい」


 僕がオーストラリアに旅立つ前、父親と交わした約束だった。僕は1年で合格する必要に迫られていた。


 オーストラリアで最高峰の1つに数えられる、メルボルン大学音楽学部。当時、年間3人しか受からないと言われたギター科。僕は、そこに絞って試験を受けた。そして当然のように落ちた。パンクロックしかしてこなかった人間が、1年で入れるようなところではない。むしろ入れたら天才と呼べるだろう。


 しかし、僕は受かる気がしていた。自分でも驚くくらいに、音楽を理解したと感じていたから。


 受験に失敗した僕は、消沈のまま日本に帰国した。


「普通、大学って複数受けるんじゃないの?」


 母親が僕に言った。格好よく受かって父親を見返したかった僕は、他の大学を受験する気がなかった。しかし母親の勧めもあり、僕は2つの大学に入試音源を送り、そして2つとも受かった。


 1つは、僕が転校するまで通っていた、メルボルンのモナシュ大学音楽学部。そしてもう1つが、シドニー音楽院だった。


 モナシュ大学は3年制で、その年からジャズをカリキュラムに入れたばかりだった。一方、シドニー音楽院は4年制で、ジャズは以前からカリキュラムに入っているようだった。


 どちらにしようかと悩んだ末、僕は短い方を選んだ。メルボルンに馴染みがあったことも手伝った。


 しかし入学してみると、クラスの大半はクラシック音楽だった。ジャズのクラスは、週に1回程度。授業の内容もクラシックが主体で、相対音感しかない僕には地獄のようだった。


 講義では、流されたオーケストラの譜面起こしをやらされた。当てられた学生は、講義室の黒板に、その場で譜面を書いていく。大勢の学生がいたが、誰1人としてできない人はいなかった。それは絶対音感のない僕には不可能であり、講義の度に見えないように隠れるしかなかった。


「ジャズがやりたくてオーストラリアまで来たのに、なんで合唱隊に入らなきゃならないんだよ……」


 僕は、クワイアにも入れられていた。


 このままでは単位がやばいと思い、マイナー単位では日本語学科を選択した。


「はい。では皆さん。この漢字、読める人いますか?」


 先生はオーストラリア人だったが、僕より日本語を知っていた。学生もみんな日本語が上手く、僕より漢字に明るかった。


「音楽もだめ……。日本語もだめ……」


 どん底だった。思い描いていた大学生活とは全く違う光景。絶対音感のない僕が、この大学を卒業できるとは思えなかった。


 他の大学もこんな感じなのか、絶対音感は大学生活に必須なのか、僕は悩んだ。しかしここでの生活に限界を感じていた僕は、1学期が終わる前に転校を決めていた。


 インターネットで大学を探し、見つけたのがサザンクロス大学の現代音楽学部だった。


「もし、あの時にシドニー音楽院を選んでたら、どんな大学生活だったのだろう」


 僕は、たまに思うことがあった。そこも、サザンクロス大学みたいなカリキュラムだったのだろうか? もしそうなら、僕はどこにも転校しなかっただろうし、また違った人生を歩んでいたに違いない。


 その場合、僕は憐と巡り合うことができただろうか? 憐がワーキングホリデーに来た時点で、僕はシドニーに住んでいることになる。リズモアにいるよりは、会える可能性が高いのではなかろうか。


 しかしシドニーに住んでいるからといって、必ず会えるわけでもない。シドニーの日本人コミュニティーは、リズモアのそれとは規模が違う。


 モナシュ大学に行くことで転校へと追い込まれ、リズモアで憐と出逢う。きっとこれが正解なのだろう。僕の音楽の紆余曲折はすべて、憐に出逢うためのものだったのかもしれない。




 ホテルに着くと、憐とお母さんは少し仮眠をとった。夜通しだったので疲れたはずだ。空港にはその後向かった。


「お父さん……」


 飛行場への道中、僕は小さな声でつぶやいた。憐のナビに従いながら、僕はシドニー国際空港へと車を走らせた。


 元の世界で最後にお父さんにお会いしてから、どれくらいが経つだろう。少なくとも、もう20年くらいは経っている。


 本来ならば、2度と会うことのできない再会。こんな日が来るなんて。憐との再開やその幸せばかりを追いかけすぎて、お父さんと会うことまで気が回らなかった。


 元の世界のお父さんは、この旅行の7カ月後に病気で亡くなった。愛娘の憐を残して。その悲哀は、今でも忘れることができない。


 この旅は憐にとってはもちろんのこと、僕にとってもお父さんと過ごした大事な思い出だった。お父さんとの数十年振りの再会。元の世界の憐が望んでやまない、しかし絶対に叶うことのない夢。


