第8話 休学1

 僕を実家に送り届けた憐は、翌日仕事があるので帰っていった。あきる野市から成田空港へ、そしてまたあきる野市に戻り大和市へ。


 その移動距離を考えると、申し訳なくて言葉にもならない。疲れた様子を見せることもなく、憐は僕の心配だけをしていた。


 帰宅したのが夜だったこともあり、両親との詳しい話は明日になった。その日は、僕も疲れが酷く、横になることにした。


 翌日、目を覚ました僕は、ほんの少しだけほっとしていた。どうにか、憐と離れずにすんだことについては。


 ただ空港での光景を思い出すと、体はまだ萎縮し震えが止まらなかった。その恐怖は、間違いなく元の世界のものとは違った。


 生きてきた中で、味わったことのない恐怖。この世界に取り残されてしまう感覚。憐のいない一人ぼっちの世界。


 目覚めてからも、僕の意識は中心となる拠り所を失ったままだった。恐怖で思考がまとまらないとでもいうか、頭が断続的にフリーズしている感じだった。記憶を思い起こすのには時間を要した。


 この出来事に両親は、すごく戸惑っていた。しかし怒ったりはせず、僕にしっかりとした説明を求めてきた。


 もし僕の子どもたちが同じことをしたら、僕はどうするのだろうか。そして憐はどうするのだろう。


 元の世界の僕は当時、自分のやってしまった現実にすっかり怯えていた。大きな過ちを犯してしまったのではないかと。自分勝手に振る舞っておいて、何を今さら。大人になって振り返るたびに、恥ずかしくなったことが思い出された。


 両親の、暗く困った表情を見るのは辛かった。それは本来ならば、昨夜の空港で思い出すべき表情だった。父親も母親も、ただ僕の未来と、僕の人生だけを心配してくれていた。それは元の世界と同じ光景。次々と思い出される記憶の中、僕はひたすらに頭を下げて謝った。


「休学するからには、日本で実績をあげてみろ。何かしらの結果を残せ」


 あの日も投げかけられた父親の言葉。


 元の世界の僕は、この言葉に報いることができなかった。それを思うと心が詰まってしまい、何も答えられなかった。


 ただ、子どもを持つ身となった僕には、両親の気持ちがよくわかった。無償の愛を、無慈悲に扱ったことに後悔した。せめて元の世界よりは報いたい、そう心から思った。


「わかった。結果を出すよ」


 一つでも何かを残したかった。たとえ無理だと分かっていても。


 今思えば、これが最初の転換点だった気がする。これまでも、元の世界と異なる部分はあった。しかし小さな違いがあったからといって、世界の潮流が変わったようには思えなかった。僕の知る過去と、何かが大きく変わったようには感じなかった。それが、僕を安心させていた部分はあったかもしれない。


 せめて元の世界よりは報いたい。それは無意識に思った言葉だった。しかしその言葉の中には、未来を変えたいという願望が含まれていた。未来を知る者が未来を変えたいと下す決断、それは普通に考えれば危険でしかないだろう。知らずに待つ未来ではなく、知っている未来を変えにいく。


 僕のこの決断は、潮流の水面に一石を投じることになる。その波紋は次から次へと伝播し、やがて僕を悩ませることになるのだった。ある1つの答えに、たどり着くまでは。




 僕はバイトを探し始めた。新聞の折り込みから、求人誌まで、何にでも目を通した。時間の融通がきいて、なおかつ時給のいい仕事。都合のいい話だが、この条件は音楽や俳優業には絶対だった。僕は音楽を中心にスケジュールを組むようになった。


