第4話 再会1

 4月に入り、その後の僕の人生を大きく変える出来事があった。僕が生きてきた中で、おそらく1番大きなイベントと言ってもいいかもしれない。しかし絶望と失望の淵にいた僕は、その出来事のことをすっかり忘れていた。


 当時僕が通っていた大学には、日本人が10人くらいしかいなかった。そのため、日本人コミュニティはとても小さい。僕のように寮に住んでいる人もいれば、賃貸住宅に住んでいる人もいた。それぞれが顔見知りで、たまに集まっての飲み会もあった。もちろん当時の僕は酒が苦手で、乗り気ではなかったが。


 先日その中の一人に、シドニーから友人が来るからと飲み会に誘われた。しかし僕は、誰かと積極的に関わる気になれずにいた。ギターに没頭して現実逃避をするか、元の世界に戻ることを祈って眠る。現状を受け入れたくない僕はそうやって、この世界の全てを拒絶しようとしていた。


「あれ、智博。今日の飲み会行かないの?」


 同じ学部で作曲を専攻している渡真利とまりたくが、僕の部屋に顔を出した。


「酒苦手だし、やらなきゃいけない課題もあるし」


 僕は適当に返事をした。


「たまにはいーさー。飲みに行こうよー」

「でもなあ、知らない人もいるみたいだし」

「智博、キミ、かたすぎ。酒飲まないで、いいギターなんて弾けるわけないさー」


 それは元の世界でも拓に言われた言葉で、僕の胸に深く突き刺さったものだった。その言葉のお陰で、当時の僕はいろいろなことが腑に落ちたし、納得できた。その感覚が、ふと思い出された。


 酒と音楽はリンクしている。歌や踊り、その背景に鳴り響く音楽。その中には、酒と近しいものも少なくない。もちろん、酒が人格を壊す原因であることも間違いないし、酒を禁ずる宗教だってある。酩酊すれば神仏への唱えも間違えるだろうし、暴力沙汰にもなりうる。しかし日本で言えば、酒はお清めとしても使われるし、その存在が邪悪なわけではない。それは使う側の問題なのだ。


 酒のはじまりは、新石器時代後期のメソポタミア地方といわれる。おおよそに考えたとしても、今から6000年前にはあったであろう。紀元前ともなれば、現存する宗教より古い場合もある。それはワインであったり、ビールであったようだが、当時の人類はすでに火を使っていたのだから、食事のとなりにあったと考えても的外れにはならないだろう。


 土器を作り、酒を造る。祝いの酒、悲しみの酒、仲間との酒。それは現代とあまり変わらないのかもしれない。焚火に宴、そして歌い、踊る。どんちゃん騒ぎを想像してしまうのは、僕だけだろうか。そう考えていけば、楽器が生まれた理由も見えてくる。楽しくなれば歌いたくなるし、共感すれば踊りたくもなる。そして、一緒に音を出したくなるものだ。


 音を楽しむから酒は旨くなるし、酒で踊るから音は染みる。どじょうすくい踊りの安来節だって、ブルースやファンクやジャズだって、それは変わらない。どれも人の感情であり、表現なのだ。「どんちゃん」という擬態語に感心したのも、拓のこの言葉がきっかけだった。


「先行ってるから、絶対来いよー。待ってるよー」


 しつこく誘われた僕は、仕方なく参加することにした。僕はリカーショップで手土産のウォッカを買い、飲み会へと向かった。到着すると、そこにはすでに男女メンバー全員が揃っていた。


「智博、遅いよー!」


 みんなの視線に照れながら、少し頭を下げる。振り向いてドアを閉めようとした時、右手に見かけぬ女性のシルエットが見えた。


 憐だった。


 僕は憐との出会いを、完全に忘れていた。この世界に憐が存在することすら、考えていなかった。僕の中では、憐は元の世界にしかいないものだった。


 この世界は仮想空間であり、偽物なのだ。この世界の未来に何かを期待しても仕方がないし、そんなことをする必要もない。そう思い込んでいた。


「え? 憐?」


 僕は戸惑い、心の中は大騒ぎになった。ウォッカをキッチンまで運びながら、動揺した頭を整理した。とにかく冷静になりたかった。


 憐と僕が初めて出会ったのは1999年の4月、この町リズモアだった。その場が飲み会だったのも間違いなかった。


 しかし僕らが初めて会ったのは、この家ではなかったと思う。彼女は、別の家に宿泊していた気がした。ただ、はっきりとは思い出せなかった。


「記憶と違う?」


 僕は自分に問いかけていた。


「紹介しまーす。知ってる人もいると思うけど、こちら木野山きのやま憐さん。ワーホリでこっちに来ていて、日本に帰るまでの残りひと月、うちに宿泊することになりました。みんなよろしく」


