第6話 帰国1
日本に帰国する前日、僕は拓とゴールドコーストにいた。彼の知人の家に、一泊させてもらっていたのだ。その知人にブリズベン空港まで送ってもらい、拓と一緒に帰国する。拓は僕の実家にしばらく滞在し、それから故郷の沖縄へ帰る。そんな段取りになっていた。
「智博。良かったさー! 明日は愛しの憐ちゃんのとなりだよ」
「ほんとヤバい。緊張で今夜眠れないかも。憐には、拓も一緒にくることを伝えてあるし、楽しみにしてたよ」
「ほんと、せっかく憐ちゃんのお出迎えなのに、邪魔してごめんよー。ははは」
そんなことを話しながら乾杯し、旅立ちを祝った。
10月31日日曜日、その日は雲ひとつない快晴だった。
「この空の向こうには憐がいる」
何度このフレーズを口ずさんだことか。僕はやっと翼を手に入れ、憐のもとへと行けるのだ。スーツケースとギターを預け、僕たちはチェックインを終わらせた。そしてカンタス航空の搭乗口へと歩いた。
「搭乗手続きが始まったみたいだ。乗ろうか」
拓が促した。
「うん。乗ろう」
僕は憐に会えるという緊張と、軽い二日酔いで、早くゆっくり座りたかった。座席に着くと僕は、静かにこの飛行機にお願いをした。
「お願いだから堕ちないでね。憐に会うまで死ねないよ」
僕と拓は隣り合わせに座りながら離陸の時をまった。
「間もなくこの飛行機は成田国際空港に着陸いたします。シートベルトを今一度お確かめください」
窓の外には、日本の夜景が輝いていた。神奈川から東京を越え千葉へ。飛行機は旋回を続けながら、成田空港の滑走路を目指した。
「あの光の中に、憐がいる!」
僕の心臓は否応なしに高鳴った。憐に告白した時に似た緊張が僕を包んでいた。
「憐に会ったらなんて声をかけよう。人前で恥ずかしがらずに抱き締められるだろうか……」
となりの拓も窓の外を眺めながら、着陸を心待ちにしているようだった。そんな彼を見ながら、僕はぼんやりと思った。
「拓の前で抱き締めるの、緊張するな……」
なぜか僕の中では欧米ドラマのような、感動のご対面、抱きしめるシチュエーションが展開されていた。それと同時にパブリック自重論も台頭し、頭の中ではすっかり『抱き締める派・抱き締めない派』の、くだらぬ論戦になっていた。
憐には、僕ができ得る限りの愛情を表したかった。一人ぼっちの僕を、救い上げてくれた憐。彼女がいなければ、僕はきっと今も現実逃避をし続けていただろう。元の世界に戻れなくても、僕が自分を失わずにいられたのは、この世界に憐がいてくれたから。僕の精神を支えていたのは、憐がこの世界にいる事実だけだった。
しかし憐に向かって進もうとする心を、そんなちっぽけな悩みがとらえて離さない。進めないようにしてしまう。
「ああ。情けない。なんでこんなにも、いらんことばかり考えてしまうんだろう。好きな人にやっと会えるのに。思考ばかりが先行し、自分の心に蓋をしていく。素直な思いを、体現すればいいだけなのに」
心や精神の成長というものは、肉体や脳のそれとは違う。それは肉体のように、時間とともに育ち、衰える性質のものではない。それは経験や知識のように、生きているだけで累積し、使えるようになるものでもない。しかし人間は、そこを見誤りやすいし、気づきにくい。
知識に抑えられた心や精神と、その状態が見せる人間性。それを、人物の成熟度と見てしまうことがある。知識から生まれる言動や行動が、道徳心や精神性の高さに見えることもある。しかしそれは、知識が整えた体裁なだけであって、人物の心や精神の成熟とは異なる。
心や精神の成長とは、時がたったからといって熟成するわけではない。成長させようと意識的に向かわなければ、向こうからやってくるものではないのだ。
本当に成長した心や精神とは、きっと知識や記憶の拠り所がなくても立っていられるもの。肉体が老化し、脳が衰退したとしても、変わらず立ち続けられるもの。それはきっと、さざれ石の巌にも近いのかもしれない。
