第5話 再会2
別れの日、憐は夕方発のバスをとっていた。リズモアからゴールドコーストへ。そこで一泊して、翌日にブリズベンから日本へと帰国する。
刻一刻と時は過ぎ、出発の時刻は迫っていた。僕は授業が終わると、急いで憐のいるトランジットセンターへと向かった。
僕らが付き合ってから一緒に過ごせたのは、たったの1週間だった。僕らはその中で、可能な限りの思いを、気持ちを重ねあった。時間にすれば短かったが、気持ちを確かめ合うには十分だった。
グレイハウンドのロゴをまとった、シルバーの長距離バス。それはまるで、遠い彼方へ憐を連れ去ってしまう、いびつな宇宙船のように見えた。
バスが出発するギリギリまで、僕たちは話した。なるべく楽しい話題を選んで。それでも時間は、別れの話題を振ってくる。また会える、絶対に会える。2人の気持ちは本物だから。
最後に僕らは抱き合った。憐は涙に頬を濡らしながら、小さくつぶやいた。
「智博。元気でね」
「うん。俺、毎日日記を書くから」
憐は小さく手を振りながら、バスに乗り込んだ。後ろの席へと移動し、窓越しに向かい合う。いびつな宇宙船はゲートを閉じ、憐を飲み込んだまま走りだした。もう声は届かない。僕らは手を振るしかできなかった。そしてそのバスもやがて、暗闇の中へと飲み込まれるように消えてしまった。
「ああ。人生で2度も。こんなに辛い思いをするなんて……」
僕は崩れた。最高の経験と最悪の経験をそれぞれ2度も。
でも、僕らはきっと結ばれる。だって、それは僕が一番知っていることだから。この悲しみの先には、それ以上の幸せが待っている。だからそれを信じて。
あれから月日は流れ、6月の終わりには1学期が終わり、冬休みに入った。いつも落第ギリギリだった僕は、2度目の大学生活ということもあり、余裕で試験をパスした。
日記の方も順調だった。毎晩寝る前にその日に起きた出来事をつぶさに書く。憐が楽しく読めるよう、工夫をしながら。そして必ず最後に、愛のメッセージを添えた。
日記を送る日は、毎週木曜日にしていた。曜日に特別な意味はなかったが、決めたほうが憐にとってもいいと思った。たまに日記が長くなりすぎて、封筒に入りきらないこともあった。そういう時は、さらに別日を設けて送ったりもした。
大学にある郵便局から、憐に宛てた手紙を出す。その瞬間が僕はとても好きだった。切手を貼って投函する。その瞬間、目には見えないつながりを強く感じていた。大学のポストから憐の家のポストへ、そう思うと憐がとなりにいるように感じた。
憐がどんなシチュエーションで受け取って、どんな顔をして読むのか。寝る前に、読み返したりしてくれるだろうか。僕の気持ちを、汲み取ってもらえるだろうか。いろいろな思いを、文字数以上に重ねていた。
「この空の向こうには憐がいる。僕はこの世界で一人ぼっちじゃない」
ポストに投函し、空を見上げた。
憐と僕は電話でも連絡を取り合った。すれ違いが起きないように、電話をする日時は予め決めてあった。
「1300……7123……0011・81……。もしもし。憐? 元気にしてる?」
「智博。元気だよ。そっちは?」
「こっちは相変わらず。みんな元気だし、俺はギターで忙しくしてる」
「そっか。私は新しい環境にもだいぶ慣れてきたよ。でもそっちが恋しい」
「日本は暑くなってきた? こっちは夜が冷えるようになって、寒い」
「こっちはもう夏な感じ。私、オーストラリアで太っちゃったから、ダイエットが大変で苦労してる……」
連絡はもっぱら僕からで、プリペイドカードを利用していた。このカードは面白い仕組みになっていた。まずカードが指定する1300にかける。するとプリペイドカードに記載された12桁の番号を要求されるので、それを入力。そして、国際電話識別番号、国番号と順に入れ、最後に憐の番号を打ち込む。手順は多いが、それをやっても余りあるほど安く国際電話ができた。
この手のカードはいくつかあった。僕は『Say G’day』というテルストラが発行しているコーリングカードを使っていた。テルストラとはオーストラリア最大手の通信会社だ。
この魔法のコーリングカードは、多くの留学生を救っていたと思う。なぜなら、このカードを使うと、日本からかけてくるよりも断然安いからだ。10ドルのカード、当時で600円くらいだと思うが、それで1時間半以上話せた。それはもう、画期的なことだった。
寮の電話を使うこともできたが、なるべく長く話したかったので、夜の公衆電話を利用した。
ピーーーー
「あ、もうすぐ切れるっぽい! カードの残高が終わる!」
「えー! そうなのー? 智博、さみしいよー」
「俺も憐が恋しい……」
電話が切れる間際になると、決まってお互いに暗くなった。早口になったり、黙ってしまったり。当時の僕たちにはSNSというものがなく、それでも電話という通信機器には感謝をしたが、切なさも沢山いただいた。
「憐、あ、もう、電話が切れる!!」
「智博? 好きだよ。智博」
「憐。俺も。俺も好き」
ピーーーー
ツーーーー
「憐……」
溜め息をついて公衆電話を後にする。
「今ごろ憐も、電話の前で塞ぎ込んでいるのかな」
なんて考えながら。
冬休みが終わり、僕の日常もまた元に戻った。難関であるジャズのセメスターが始まり、前期の仲間の数人は落第していなくなっていた。
「えっと。今期のアンサンブルのクラスはと。ASANO ASANO。おー! アンサンブル3か!」