 飛行場に着くと、僕たちは喫茶店で休憩をしながらお父さんが来るのを待った。そして、到着のアナウンスを聞いた僕は、2人に着いたことを知らせた。


 ゲートの前で僕たちは待った。それは久しぶりの光景で、お父さんがどうやって登場したかが少しずつ思い出されていった。


「パパー、こっちこっち!」


 憐のお父さんを呼ぶ声が響いた。憐はお父さんが大好きだった。お父さんは少し笑みを浮かべながら、こちらへと向かった。


 1年間の休学中に、僕はお父さんに挨拶を済ませていた。オーストラリアで憐と同棲する、その許しを請うために。僕はスーツ姿で伺い、その時に初めてお会いした。


「智博くん。お酒はいける口かね?」


 お父さんに聞かれた僕は


「すみません。あまり得意ではなくて……」


 と、頭を下げた。お父さんは少し寂しそうに見えた。そして、冷蔵庫から出したビールを飲んだ。


 僕たちはシドニーに3泊した。僕が通訳、憐がガイドといった具合で、観光名所を見て回った。


 有名なオペラハウスにも僕たちは行った。それが建築の歴史にどれほど影響を与えたか、僕は出版社に入るまで知らなかった。


 おそらく20世紀で最も重要な建築の1つであるそれは、着工から完成まで14年ほどを要した。その屋根は1つの球体から取り出されたもので、前例のない複雑な構造をしている。ヨットの帆にも例えられるが、実際はオレンジの皮を剥いた時の形がモチーフになっていた。


 当時その知識があれば、もっとじっくり見たのにと、元の世界で僕は悔やんだ。しかし今回は違う。僕は持ち合わせた知識を、3人に披露した。


 僕らはボンダイビーチにも行った。そこは、かつて憐が住んだ場所だった。


「このフラットでマックス4人でシェアしてたんだよー」

「4人!?」


 懐かしの会話で、僕は笑った。すぐ近くにある教会の駐車場では、フリーマーケットが開かれていた。


「このフリマは週末にやってて、よく行ってたんだ」


 お父さんとお母さんにそう言いながら、憐は懐かしそうに見て回った。


「ジャーン! これが焼き鳥屋さん! 私がバイトしてたところ!」


 憐のバイト先だった少し古びた焼き鳥屋さんは、海沿いにあった。憐の思い出の地を再び巡る時間は懐かしく、胸にくるものがあった。


 夜はヨットハーバーにある、お洒落なシーフードレストランで食事をした。憐の笑顔から、彼女の満足感が伝わってきた。ご両親とシドニーを歩く時間は、何物にも代え難い喜びだったのだと思う。


 ホテルに戻ると、お父さんはチョコレートを肴にウイスキーを嗜んだ。カッコいいなと思った。それ以来、ウイスキーを飲むたびに、その光景が浮かぶようになった。


 10月16日火曜日、僕らはシドニーを後にした。僕のオンボロな車は、ご両親を乗せるには恥ずかしい代物だった。長い車上の旅は、きっと疲れたに違いない。なるべく多く休憩をとりながら、僕らはリズモアを目指した。


 リズモアに着くと、憐が我が家を紹介した。僕の借りていた家は3LDKで、僕らはそのうちのひと部屋しか使っていなかった。


「パパ、ママ。この2つどっちも空いてるから、両方使っちゃって」


 憐は、コンクリートブロックを脚代わりにしたテーブルに、飲み物を用意した。


「2人とも疲れただろうから、今夜はゆっくり休んで。飲み物ここに置いとくね」


 憐はテキパキと動いた。翌日から僕は大学生活に戻った。


 ご両親の滞在中、僕は学校が忙しく、日中は付き合うことができなかった。憐は僕を車で送り届けてくれていた。日中は彼女が車でご両親を案内し、夜は僕も加わって町を紹介した。


 水曜日の夜には、大学の先生たちが毎週演奏しているパブにも行った。たった5ドルの入場料で、一流の演奏が聴けた。オーストラリアの片田舎にある、リズモアという小さな町。そこは観光地としては無名に近いが、音楽を楽しむ町としては最高だった。


 先生たちの演奏を聴きながら、お父さんは美味しそうにお酒を呑んだ。そして、僕にいろいろと話しかけてくれた。お父さんとの距離が縮まった気がして、僕は嬉しかった。それは笑顔の絶えない夜で、お父さんは憐との旅を堪能したのだと思った。


 やがて、ご両親との別れの日が来た。憐は、あえて明るく振る舞っているように見えた。僕たち4人は、ブリズベン空港に向かった。


 空港での待ち時間、僕らは食事をし、土産物屋を回った。


「智博くん。本当に世話になった。ありがとう。憐のことをよろしく頼む」


 憐の手を握っていた僕に、お父さんが握手を求めてきた。突然、涙が僕の肩を揺らした。


 お父さんは僕に、青のチェック柄の半袖シャツをプレゼントしてくれた。それは、春先だったオーストラリアに似合う感じのものだった。僕は雷に打たれたように、元の世界を思い出した。


「お父さんにもらったシャツ。今もまだ大切にしてます……」


 僕は泣きながら、聞こえないほどの声でつぶやいた。新品のそれは、僕のものよりもパリッとしていた。

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