もしも、そういう心や精神を持てたなら、本人を満たす欲求は限りなく薄くなり、他人を満たす思いやりは限りなく厚くなるのではなかろうか。それは欲望を悟ってしまった人間にとっては、おそらく一番難しく、手にしがたい境地だろう。大切な人を失い、記憶を失い、自由を失ったとしても、そういう人は温かいのではなかろうか。
自分の器の小ささに虚しくなった。僕の心という土台は小さく脆弱で、思考という膜にすぐに覆われてしまった。それは、さざれ石の巌などとはほど遠く、苔がむすほど育ってもいない。年をとって2度目の経験なのに、僕はちっとも成長していなかった。
2人の憐がそばにいなくなって気づいた未熟さ。離れ離れになって知った弱さ。僕は、自分の心と精神をそう思った。しかしそれは、今さら嘆いたところで遅かった。
軽いバウンドを繰り返しながら飛行機は着陸した。そして、翼を大きく広げフルブレーキに入った。
「ああ。着いた。ありがとう飛行機。本当にありがとう」
僕は座席の肘掛けを掴んで感謝した。機内の空気も柔らかくなった気がした。
タラップに着くまでは長く、僕は弄ばれている気がして外を睨んでいた。窓から感じる冷たい空気。日本はもう冬だ。僕はそっと窓を触った。冷えたガラスが、僕をほんの少しだけ落ち着かせてくれた。
ゲートが開いたアナウンスが響くと、機内は急に賑やかになった。シートベルトが外れる音、ラゲージスペースが開く音が次々とはじける。
「智博。降りよう」
拓の声が耳に入った。
「うん。行こう」
僕は上の空だった。さっきまでの威勢は影を潜め、会いたい気持ちを覆うように、緊張があふれていた。
「ああ。どうしよう。本物の憐に会うなんて、どうしよう」
憧れの有名人に会うかのように、僕は落ち着かないまま拓の背中を追った。
「智博。緊張してるでしょー。見ててすぐわかる。鼻ヒクヒクしてるし」
拓が茶化してくる。こちらはそれどころではないのに。
荷物を受け取るまでの間、僕は出口の向こうを何度も見てしまっていた。憐の姿が見えないかと。思いが強すぎて、会いたいけど、見たくない、だけど見てしまう。そんな矛盾した感覚に振り回されていた。
そしてその時がきた。台車に乗せた荷物を押しながら、僕たちはゲートをくぐった。
「ああ、見たいけど、見たくない。どうしよう」
もはや禅問答のような、意味不明の思考である。脳内議論で紛糾した、抱き締める・抱き締めない問題は、その時点で1ミリも存在しなかった。
憐は最前列で待っていてくれた。僕たちを今か今かと。拓は笑顔で憐に挨拶をしていたが、僕は涙が邪魔してぼやけた憐しか見えなかった。あれだけ振り回された禅問答も、涙には勝てなかったのだ。
「ああ。本物の憐だ。本当に憐だ」
頭の中で以前演奏した『Swallowtail Butterfly〜あいのうた〜』が鳴り響いた。憐の歌声とともに。
「智博。お帰りなさい」
「れんんんん……」
僕は無意識に近づいて抱きついていた。抱き締めるなんてカッコいいものではない。しがみついていたのだから。
憐の匂いが僕を包んでいた。
「ああああ、憐の髪の匂いがする。憐の匂い」
心が、憐で満たされていくのが分かった。それは代替のない世界。周りのことも、世界のことも、過去も未来も、何もかもが近づけない世界。世界中の、いや、宇宙のすべての星がぶつかってきても、傷ひとつつけることのできない、完璧な世界。
「ああ……。憐がいて僕がいるこの世界」
それはきっと、僕が生まれた意味そのもの、この世で一番大事なものだと思った。
「憐を大切にしよう。もっともっとずっと……」
日本仕様の憐は色気にあふれていて、まさに大人の女性だった。オーストラリアにいた頃のボブヘアだったそれは、今では都会的なロングになっていた。服装もジーンズにTシャツとスニーカーではなく、かかとのあるスラっとした格好。
「キラキラの天使様は、シャイニーな女神様になられたんですね」