 元の世界の僕は、近所のコンビニで夜勤をし、それを元手に音楽活動をしていた。だが、今回はそれをあえてやめた。そして僕は、パチンコ店の面接を受けた。


「えーっと。浅野さん、音楽活動をされてるみたいですね。それだと、お金と時間のバランスを取るの大変でしょう。それでウチの店に?」

「はい。フルで働くことは難しいのですが、そういった面で御社の給与体制に惹かれたのは間違いありません」

「そうですか。ウチの店にも音楽やら役者やら、いろいろな人が働いてます。ところで、パチンコやスロットの経験は?」

「い、いえ。全くありません……」

「そうですか……。経験なしですか……。それじゃ、スロットの目押しとかも分かりませんよね? フロアに立つと、お客様にお願いされたりすることもあるのですが……」

「目押し? すみません。分かりません……」


 僕はこの日初めて「目押し」と言う日本語を知った。


「そうですか。それだとこの仕事は、ちょっと厳しいかもしれませんね。経験がないんじゃ……」


 面接に行って現実を知った。思えば、僕はギャンブルをやらない。興味のない僕は、それらと無縁の生活を送ってきた。だから、元の世界で年齢を重ねたとはいえ、今回の仕事に役立つ知識を持っていなかった。


 落ち込む僕とは裏腹に、店内はお客で賑わっていた。そこにはリーゼント頭の店員がいて、流暢なマイクパフォーマンスを披露していた。


「今度は失敗しないように、慎重に選ぼう」


 僕の望む条件を満たすバイト、それをあきる野市で探すのは難しかった。探し回った結果、僕は回転寿司店にお世話になることにした。料理は嫌いじゃないし、スケジュールの融通がきくのが一番のポイントだった。掛け持ちのバイトが必要になったら、都度フレキシブルに対応していこうと思った。


「今日からお世話になります。バイトの浅野です。よろしくお願いいたします」


 新米スタッフである僕の最初の仕事は、皿洗いだった。厨房で食洗機に皿をセットし、洗い終わったものをチェックする。汚れが残っていれば、手で洗い落とす。


 次にシャリ作り。袋詰めされた酢飯を機械に入れて、米を攪拌する。機械が握るシャリを一つずつトレイに移し、規定数になったら次のトレイにシャリを補充していく。それを繰り返し、板場から呼ばれるとシャリを運んだ。僕の働いていた回転寿司店は、板場の周りに回転レールがあり、お客さんの注文に応じてその場でも握っていた。


「そういえば、浅野は音楽をやってるんだって?」


 初日の仕事が終わり、厨房の掃除をしていると、副店長がやってきた。


「はい。そうなんです。実は今メンバーを探していて」

「そうなのか。ウチにも昔、ドラムを叩いてる若いヤツがいたんだけどなー」

「そうなんですか」

「そいつもバンドメンバー探してたんだけど、会わせられなくて残念だよ」

 すると、板場のスタッフたちが副店長を呼んだ。

「なんだよ、あいつらー。こっちは忙しいのにー。」


 副店長は厨房を出て行った。


 しばらくすると、副店長がニコニコしながら戻ってきた。


「浅野! さっき話したドラマーが来たよ! 噂をすれば、だな!」


 僕はビックリして振り返った。


 そこにはパチンコ店で、流暢なマイクパフォーマンスを披露していた、リーゼント頭が立っていた。


「あれ? あなたは……」


 お互いに驚いた。向こうは向こうで、パチンコ店に面接に来たヤツがいる、といった印象だったのだろう。


 副店長の仲介もあって、僕たちは連絡先を交換した。


「初めまして。浅野です」

「こちらこそ、初めまして。遠野とおのです」

「遠野さん、パチンコ店にいましたよね?」

「自分も今ちょうどそれを考えてました。まさかここで会うなんて」

「ここで働かれていたなんて、すごい偶然ですね」

「いや、本当に」


 家に帰ると、僕はさっそく遠野に連絡をした。そして、受話器越しに『蒼い星』という曲を聴かせた。彼が音源に興味を持ってくれたので、僕は他のもいろいろと聴かせた。


 そして、今度ダビングをして渡すことになった。MP3ファイルにして送れば早いのだが、この時代ではそれはできない。


 彼の名前は遠野裕人ひろとといい、音楽の専門学校に通うドラマーだった。僕の期待値は一気に高まり、音楽の好みやバックグラウンドについて話し合った。


 驚くことに遠野は、僕の中学の後輩でもあった。遠野を年上だと思っていた僕は、その意味でも驚いてしまった。


「この音源でベースを弾いてる、荒木あらき直也なおやってヤツがいるんだけど、そいつ俺の同級生なんですよ! つまり、俺たちみんな五中出身になるんです! 今度会ってみませんか?」


