第10話 変化1

 飛行機の中で、夢を見た。


 それは以前に見た、病院のベッドの続きのようだった。憐、月、星、3人が僕のそばに座っているように感じた。


「パパ、指が動くようになったね」


 星の声がした。


「そうね。パパは、ママたちの言ってることが分かるようになったの。だからもう少しで起きてくれるかもしれないわね」


 憐の優しい声がした。それはどこか明るく感じた。


「パパのほっぺあったかい」


 月が僕の頬を、手のひらで撫でているようだった。


 僕は絶えずこの3人に守られていた気がした。


「ありがとう」


 声に出せないその気持ちを、僕は指を動かすことで示していた。すると、憐が指を握ってくれた。


「モールス信号を打てたら……」


 僕はふとそう思った。そうすれば、もう少し思いを伝えられたかもしれないと。


 その部屋には、いい香りがしていた。それはきっと花だろうと思った。憐はきっと、あらゆる感覚から僕を刺激しようとしていたのだと思う。音楽を流したり、体をマッサージしたり。五感を刺激して、僕を目覚めさせようとしている気がした。僕は憐の努力と気持ちに、胸がいっぱいになった。


「月、星、2人で飲み物買ってきてくれない?」

「うん! 分かった」


 月が答えた。


「お姉ちゃん! 僕コーラがいい!」

「2人とも好きなものを買ってきていいわよ」


 憐が2人に答えた。


「ママは何がいい?」


 月が聞くと、


「ママはお水。お願いね」


 2人に告げた。


 部屋の扉を開け、2人が出ていく音がする。


「星! 走っちゃダメでしょ!」


 月が扉を閉めて、出ていったようだった。


 しばしの沈黙ののち、指のような感触が僕の顔に重なった。それはおでこから頬に向けて、ゆっくりと流れていく。柔らかくて心地よい。


「智博……」


 名前と同時に、唇が重なった気がした。憐は僕を抱き締めながら、キスをしたのだと思う。僕は憐の体温と、憐の匂いに包まれた。


「早く良くならなきゃ。憐たちのもとへ戻らなきゃ」


 心からそう思った。




 翌日、ブリズベンに降り立つと、拓が僕を待っていてくれた。


「拓、迎えに来てくれてありがとう! 本当に助かったよ!」

「よ! 休学さん! 愛は育まれたみたいだねー? いろいろ聞いたよー。お母さんに」

「え!? 諜報機関か!」


 拓に茶化されて僕は顔を赤くした。拓はたまに母親と連絡を取っていたらしく、いらんことまで知っていた。


「これ、拓の車?」

「そうだよー。買ったんだよ。徹夜のレコーディングとかあって、不便だから」


 拓は水色のビートルに乗っていた。


「智博も高校時代に黄色いビートルに乗ってたんでしょ?」

「そうそう。乗ってた! 懐かしいなー。クラッチが、トラックみたいに重いでしょ」

「ほんと、クラッチ重くてさー。疲れるんさー」


 そんな話をしながら、ブリズベンからリズモアへと走った。普通に走って3時間の距離である。


「リズモアはどう? 何か変わった?」

「うーん。ドラムのマットとか卒業生の数人が残って、先生のアシスタントをしてるくらいかな」

「そっか」


 1年休学したことにより、同級生はみんな卒業していた。寮のシェアメイトだったアーロンやキャメロンにも、僕は別れを言えなかった。


「拓が一年後輩でよかったよ。年は上だけど!」

「そうだぞ。感謝しろー!」


 長い道中、僕らはたわいもない話をした。そして気がつけば、バンガローを越えていた。それは、憐とバイロンベイからの帰りに走った、想い出の道でもあった。




 僕は新しい寮に入り直すことになった。かつての寮にあったものは、拓がトランクルームに移動してくれていた。本当にありがたい。それらを持ち出し、新居へと運んだ。次の新居は中国系インドネシア人の男性との2人暮らしだった。


 彼は情報系の学科に通っていて、とても冷静で礼儀正しい人だった。音楽学部には本当に変わった人が多く、大麻やらマジックマッシュルームやらのせいで、物忘れの激しい人もいた。そんな連中を相手にしていた僕には、この人がとても真面目で信頼できる人に見えた。実際、彼はそうだった。


 これまでの経験上、東南アジアから来る留学生の多くは、その目的がはっきりとしていた。彼らは本気で学びに来ているのだ。その知識を母国へと持ち帰り、国の成長に役立てる。そのためにここにいる。