そんな西洋の絵画を思い描きながら、僕はまたしても憐に惚れていた。
僕は元の世界の家族を忘れたことはないし、特に月や星に対しては、会いたくてしょうがない気持ちでいっぱいだった。だが、僕には我慢できる一縷の望みがあった。それはこっちの世界にいる憐の存在だった。
「憐がいる限り、僕たちはまた家族になれる。月も星もみんな1つになれる。だからきっと大丈夫」
僕はずっとそう思ってやってきた。そうなると信じて、それだけを望んで。
日本に帰ったその夜、僕は元いた世界の夢を見た。それは、こっちで目覚めた日に見て以来、初めて見る家族の夢だった。
「パパ。起きてくれないね」
「星。パパは今頑張って起きようとしてるのよ。だから応援してあげて」
「ママ。でも、パパずっと、眠ったままだよ」
星と憐に続いて、月の声が聞こえた。僕は3人に返事をしようとしたのだが、体が全くいうことを聞かなかった。
「あれ……。動けないや……。なんだろうこの感じ。以前にもあったような……」
僕は必死になって動こうとした。
「せめて指だけでも動かして反応しなきゃ。彼女たちに伝えなきゃ」
しかし、今の僕では指すらも動かせなかった。
「これじゃギターも弾けないや……」
その瞬間、大学の寮で目覚めたあの日が頭をよぎった。深い海に沈みゆくように、なすすべなく消えていく意識と感覚を。ベッドに横たわった僕が思った言葉だった。
「月、星。あきる野のお爺ちゃんとお婆ちゃんが着いたみたいだから、ロビーへお迎えに行ってきてもらえる?」
「わかった! 星、行くよ」
「うん、お姉ちゃん」
2人が出て行くと、憐の小さく泣く声が聞こえてきた。そして僕はなんとなく理解した。なんらかの原因により病気になり、動けなくなっているのかもしれないと。
しばらくすると、先生と呼ばれる人がやってきた。
「先生、夫の容態はよくなってきているのでしょうか?」
「浅野さん。そればかりはなんとも、軽々には言えません。しかし、悪くなっていないのは確かです」
「そうですか……」
「ご家族のご心労は理解しているつもりです。お辛いでしょうが、どうか諦めないでください」
「お心遣い、ありがとうございます」
「何かありましたらいつでも呼んでください」
扉が閉じる音とともに、また部屋は静寂に包まれた。
「ママー。お婆ちゃんたち連れてきたよ!」
月が扉を開けて入ってきたようだった。
「憐さん。毎日ありがとう。体の方は大丈夫? 無理しすぎてない? 何かあったらいつでも頼ってきていいんだからね」
それは母親の聞き慣れた声だった。となりで咳払いをしているそれも、父親だとすぐに分かった。
「いえ、私は全然平気です。子どもたちもいてくれますし」
僕には憐が強がっているのが分かった。
「憐さん、私たちだって手伝えるから。月ちゃんと星くんのことだって、大和のお母様と手分けして面倒をみれるから。あなただけ我慢したり頑張ったりしないでほしいの」
「そうだよ。俺ら年寄りは暇だけが取り柄みたいなもんなんだから、こき使うくらいがちょうどいい」
両親が憐のことを、本気で心配してくれているのが有り難かった。
「俺さえ動ければこんなことにはならないのに……」
泣きたい気持ちでいっぱいになった。
「あれ? パパの目から涙がこぼれてるよ」
月がみんなに振り返って言っているようだった。
「本当だ! パパが泣いてる!」
星の声もした。
「え! 本当に? 智博。聞こえるの? 智博?」
涙まじりの憐の声の向こうでは、母親のむせび泣く声が響いていた。
「涙が出せるなら、回復してきてる証拠だろう」
声を詰まらせながら話す父親に、僕はまた泣いた。
帰国後最初の朝はゆっくりと始まった。昨夜、憐は僕らを送り届けたあと、実家の両親に初めて挨拶をした。そして帰途につこうとしたのだが、夜も更けて危ないからと、両親に半ば強制的に泊まらされていた。
初めての両親と初めての実家に、憐はきっと気を遣ったのだろう。だいぶ前に起きて、母親の手伝いをしているようだった。
