第7話 帰国2

 冬の間、僕はギターの練習なんてほとんどせずに、憐のそばにいた。たまに拓と出かけることもあったが、ほとんどは憐を中心に生活をしていた。拓が去った後は、それが加速した。


 憐は見た目以上にアクティブな女性だ。ワーホリで海外に行くくらいだから、当然とも思えるが、元の世界の僕はそのエネルギーにいつも圧倒された。


「智博。スノーボードってやったことある?」

「スノーボード?」


 実は、僕にスノーボードを教えてくれたのが、元の世界の憐だった。そういう流行りものに疎い僕に、憐はたくさんの世界を見せてくれた。


「スノーボード? やったことないよ。というか、そもそも雪山に行かないし」


 元の世界の懐かしさを嚙み締めながら、当時のように答えた。


「スノボすごい楽しいよ! 行ってみようよ!」


 憐は雑誌を取り出すと、いくつかのページを開き、付箋を貼っていった。


「群馬だと水上とか嬬恋とか、新潟だと苗場とか。温泉もあるし、ペンションに泊まってさ?」


 憐の情報力はどこから来るのかと、昔の僕は驚いてばかりいた。だが、こうして改めて見ると、自分が無関心すぎたのだと気付かされた。


「この雑誌、懐かしいな……」


 僕は心の中でつぶやいた。


「うん。スノボ行ってみよう!」


 僕は実家にあったパジェロミニに、スノーボード用のキャリアを付けることにした。リズモアで国際免許証を発行してきていたので、運転は問題なかった。


「よし。これで2人のギアが積める」


 憐との楽しかった想い出が蘇ってきた。元の世界の僕らは、この車でいろんなところに行った。2人のギアを載せて。


 旅の計画は着々と進んでいった。宿の手配も済み、後は僕のギアを買うだけだった。僕たち2人は、新品から中古品までくまなく見て回った。


「なかなか決められないね。智博どうするの?」

「確かに。どうしよう」


 僕は戸惑っていた。元の世界ではすんなり決まっていたはずだった。


「なんで決まらないんだろう。何に迷ってる?」


 僕は困惑した。


「ねえ。今回はレンタルにして、また帰ってから探してみたら?」


 憐が提案してきた。


「そうだね。そうしようかな」


 僕は、少し気になりながらも頷いた。


「たまにある、元の世界とのギャップ。これは一体なんなんだろう。何か意味があるのだろうか」


 そんなことを考えながら。




 憐との初めてのクリスマスは豪華だった。僕は帝国ホテルに部屋をとっていた。パジェロミニで帝国ホテルへ。なんとも不釣り合いな感じだが、当時の僕は大マジだった。憐とただただスペシャルなことをしたくて、この勇ましくも厳かな名前のホテルを選んだ。


 久しぶりの帝国ホテルはやっぱり威厳があった。巨匠フランク・ロイド・ライトと帝国ホテルの関係を知ったのは、出版社に入ってからのことである。


「いつ来ても緊張感あるなあ……」


 僕の人生で帝国ホテルに泊まるのは、後にも先にも元の世界とこっちの世界の2回だけだ。巨匠フランク・ロイド・ライトのことも、帝国ホテルの歴史も知らないくせに、随分思い切りのいいことをしたと思う。しかも、夕食もホテルのレストランを予約していたのだから、大学身分の出費を超えている。


 憐は喜んでくれたが、本心を言えば2人とも緊張しすぎて逆に疲れた。エレベーターに乗るのでさえ気を遣った。僕らの休める場所、それは部屋だけだった。


 1999年12月31日から2000年1月1日へ。ノストラダムスの大予言、2000年問題で話題になった記念すべきミレニアムを、憐と僕は僕の実家で迎えた。


「ア ハッピー ニューイヤー!」


 ほろ酔いの母親はご機嫌で、憐と僕のところにやってきた。そういうことに興味のない父親は、とうに寝ていたが。


「お母さん。明けましておめでとうございます」


 憐が丁寧にお辞儀をした。


「明けましておめでとう。俺たち高幡不動に行こうと思ってるんだ」


 憐と僕は高幡不動に初詣に行こうと話していた。今年も2人でいられるように、お祈りをしに。


 高幡不動は、ものすごい混みようだった。駐車場はどこも満車で、探すのに苦労した。境内に入り僕らはお参りをした。そして、高幡不動の中を見てまわった。初めて来たそこは思っていたよりも広く、どこか神秘的だった。やぶの中の小径を僕らは歩いた。