 僕みたいな個人の事情ではなく、国を背負った責任が窺えた。そんな彼らには未来への強さを感じたし、そういうものが集まって国は発展していくのだろうと思った。富国強兵ではないが、僕が日本のために行動したことがあっただろうか、と恥ずかしくもなった。


 今回の寮は、大学の正面玄関からまっすぐ続くミリタリー・ロード沿いにあった。途中、大きな墓地の横を通り、クローフォード・ロードを越える。すると、懐かしの白い木造一軒家が建っていた。その斜向かいには、アパート型の寮もあって、そこにはかつて拓が住んでいたこともあった。


 余談になるが、僕が人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』を初めて見たのは、拓のいたこの寮だった。当時の僕は、このアニメがそれほどまでに人気だとは知らなかった。それは、ローカル局で夕方に放送されていて、僕は日本との接点が持てたことが嬉しくて観ていた。エンディングソングに、ジャズのスタンダードナンバーである「Fly Me To The Moon」を選んだところも好きだった。


 話を戻そう。高学年向けのこの寮は、2人で一軒家をシェアする、バックヤード付きの仕様だった。これが憐とならばいうことなしなのだが、そういうわけにもいかないだろう。ここは学校の寮なのだから。


 3年生になると、学生間でのレコーディングの依頼が増えた。特に作曲科の人々は、自分の作品をアレンジし、レコーディングする課題が出されていた。そのため、それ以外の学科の大半は、そのレコーディングに駆り出された。


 それは大抵が夜通しで、夜の10時頃にスタートし、朝の6時頃に終わる。帰って少し仮眠をとり、寝ぼけたままクラスに出る。クラスが終わると、太陽の照り付ける芝生の広場に行き、そこでまた昼寝をする。そんな繰り返しは、元の世界となんら変わらなかった。


 しばらくの間は徒歩で通い、アンプを持っていく場合は誰かに車を頼んでいた。しかし、レコーディングやリハーサルが忙しくなるにつれて、人に車を頼むのが申し訳なくなった。徒歩による練習時間や睡眠時間のロスも辛かった。


 僕は車を探すことにした。大学には、学部ごとに売買用の張り紙掲示板があり、僕はそれを頻繁にチェックするようになった。ちなみにこの掲示板では、クリーム色のフェンダージャパンのテレキャスも買った。予備となるギターを、持っていなかったからだ。


 僕は青のブルーバード・ワゴンを探した。元の世界で乗っていた、青のブルーバード・ワゴン。それは、この掲示板で買ったものだった。当時の僕は、少しでも憐とのつながりを持っていたかった。


 憐に告白したあの日の、うっすらとした曖昧な記憶。そして憐と1周した、一夏の思い出。掲示板を見るたびに、元の世界の思い出に懐かしさを覚えた。


「早く憐に会いたいな」


 僕は独り言を呟きながら車を探した。


 しかし、こっちの世界でそれは叶わなかった。ブルーバードが見つけられなかった僕は、仕方なく赤のステーションワゴンを買った。ホールデンというオーストラリアのメーカーで、1985年式のカミーラという車種だった。


 それは、人の良さそうな夫婦が売りに出していた。のっぺりとした顔のその車は、走行距離が20万キロを超えていた。当時のオーストラリアでは、ピカピカの新車もあれば30年落ちや80年代の車も普通に走っていた。


 きっと日本と違って、車検がさほど厳しくないことが理由だと思う。そこには、大陸国家ならではの事情もあるのだろう。


 オーストラリアの土地は、本当に広い。特にリズモアなどの田舎町の場合、中心部から離れたとたんに家がなくなる。日本と違って街と街の移動距離が長く、公共の交通機関もほとんどない。買い物などの移動を考えると車は必需品であり、それは国家運営の基盤ともいえる。


 国民になるべく車を持たせるための手段として、オーストラリア政府は車を保持しやすい政策を取ったのかもしれない。


 そんなこともあり、オドメーターは簡単に距離を稼いでいく。拓のビートルも優に30万キロは走っていた気がする。ビートルのエンジンは丈夫なんだな、と思った記憶が蘇った。


「あれ。なんか白い煙が止まらないんだけど?」


 このカミーラのエンジンは、残念なことに買ってすぐ壊れた。しかたなく僕は、程度の良さそうな中古のエンジンをお願いした。10万円の車に、5万円のエンジン。憐とのラウンドが終わるまで持てば、それでよかった。