「なんだ、夢か……。ひどく疲れる夢だった……」
僕が溜め息をついていると、
「智博。そろそろ起きたほうがいいぞー」
拓が僕を起こしにきた。
「拓、おはよう」
「時差ぼけなんてないのに、寝すぎじゃん? 憐ちゃんはもうとっくに起きてるってのに」
朝から拓の小言を聞き流して、僕は階段を降りて行った。拓も僕の両親に会うのは初めてで、気を遣っていたはずなのに。僕はそこまで気を回すことができなかった。
「おはよう」
「あら、おはよう。というかおそようさんね。拓ちゃんは、もう朝ごはんも済ませたわよ」
母親からの小言も流しつつ、僕は憐を見た。すると、憐は恥ずかしかったのか、目を逸らしてテーブルを拭き始めた。
「智博。さっさと朝ごはん食べちゃってね。片付かないから」
この頃の憐は、結婚してからの憐よりトゲがある。結婚して丸くなったのか、それとも僕の性格を知って諦めたのか、それは分からない。でも、久しぶりに見る尖った憐に、内心少しビビッたし、怒らせないようにしようと思った。
朝食はトーストにサラダとハムエッグだった。実家の定番といえば定番といえる。基本的には、父親の好みでメニューが決まっていた。
「親父は?」
「もうプールに泳ぎに行ったよ」
「相変わらず好きだねー、泳ぐの」
小学生の頃、僕は八丈島に住んでいて、夕方になると毎日温水プールに連れて行かれた。誰もいないガラガラのプールに。彼の趣味はダイビングだった。父親からしてみれば、趣味の共有だったのかもしれない。でも、僕からしてみれば、夕方はテレビアニメの時間だった。ただ、行かないと怒られるので、仕方なく付いていった。
僕にはいつも課題が与えられていた。それは、プールを上がる前の仕来たりで、25メートルの潜水を3本だった。最初は全くできず、ただただ苦しいだけだった。しかし不思議なもので、やっているうちにできるようになった。人間はこうやって、自信をつけていくのだと思った。
11月1日を迎えた日本は、いよいよこれから寒さが増す季節になっていた。
「憐ちゃん、手伝ってくれてありがとうね。ウチは女の子がいないから、みんな自分勝手で。母ちゃん大変なの」
「いえ、私もたいしたことができず。しかも、泊めていただいてありがとうございます」
「全然オッケーよ! いつでも泊まりに来て! 憐ちゃんはいつでもウェルカム!」
2人の会話を聞きながら、僕はトーストをかじった。母親の憐に対する気遣いを感じ、彼女も憐に緊張していたのだと思った。僕だけが誰にも気を遣うことなく、のんびりしていた。そのことに、今さらながらに気づかされた。
「そういえば智博。あんたたち今日どうするの? せっかくだしどっか行ってきたら?」
母親の促しに僕は考えを巡らせた。憐も拓も実家の辺りは初めてだろうし、観光がてらどこかに行こうかと。ハムエッグを切ってトーストに乗せると、もう一口頬張った。
「憐。温泉行こうか。ここら辺って温泉が結構あるんだよね。お肌がツルツルになるやつとか」
すると、憐の目が明るくなった。
「行きたい! 寒いし、温泉であったまりたいな。お肌ツルツルになりたいし」
「オッケー! じゃー拓にも聞いてみて、後で3人で行ってみよう」
朝食を食べ終え、食器を下げると、僕は拓に聞きにいった。
「せっかくだし2人で行ってきなよ。オイラそこまで野暮じゃないさー」
意外にも拓はそう返してきた。
「お父さん、お母さんとも話したいし。向こうでの智博の土産話とかもあるしね。へへへ」
同郷の母親と同じイントネーションで、拓が言った。
明らかに何かしらいらんことを言うであろう言い方で「そう来たか」とも思ったが、憐と2人で過ごしたかった僕はその案に乗った。
「絶対にいらんこと言わんでよ! 絶対に!」
心の中で感謝をしつつも強がってみせた。
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