 彼は広い賃貸の一軒家に住んでいて、そこにはもう1人女性が下宿していた。


「憐ちゃん、おかえりー!」


 男子メンバーは盛り上がった。そして、初めましてのメンバーは、それぞれ順番に自己紹介をした。


「初めまして。浅野あさの智博です。よろしくお願いします」


 僕は初めましてと装って、憐に挨拶をした。それは紛れもなく若き日の、そのまま変わらない憐だった。


 彼女の笑顔を見た途端に、世界がパッと明るくなった気がした。霞のかかった暗たんたるこの世界に、突然光が射した。分厚い雲を突き抜けて、空の青さを取り戻してくれるように。


 僕は一瞬にして、そしてまたしても憐に恋をした。そこには僕の大好きな二重瞼に、どこまでも透き通る水面のような瞳があった。


 緊張を隠しながら、憐のそばに座る。


「お酒飲めるんですね。俺は全然ダメで」

「私もそんなに飲めません。これアルコール弱め、オレンジジュース濃いめで作ってもらってて」


 当時ボブヘアだった憐は、日本の学年でいうところの5つ上で、25歳になったばかりだった。ただ、実際には早生まれなので、4歳くらいしか違わなかった。


「智博さんは大学で何を勉強されてるんですか?」

「俺は音楽学部でギターを専攻しています」

「すごーい! カッコイイ!」

「智博、褒められて赤くなってるー」


 斜向かいにいた拓が茶々を入れてきた。3つ年上の彼は、大学時代唯一の親しい友人で、寮の部屋も近かった。


「そんなことないですよ、授業についていくので精一杯です」


 照れながら答えた。実際は2度目なので、それほど難しくはなかったが。


「憐さんこそ凄いですよ。ワーホリで海外に来るなんて。俺はここに来るしか選択肢がなかったから来たけど。自発的になんて、俺にはできないなあ」


 本心だった。両親の転勤で海外生活が長かった僕は、いろいろな事情もありオーストラリアに留学していた。


「こんな田舎町のリズモアに、どんなご縁があって来たんですか?」

「3カ月くらい前にラウンドした時に立ち寄ったんです。友達の伝手で。その時に皆さんともお会いして仲良くなりました」

「そっか、ちょうど俺が夏休みでここにいなかった時ですね」


 当時の僕は、夏休みの度に日本に帰国していたのだった。


「それで、ラウンドが終わってシドニーに戻って、シェアフラットを立ち退くことが決まって、帰国まで宿泊できる場所を探していたらこちらに」


 僕は憐のことが知りたくて、しきりに話しかけていた。大学を卒業して就職し、ワーキングホリデーに行くために100万円を貯めたこと。ワーホリ中はシドニーの焼き鳥店で、バイトをしながら生活していたこと。女子2人で、オーストラリアを一周したこと。だいたいは、僕の知っていることと同じだった。


 ただ、シドニーのフラットを出てから、日本に帰るまでの1カ月間の予定は少し違うように感じた。しかし僕も記憶があいまいで、確証はなかった。




 憐がこの町に来て、僕たち日本人コミュニティは沸いた。飲み会の回数が増え、僕は週末になると憐の居候先へと向かった。食材を持ち寄っては料理をしたり、ゲームをしたり、歌を歌ったり。僕は憐の似顔絵を描いた。記憶の中にしかなかった憐の姿を、手元に残しておきたかった。