 元の世界ではなかった、エンジン換装という痛い出費。未来への変化は、この車を買った時点で起きていたのだが、僕は気にしていなかった。未来が変わることはないだろうと、高をくくっていた。




 フュージョンのセメスターは、やはり難しかった。2回目でも難しいのだから、相当難しいのだと思う。


 クラスはフリージャズからスタートした。日本でフュージョンというと、もっとポップなイメージだが、フリージャズとなると全く違う話になる。そこに爽やかさは、ほとんどない。セメスターのお題目がフュージョンなだけで、授業の内容はフリージャズだった。


 一応セオリーはあるが、ルールはジャズよりもない。フリーという言葉の通り、限りなく自由。ただ、互いに勝手に話していては会話にならないので、相手の音には反応する。


 そんな感覚重視の世界は、難しくて仕方がなかった。弾き手の感覚、聴き手の感覚、コピーする僕の感覚、全てがいろいろなのだ。どれが正解なのかも分からなければ、どれが間違いなのかも分からない。気持ちよさ、つながり、そこに正解があり、それが欠落していれば間違いなのかもしれない。


 僕はこのセメスターでも曲を書いていた。もちろん元の世界で書いたもので、憐を思っての曲だった。僕の行動のいちいちすべてに、憐という原動力が加わっていた。


 僕は期末テストで、この曲を弾こうと決めていた。憐と一緒にいられないのなら、せめて憐を思って書いた曲をと。それは、元の世界でも、こっちの世界でも変わらなかった。


 憐との日記は、この時も続いていた。僕の人生の中で、最長の日記記録を持つのが憐であり、僕から日記を受け取ったことがある人も憐だけだった。


 そんな思いとは裏腹に、僕は憐との関係が心配だった。今回の遠距離の間に、憐の気持ちが離れてしまわないかと。僕と付き合ったばかりに、不要とも言える遠距離恋愛を強いてしまったのだから。


 日本であふれる季節ごとのイベント。それはどれを取ってもキラキラしていた。それらが雑誌の表紙を飾るたびに、カップルたちは愛を深めるのだ。そのキラキラした感じは、日本特有のものも多かった。リズモアではそれほど盛大にやらないことも、日本では大きく取り扱われる。


 僕はそれらを、自然と憐に重ねていった。一人で眺めて過ごすことが、どれほど辛いだろうか。周りのカップルを見れば寂しくもなるだろうし、羨ましくもなるだろう。その場から逃げたくすらなるかもしれない。


 そのすべての原因が僕であるのだから、それは辛かった。一緒にいてあげられない不甲斐なさは僕を醜くし、謝りたい気持ちが裏目に出ることもあった。


「もしもし、智博? 今日ね、御殿場のアウトレットに行ってきたんだよ。オープンしてすぐに行ったよね? 久しぶりに行ったら楽しかったー。覚えてる?」

「御殿場のアウトレットに行ったんだ。よかったね。誰と行ったの? どうせ男もいたんでしょ?」

「職場の仲間でだよー! 男子もいたけど、女子もたくさんいたんだよ?」

「でもさ。その中の男に、言い寄られてたりしてるでしょ。多分。想像つくもん」

「そんなことないって。言い寄られても断ってるし」

「やっぱ、言い寄られてるんじゃん! だから嫌なんだよ!」


 憐の言葉の端々で揚げ足を取り、彼女を困らせた。国際電話の貴重な時間は、そんなことに潰されるようになっていった。


 元の世界でも僕は憐の心配をしたし、ケンカもした。しかし今回のものは、それよりも酷く、意地悪に思えた。そんなやりとりが終わるたびに、僕は自分を責めた。しかしその感情は、どうしても止められなかった。


 こっちにいるばかりに、僕がギターをやっているばかりに、憐は離れてしまうかもしれない。今も男と過ごしているかもしれない。僕は疑心暗鬼になり、憐の周りのすべてに嫉妬した。憐がいなくなってしまうのが怖かった。


「なんでそんなこと言うの? 私だって智博のこと心配だよ? 今夜だって、智博と話したいからなのに。毎週末、だから家にいるんだよ……」


 僕は電話越しに、何度も憐を泣かせてしまった。その声は、電話を切った後も耳に残った。瞼を閉じるたびに蘇った。


 だけど僕は、苛立ちを止めることができなかった。抗えない感情に、襲われることがあった。元の世界との違いが、嫌になった。

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