 僕は遠野に加入してもらいたくて、必死になっていた。


「ぜひ! 今度3人で音出ししてみましょう!」


 遠野も前向きな答えをくれた。




 程なくして、僕らはバンドを組んだ。元の世界では出会わなかった、遠野というメンバーを加えて。バンド名は『Ampticpomp』。名前は荒木が決めた。これは荒木の造語で、「アンプのように華麗な」といった意味があったように思う。


 僕がギターヴォーカル、荒木がベース、そして遠野がドラム。僕らはスリーピースバンドで、通称アンプチと呼ばれた。


 結成すると僕らは、すぐにデモ音源制作に入った。当時はまだアナログとデジタルが混在していて、デモ音源といえばデモテープが主流となっていた。それはのちにデモCD、デモデータなどに変遷していくのだが、当時はまだ家庭でテープが聴ける時代だったのだ。


 僕たちは、いろんなライブハウスのオーディションを受けては、合格していった。そして多摩地区から徐々に23区へと進出し、下北沢を目指した。いくつものライバルとなるバンドと出会い、音楽をぶつけ合う日々が始まった。


 初ライブは、国立にあるリバプールというライブハウスだった。そこは遠野の馴染みのライブハウスだったこともあり、オーディションなしで出られたからだ。人当たりの良いオーナーがいて、店名からもわかるように、見渡す限りビートルズの内装だった。


 そこで何度かライブをするうちに、僕らは『田舎武士』というバンドと出会った。グレッチにウッドベースのスリーピース。ロカビリー色の強いバンドで、正直に言ってカッコ良かった。こんなバンドが日本にもいるのかと驚いた。


 多摩地区のライブでは、田舎武士とかち合うことが多かった。彼らとの対バンは刺激的であり、間違いなく成長の糧になっていた。しかし、田舎武士は忽然と消えた。連絡先を交換しておけばよかったと後悔した。


 僕たちは八王子でもライブ拠点を持っていた。ある日、年下の、しかし強烈なバンドと対バンになった。聞けば23区を中心に活動しており、メジャーからも声がかかっていた。彼らの演奏には、波のような巻き込む力があり、楽曲ともに素晴らしかった。彼らの名前は『てろろ…』といった。


 対バンをした時に、


「あ、負けたかも」


 と思わされた最初のバンドだった。このバンドとはその後も何度か共演し、友好を深めた。それは、後に僕の人生を狂わすきっかけにもなるのだが。


 ある日、てろろ…主催のイベントに出演したとき、「指名手配犯」というバンドと共演することになった。田舎武士を思い出させる尖った音楽で、ロカビリーとロックが程よくブレンドしていてカッコいい。てろろ…が推薦するだけのことはあった。


 ライブ後に疲れて楽屋で休んでいると、指名手配犯のメンバーがやってきた。どこかで見た覚えのある彼は、田舎武士のメンバーだった。話によると、田舎武士を解散して、新たに指名手配犯を始めたとのこと。道理でカッコいいわけだった。


「遠野さん、あそこのパチンコ屋で働いてるでしょ」


 指名手配犯のメンバーが言った。


「なんで知ってるんですか?」

「だって俺たまに行くもん」


 なんと指名手配犯もあきる野市出身のバンドだった。

 てろろ…、指名手配犯、アンプチ、僕たちは暫く対バンでガチンコすることになった。

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