 しまいには簡易バンドまで組んだ。そして、大学の音楽スタジオを借りては遊んだ。それは、僕の知る元の世界と何ら変わらぬものだった。


「憐ちゃんはボーカルで決定! 『YEN TOWN BAND』の『Swallowtail Butterfly〜あいのうた〜』やろうよ」

「私、音痴だからやだよー」

「大丈夫だって! 憐ちゃんは歌いたいのある?」

「うーん。『上海ベイベ』が好きかな」

「決定! 俺耳コピしてくるよ。みんなが演奏できるように!」


 憐との会話はキラキラしていて、僕の心をギュッと締め付けた。大切な想い出の数々が、目の前で繰り広げられる。


「ああ。憐が、元の世界とここを繋げてくれる」


 僕は満たされ始めていた。たとえ戻れないとしても、憐と一緒にいられるならこの世界も悪くない、そう思った。僕の人生で初めて経験した最高の想い出。それを、もう一度体験できるなんて。




 憐の滞在期間はあっという間に過ぎた。それは幸せな時間が終わることを意味していた。憐が発つまで残り1週間になろうとした頃、僕は彼女を誘った。告白をするために。それは最後のタイミングだった。このタイミングを逃したら、伝えられなくなると思った。


 車を持っていなかった僕は、憐の車でバイロンベイという海辺の町へと向かった。憐がラウンドで使い、帰国した後に僕らが売る予定になっていた、1985年式の青いブルーバード・ワゴンで。


「このブルーバード渋いよね。日本じゃ古過ぎて、もう走ってないし」

「いいでしょ。色も気に入ってるんだ。私、アオが好きだから。別れるの寂しいな」


 それは元の世界と同じ会話だった。この時に初めて、僕は憐の好きな色を知った。そして、アオが僕の中で大切な色になった。


 ベイサイドにある、少しアンティークなタイ料理店で夕食をとり、夜の砂浜を歩いたように思う。緊張で、心臓が飛び出そうになるのを、必死でこらえながら。


「憐ちゃんのことが好きというか、なんというか。そのー。付き合ってもらえたらなー、と思うというか、なんというか……」


 正直にいうと、何を言ったのか覚えていない。僕のことだから、恐らくこんな遠い言い回しをしたのではなかろうか。緊張のあまり、憐の答えさえも覚えていない有様だった。


 思えば、憐に想いを伝えたのは、元の世界も、こっちの世界も同じ流れで、同じシチュエーションだった気がする。料理の味も、歩いた道も、2度経験したのに覚えられなかった。それくらい僕は緊張していた。緊張したこと以外の記憶は残らなかった。憐はこの出来事を覚えているだろうか。


 僕の告白は成功した、と思う。答えを覚えていないというのは、非常に厄介だ。付き合っているという現状から、今を考察するしかないのだから。恐らく、砂浜で抱き合ったであろうが、これも記憶に残っていない。僕の記憶は、行きの道中でほぼ終わっていた。




 憐が日本へ帰るまでの1週間、僕たちは何度も愛し合った。少しシミのある白い天井を、交互に眺めながら。


「憐は俺のどこが好きなの?」


 僕は憐に聞いたことがあった。すると彼女はこう答えた。


「智博のどこがって? 素朴で、優しいところだよ?」


 憐のその答えは、なんだか僕を安心させるものだった。僕をどう見てくれているのか、ざらついていた不安は一気に流れ落ちた。


「憐に出会えてよかった」


 僕は憐の額にキスをした。沈みゆく、物悲しくもきれいな夕陽が、窓から差し込んでいた。


「智博。智博との関係、これで終わっちゃったら寂しいな……」


 僕の胸に顔を押し付けながら、憐が言った。


「大丈夫だよ! 俺、手紙や電話するし!」

「でも、遠距離だよ? 私たち1週間しか付き合ってないのに、こんなにすぐ離れちゃうんだよ……」


 憐は2人の未来に怯えていた。僕は憐の不安を払いたかった。


「それなら日記を書くなんてどう? 俺、憐に日記を書いて送るよ。そうすれば、俺の日常を知れるでしょ?」


 気づけば、僕は彼女に日記を書くと答えていた。


 僕は海外生活が長かったせいもあり、漢字が苦手だった。元の世界では、それを知った憐のアドバイスで書き始めたのだった。


 しかし、今回は違ってしまった。不意に出た言葉とはいえ、これでは記憶と違うことになってしまう。僕はそこが、少しだけ気になっていた。

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