新たなセメスターが始まると、掲示板にはアンサンブルクラスの振り分けが張り出される。アンサンブルクラスとは、言ってしまえばバンド練習のクラスで、似た力量のメンバーで構成される。ボーカル科、ギター科、ベース科、ドラム科、キーボード科、管楽器科、それぞれの中で力量選定をされ、まとめられるのである。これによって、各自の力量が自他ともに示されるのであった。
「すごいな。毎回最下位のクラスだったのに。やっぱり2回目だと違うな」
僕にとっては快挙だった。自慢ではないが、僕は卒業するまで最下位を歩んだ男だった。つまり、僕より下手だと落第となる。これが、プロを諦めたきっかけの1つだった。
「やっぱりジェイクはアンサンブル1か。すごいな」
音大というのは年齢に関係なく入学してきて、飛び級の若者もいれば、プロとして経験を積んで、それでも大学に入ってくる人もいる。つまり、技量のバラつきが激しいのだ。そして、ある一定の基準に達しなければ落第となるので、各楽器の人数にもバラつきがあった。
「え? ドラムのマットはアンサンブル1なのに、アンサンブル3と4も掛け持ちか……。大変だな……」
ドラムとベースのリズム隊は、特にバラつきが出やすい楽器で、テストの時期になると、彼らはいくつものバンドを掛け持って、多忙を極めた。
「やっとジャズのセメスターまで辿り着いた。ここからが本番だ」
僕は意気込んだ。
「今期でいい結果を出せていれば、もしかしたらプロになれていたかもしれないし」
元いた世界に不満はないのだが、ついついタラレバを考えてしまう。僕はハイスクールも海外だったのだが、その時にプロを目指すきっかけがあった。
それは、マレーシアのインターナショナルスクールに通っていた時、先輩に誘われて行ったジャズレストランだった。そのお店はバンタイといい、日本のように高級ではなく、高校生でも何かしらを注文すれば見ることができた。僕はもっぱらコーラを頼み、毎週のように通った。
「バンタイで見たジャズに憧れてから、やっとジャズを習うところまでこれた」
感慨深かった。これは元の世界、つまり1回目の経験でもしみじみと感じた。僕のような留学生で、特に音楽学部みたいなメジャー単位が偏った学部だと、それを落とした時点で学生ビザが下りなくなる可能性があった。
僕の場合はメジャー単位がギターで、マイナー単位は、音楽理論や作曲など。しかし、例えば全部で10の単位が必要だとすると、メジャー単位だけで8割を占められるため、どれだけマイナー単位を頑張ろうが、進級には影響しないのである。
「もし落第したら、翌年の同学期まで日本に帰らされるのだろうか」
ギターが下手な僕は、いつもその不安と隣り合わせだった。
僕がギリギリで進級してこられたのは、いわば先生の慈悲みたいなもの。留学までして来ているし、真面目に練習もしている。ただ、飛び抜けたものはないので、一番下の位置で進級だけはさせてあげよう。僕の学校内の評価は、恐らくこれだったのだと思う。
だけど、今回は違った。10あるアンサンブルクラスの3である。しかも目指してきたジャズで。これはいけるに違いないと思った。そして、それが励みになった。
冬から春に季節が移り、暖かくなってくる頃に、セメスター最後の難関である、学期末テストがやってきた。これは、生徒各自でバンドを組み、先生たちの前で演奏をするのである。この成績次第で進級が決まると言っても過言ではなく、みんな真剣だった。
僕は、学内でも1、2の実力者をバンドメンバーに揃えて、テストに臨むことにした。僕の技量も上がっていたので、先方も快く引き受けてくれた。それは、元の世界の時とは大違いだった。
曲目は敬愛するウェスの『Four on Six』、日本では紅葉の季節を迎えているので『Autumn Leaves』そして、最後に憐のために書いたジャズ『Ren』。この曲目は、元の世界でやった時と同じだった。楽曲『Ren』に関しては、そもそも元の世界の学生時代に書いているので、最近作曲したとも言えないのだが、表向きは新曲としている。
テストは元の世界の時とは打って変わり、大好評に終わった。自分で言うのもなんだが、素晴らしい出来だと思った。元の世界の僕は休日ギタリストになり、家で練習するだけの日々だった。でも、ジャズに対する理解や、ソロへのアプローチと言う面では、年の功があったのだと思う。そこに、先生のレッスンが加わったのだから、その進歩は目覚ましかった。
「智博。キミすごく成長したじゃん。転入してきた頃とは、まるで別人みたいだよ」
拓が話しかけてきた。彼はボーカル科で入学したが、2年生になるときに作曲科に専攻を変えたため、1年後輩になっていた。そして僕は、彼のテストの1つであるレコーディングで、何度か手伝っていた。また、彼が歌うバンド「マーチュール」にも、ギタリストで参加していた。
「自分でもかなり満足いくステージだったと思う」
僕は笑顔で答えた。拓も笑顔を返してくれた。
テストの結果及び進級については、夏休みになるまで分からない。でも、僕は間違いなく大丈夫だと思った。だって、いつもギリギリだった男が成長をしたのだから。
そして、この安心感にさらに輪をかけて、僕には大切なイベントが待っていた。それはサマーブレイクだ。僕はついに、日本に一時帰国できる。やっと憐に会えるのだ。
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