 三が日も明けると、ミレニアム問題も落ち着き、世界は通常運行に戻ったようだった。そして、できるだけ仕事を減らしてくれていた憐は、変わらず僕のために時間を割いてくれていた。


 その後も僕たちは、何度もスノボ旅行に行った。新潟、群馬、長野、山梨など。関東近県はほとんど行ったと思う。ペンションに泊まり、温泉に入った。白いスノーウェアとゴーグル姿の憐はかっこよく、僕を嫉妬させた。初日に受けた股関節の筋肉痛は、回を増やすごとに和らいだ。


「智博。ごめん。ニンジン食べて」

「うん。ここに置いといて」


 好き嫌いのない僕と、好き嫌いが多めの憐。相変わらずバランスの取れたいいカップルだと思った。


「ニンジンって嫌いな人がたくさんいるのに、なんなの、この出現率……。ホント謎……」


 ペンションに行くと決まって出てくるニンジンに思った。僕は2人分のニンジンを食べながら父親を思い出した。彼もニンジンが嫌いだから。


 そして、元の世界の憐との旅を思い返したりもした。光をキラキラとはじくサラサラの新雪。誰も滑っていない雪に残る、僕らだけの航跡。それは2人の時間の証拠に思えて嬉しかった。僕は楽しかったあの頃をまた味わえていた。幸せが体を渦巻き、キュンと胸を締め付けた。


 しかしこの後も、こっちの世界で僕がギアを買うことはなかった。今思えば、元の世界からの乖離は少しずつ始まっていたのだと思う。僕が気づかぬうちに。




 冬の寒さがピークを越え始めた頃、僕のサマーブレイクは終わりを告げた。昔、祖父にもらった蓄えとともに。


 オーストラリアへ帰る前日、憐は僕の実家に泊まっていた。4人で夕食にすき焼きを食べ、僕の門出を祝った。両親の笑顔を見ながら、僕は思い出していた。かつてオーストラリアに帰らずに、飛行機を見送ったことを。


 明日は2度目の親不孝をすることになる。せっかく祝ってくれた両親を、また悲しませてしまう。なんて恩知らずな息子なのだろう。


「おはよう、智博」

「おはよう、憐」


 その朝は静かにはじまった。ひんやりとした空気は、寂しさを含んでいた。憐がリズモアを発ったあの日、暗闇に消えていったバスを思い出した。


「憐ちゃん。智博を送り届けてくれてありがとうね」


 出立するとき、母親が泣きながら憐に礼を述べていた。僕は憐のシビックで成田空港へ向かうことになっていた。


「いえ、こちらこそ。何度もお邪魔させていただいて、ありがとうございました」


 憐と涙ぐむ母親のやりとりを聞きながら、僕は「お袋ごめん」と小さく呟いた。


「おー。頑張ってこいよ」


 照れくさいのか、父親は空に向かって話していた。


「ありがとうございました」


 憐はそういうと窓を閉め、車を発進させた。


 成田空港までの道中、僕らはあまり話さなかった。窓の外を眺めながら僕は考えていた。元の世界での今日のことを。


 ろくにギターの練習もせずに過ごした冬が、その後の学校生活を不安にさせていた。いつもギリギリだった当時の僕には、この状態で授業についていける気がしなかった。そもそも、こんなに練習をしなかったことが初めてなのだ。そこには恐怖しかなかった。自信のない人間とは、こういうところではっきりする。


 憐と離れるのも嫌だが、オーストラリアに帰ってからの不安も同等程度に持ち合わせていた。あの日の僕は、後悔に押しつぶされていたのだった。


 それと同時に僕は思い出していた。僕にとって海外に行くことは、いつも強制的な試練であり苦しみだったということを。当時の僕は、両親の転勤で海外に行くことが多く、それを楽しいと思ったことが一度もなかった。チェックインカウンターは、いわば試練の門なのだ。


