第11話 変化2
フュージョンのセメスターは無事に終わり、テストのできも上々だった。きっと、進級できると思った。季節は冬になり、学校は冬休みに入った。
オーストラリア滞在中に、パスポートが切れることになっていた僕は、このタイミングで更新の手続きをした。これは2度目のことだが、やり方をすっかり忘れており、申請に手間取ってしまった。
それと並行して、引っ越しの準備に入った。冬休みが終わると同時に、寮の契約が切れてしまうからだった。
不動産会社を訪ね、いろいろな家を見てまわった。しかし、元の世界で住んだ家は、見つけられなかった。記憶に残っている建物の形や、家の前の道路。家の周りの風景は思い出されるが、肝心の不動産会社が思い出せない。
「グーネラバ。リズモアの郊外か。この変な名前。気になるんだよな」
元の世界の家と巡り会えない僕は、車で走り回った。まだグーグルマップがない時代。自分で走り回るしか、思い出す方法がなかった。グーネラバ、それはただ唯一、僕が思い出せたワードだった。
「ん? この景色……。もしかすると? ここを右に曲がると、すぐ右手に入り口があったりする?」
そこは、かつて住んだ家だった。僕はやっと見つけた。元の世界と同じで、その家は賃貸に出されていた。僕は携帯電話を取り出すと、看板の番号に電話をした。見つけられなかった理由を考えながら。
リズモアのグーネラバ地区にある、ダッドリー・ドライブ1/3。元の世界で住んだ家を、僕は契約することができた。そこは平屋2軒がつながったレンガ造りのリンクハウスで、ラス・ロードから、オリバー・アベニューを行ったところにあった。卒業まで暮らす最後の家。それは、憐と初めて同棲した懐かしの家でもあった。元の世界での思い出が、パッと湧き出てきた。
「智博。これ切っといてもらえる?」
「オッケー。大きさはこんなもんでいいのかな?」
「もうちょっと大きいほうがいいかも」
「これくらい?」
休日になると、2人で料理をした。まだ苦手な僕に、憐はいろいろ教えてくれた。
「憐。実は、憐が野菜を選んでる間に、サラミを買っといたんだ! このサラミ食べてみてよ。超ウマイから!」
「ホントだ! おいしー! 日本じゃ食べられないよ、これー!」
「でしょ! でしょ! これ、食べさせたかったんだよー!」
日本と違ってオーストラリアでは、ローカルなスーパーでも多様なサラミが選べた。ささやかな乾杯をして、僕らは夜を過ごした。憐はずっと笑顔だった。
不動産会社に電話をしたあと、僕はしばらく想い出に浸っていた。そして我に返った僕は、昨夜の憐との電話でのやりとりに暗くなった。なんでこんなに苛立つんだろう。憐のことが大好きなのに。
新居に引っ越し、新しいセメスターが始まった。そこは、学校まで歩くのは無理だが、緑あふれる住宅街で、環境はとてもよかった。
「早く憐に会いたい。2人で暮らしたい」
僕は毎晩眠りにつく前にそう思った。ケンカをしてしまった夜でも。
一緒に料理をしたい。一緒に洗濯をしたい。一緒に買い物をしたい。僕は人生を憐と過ごしたかったし、憐のいない人生が不安だった。
「この世界の僕に、元の世界の僕が知る未来なんてあるのだろうか」
ふと、そう思うことがあった。僕の知る答えは1つしかなかった。
「憐といること。絶対に手放しちゃダメだ」
しかし、今の僕は反対の方を向いている気がした。
大学最後のセメスター、それは自由研究がテーマだった。そこで僕は、ベースラインコンピングというテクニックに挑戦していた。初めて知ったのは、マーティン・テイラーの『Two's Company』というアルバムに収められていた『Billie's Bounce』という曲だった。
この曲は巨匠チャーリー・パーカーの曲なのだが、マーティン・テイラーはそれをギターデュオでやっていた。
ギターは通常片手で指板を抑え、反対の手で弦を弾く。そのためピアノのように右手でコードを弾きながら、左手でベースラインを弾くなんてことは難しい。
多くの場合ギターはコードを弾き、ベースギターがベースラインを弾く。ピアノでは1人でできることが、ギターだとできないのだ。
しかしベースラインコンピングのテクニックが使えれば、ピアノのように1人でコードを弾きながらベースラインも弾くことができる。
マーティン・テイラーが弾くベースラインコンピングを聴いた時に、僕はその歯切れのよいスイングに圧倒されてしまった。そして、自分でもやってみたくなった。もちろん特殊な技術なので、簡単ではないのだが。
「これを取り入れられれば、ギターの世界はさらに広がる」
そう思った。先生に、研究に役立つ音源や資料を紹介してもらい、没頭した。
「憐が来たら聴かせたいな、このテクニック」
できるようになったら、いちいち誰かに見せたがる。まるで子どもの思考に近いかもしれないが、本当にそう思った。
程なくして、憐がオーストラリアに来る日が決まった。途中、憐のご両親が来ることも。それは元の世界と同じ流れだった。
「憐は朝8時には着くから、7時には現地入りしよう。となると、4時には出るから、3時起きだな」
僕は憐を、1人にしたくなかった。寂しい到着にしたくなかった。ゲートの前で待ちわびたかった。憐が成田で待ってくれていたように。
僕は早々に眠りにつき、朝を迎えた。春が近いとはいえ、朝はまだまだ寒かった。僕はカミーラに乗り込み、ブリズベンへと向かった。
日の出まではまだ数時間あり、あたりは真っ暗だった。オーストラリアの道は街区に入らない限り、街灯がなく真っ暗で道も凸凹している。僕は道路の凹みや動物に気をつけながら、ブリズベンを目指した。
1時間ちょっと走ったが、道はまだ真っ暗だった。車が峠道に差し掛り、僕がアクセルを踏んだ瞬間、異音が鳴り響いた。
ガリガリガリ! ガツン! バン!