 となりで運転をする憐からは、離れ離れになる緊張感が伝わっていた。それは車全体を包んでいて、出発前に感じる別れの恐怖がジワジワと迫っていた。


 空港に着くと、あらゆる恐怖が混ざり合い、表現しようのない感覚に襲われた。心臓の鼓動が速くなっていくのが分かった。鳥肌も立っていた。


「あの時もこの感覚だっただろうか」


 元の世界で起きた今日の感覚と、今現在の感覚。それらを比べることはできなかった。


「やばい。どうしよう。怖すぎて搭乗手続きなんて……」


 怖くなった僕は荷物を預けることもせずに、物販店の並ぶ方へと進んでいた。意味もなく書店に立ち寄ったり、雑貨店に入ったり。途中で進路を変えては、飛行場内を当てもなく歩いた。憐もそんな僕に付き合ってくれた。そして、時間ばかりが流れた。


「智博。もうチェックインした方がいいんじゃない?」


 見かねた憐が心配そうに言う。


「もう少し。お願い。もう少しだけ」


 僕は憐に頼み込んだ。


「カンタス航空899便、ブリズベン行きをご利用のお客様。出発時刻が迫っています。搭乗窓口までお急ぎください」


 僕は恐怖で怯え切っていた。両親の悲しむ顔も思い出さなかった。


 とにかく憐と離れるのが嫌だった。二度と憐に会えなくなる気がした。憐のいない世界、一人ぼっちの世界。そんなところで生きるなんて、無理だと思った。元いた世界との唯一の接点、それは憐しかいないのに。


 憐と冬を過ごす間に、僕は元の世界に戻ることを諦め始めていた。どうしたって戻れない。だったら、ここが僕の住む世界。ならば、そこには憐がいないと絶対にダメだ。やっと、一緒にいられるようになったのに。


「ウッ」


 胃液が激しく喉を上ってくる。慌てて口を押さえた僕は、頭の毛穴が開くのが分かった。同時に気づいた。これは元の世界の恐怖とは、全く違うものだと。


 授業とかギターとか、そういう話ではない。この世界で一人ぼっちになるか、ならないか。その瀬戸際の恐怖なのだと。


 当たり前の日常だった、元の世界の家族。そのすべてを失ってしまった僕は、希望もすべて失った。この世界は仮想空間であり、偽物。この世界の未来に、何かを期待しても無駄。


 そう思い込んでいたのだ。あの日、憐に再会するまでは。憐こそが唯一の希望、そう分かるまでは。


 壁に寄りかかって、うつむいた。憐の手を握りながら。時間が過ぎるのを、ただ怯えながら待った。


 僕が乗るはずだった飛行機は、僕を残して飛び去った。混乱して震える僕を、憐は抱き寄せてくれた。僕は疲弊し、頭の中は真っ白になっていた。


「智博。大丈夫?」


 僕は返事ができなかった。憐に抱きついて震えていた。


「智博。とりあえず、これからどうするか考えよう?」


 憐は優しかった。憐は僕の頭を撫でて、落ち着かせようとしていた。


「とりあえず、お母さんに連絡しよう?」


 憐に促され、公衆電話へと向かう。混乱気味の僕には、一体何をどう話したらいいのか分からなかった。


「もしもし、浅野です」


 母親の声が聞こえてきた。


「お、お袋? お、俺。と、智博」

「あら、あんた! 飛行機はどうしたの!」

「な、何というか……。乗らなかった。オーストラリアに帰るの、や、やめちゃった……。」


 僕はまだ恐怖に震えていた。憐が僕の手を握ってくれていた。


 母親は驚いた様子で、分かったからとりあえず帰るようにと言ってきた。受話器を耳に当てながら頷いた。


 憐は本気で心配してくれていた。あんなに怯えた人を見たのは、初めてだと言った。きっと、僕を見かけたすべての人がそう思っただろう。


 でも僕には仕方がなかった。この世界が怖かった。一人ぼっちになるのが怖かった。憐と離れるのが怖かった。


 元の世界でもあった出来事だとか、そういう記憶は正直どうでも良かった。すべてが小さなことに思えた。なんなら、今後の人生が元の人生と違ったって構わない、とさえ思えた。


 怯え切った僕は、もう何も考えたくなかった。憐さえそばにいてくれれば、それでいい。2人で走る東関東自動車道の暗闇を見つめながら、僕は考えることをやめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る