ボンネットから異様な音がし、何かが飛んでいったような気がした。
ガタガタガタ!
聞いたことのない音がボンネットから響くと同時に、異様な振動が発生した。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。今日が何の日か知ってるのかよ!」
僕は叫んだ。
しかし、カミーラに僕の言葉は通じない。車は走るが、音はひどくうるさく、振動も危険を感じさせるものだった。
路肩に車を止め、暗闇の中でボンネットを開ける。懐中電灯を片手に、エンジンルームを覗き込む。熱気が猛烈に熱い。
「どこがおかしいんだ?」
見た感じ、エンジンルームはいつもと同じに見えた。
原因を見つけられないまま、時間は刻一刻と過ぎていく。
「マジかよ! 間に合わなくなるし!」
憐が、1人空港で困っている顔がよぎった。
試しに再度エンジンをかけてみた。
ガガガガガ! ガリガリガリガリ!
オルタネーターを支える土台のナットが吹っ飛んで、オルタネーターのクーリングファンが接触しているのが見えた。
「こんなとこ飛ぶのかよ……。きっと閉め忘れだろこれ!」
エンジンの換装を思い出し、僕は凹んだ。
「ヤバイよ。どうするよ。憐を1人にさせちゃうよ……」
僕には、憐の不安そうな顔がいくつも浮かんだ。車は1台も通らない。暗闇だけがそこにはあった。僕は必死に考えた。
「例えば、ゆっくり走れば行けるか?」
それは無理だと、すぐに分かった。オルタネーターを持ち上げない限り、クーリングファンも、それが接触する部分も摩擦で終わってしまう。ベルト自体も緩んでしまっていて、締め直すほうが得策だった。ナットで留め直す以外に方法はない。しかし、僕には予備のナットなんてなかった。
「どうしよう。予備のナットなんてないし。こんなの考えてなかった……」
僕には、目につくナットを全て試す以外に、方法が見つからなかった。ボンネットの中を見回す。すると身近なところで、サスペンションが目に入った。それが、一番取りやすいナットだった。
「これでいけるかやってみよう。無理なら違うやつ」
無理だとは思っていた。そもそもパーツが求める強度が違う。でもやるしかない、工具を出した。
僕は、サスペンションのナットを1つ取り外し、オルタネーターの土台のネジに合わせてみた。
「マジかよ! いけんじゃんか!」
本当に不思議なのだが、ピッタリだった。そういうものなのだろうか。
「こんなことってあるのかよ! この車のナットって全部共通なの?」
ありえないと思った。
熱せられたオルタネータを雑巾で持ち上げながら、僕はどんどん締めた。最悪、憐を連れてリズモアまで帰れれば、車が壊れたってよかった。サスペンションが曲がるとか、足回りがイカレるとか、それは二の次で、憐のことしか頭になかった。
オルタネーターを戻した僕は、ブリズベン空港へ急いだ。
「元の世界じゃ、こんなことなかっただろ! なんだよこれ!」
間に合わないと思った僕は、泣きたかった。
「ごめん、憐。俺、間に合わないかも……。悲しませたくなかったのに……」
成田空港の最前列で待っていてくれたように、僕も彼女を待ちたかった。誰の迎えもない空港ほど、侘しいものはないと思った。
空港に到着した僕は、駐車場に車を停めると、なりふりかまわず走った。
「お願いします! なんでもしますから、憐をまだ着かせないで!」
しかし、飛行機は到着した後だった。携帯電話を持たない憐に、僕は連絡の取りようがない。
「最悪だ……」
憐が不安そうに、空港をさまよう様子が脳裏に浮かんだ。憐がゲートから出ていたら、そう思うと申し訳なくて仕方がない。僕はゲートの前に陣取りながら、周りの人々を見まわした。しかし、憐を見つけることはできない。
「なんで、こんな大事な日に、こんなことになるんだよ……」
ショックだった。日本人の出てこないゲートと、見まわしても見つからない憐。僕は悔しくて仕方がなかった。そして憐を探しに場所を移動しようとした時、彼女がゲートから出てきた。
憐は僕を見つけて、笑顔で手を振った。僕は、喜びと緊張のあまり、息が止まりそうになった。
「ああ。よかった。助かった……。本当に……。憐に間に合った」
安心した僕は、本当はしゃがみたかった。しかしなぜか、不自然にカッコをつけてしまった。
「憐。お疲れ様。無事に着いてよかった。寒くない?」
元の世界での再会のように、僕は抱き寄せることができなかった。自然体で憐に会うことができなかった。
「大丈夫。こっちの方が過ごしやすいかも。ありがとう」
憐の答えは柔らかかった。
「よかった」
僕はそうつぶやくと、憐を車に乗せた。抱き寄せることができなかったことを、悔やみながら。
そして、話すことはたくさんあったが、まずオルタネーターのことを話した。早起きしたが、途中で不具合を起こしたこと。暗闇の中で手間取ったこと。サスペンションのネジがピッタリだったこと。そして、間に合ったこと。
サスペンションを気にした僕は、リズモアまでゆっくり走って帰った。それは4時間くらいの道のりだった。しかしその間、憐はずっと笑顔だった。それは、僕が一生忘れないだろうと思えるような、心からあふれる本当の笑顔に見えた。今思えば、憐が見せた一番の笑顔だったと思う。
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