第3話 転移2
「智博! お願いだから目を覚まして! 本当にお願い!」
憐の泣き叫ぶ声にハッと目を覚ますと、辺りは暗くなっていた。
「やばい! 寝ちゃってた! 夕食の支度しなきゃ!」
慌てて飛び起き、電気のスイッチを探す。ひんやりとした凹凸のある赤レンガ造りの壁と、部屋の角に面したシングルベッド。
「え? どういうこと? まだ夢?」
そこは先ほどと変わらない、大学の寮だった。訳がわからないまま起き上がり、電気をつける。呆然と立ち尽くし、不安になった。
「夢を見て、寝て、起きて、それがまた夢なんてことある?」
その時、リビングのほうから笑い声が聞こえてきた。シェアメイトがいるのだろう。声に導かれるように、僕はリビングへと向かった。
リビングでは、キャメロンがテレビを見ながら笑っていた。そして僕の存在に気づくと、
「夕食は済ませたか?」
と聞いてきた。
「いや。まだだよ。僕の食材って残ってたっけ?」
何気なく尋ねると、彼は、
「キッチンの右上の棚にあるパスタって、トムのじゃないの?」
と教えてくれた。
キッチンに向かい、吊戸棚を開ける。するとそこには、懐かしいラベルのトマト缶とパスタがあった。
そういえば、この時期の僕は毎日パスタばかり食べていたのだった。理由は手軽に作れるからというもので、それはギターの練習に時間を割くためのものでもあった。それくらい大学生活はハードで、課題のクリアに追われていた。しかしその分、パスタを作ることには長けていた。
キャメロンに、
「あったよ。ありがとう」
と伝えると、なんとなくパスタを作ることにした。さほどお腹がすいているわけでもなかったが、時間帯といい成り行きといい、作った方が自然で無難だと思ったからだ。
「ほかのみんなはまだ帰ってないの?」
何気なく尋ねると、
「フィオーナとレイチェルは彼氏のとこじゃないかな? ほかはどこにいるか分からない。週末だからパブじゃないか?」
と、答えてくれた。
当時の僕は酒が苦手で、寮仲間と一緒にパブに行くことはほとんどなかった。大人になった今なら喜んで行くのだが。
そうこうしているうちに、パスタが出来上がった。僕は、ダイニングからテレビを覗き込みながら食べることにした。大学時代より料理の腕は上がっているが、パスタに関しては当てはまらないかもしれない。
キャメロンは夕食をとった後のようで、スナック菓子を片手にテレビを見ている。内容は日本で言うところのバラエティ番組で、オーストラリアンジョークに満ちていた。ときどき彼は大声で笑い、それはリビングを越え、廊下にまで響いていた。
夕食を終えた僕は、部屋へ戻ることにした。途中、冷蔵庫内にあるものが誰の物なのかを、それとなくキャメロンに確認してから。
ソファに置かれた新聞は、1999年3月6日土曜日、となっていた。
これは本当なのだろうか。嫌な気がした僕は、急いで部屋に戻った。それは憐の誕生日の4日前だった。現在進行中と思われるギターの課題を見つけ、眠っていた記憶をたたき起こす。
「確かに、この時期にはこの課題をやっていた気がする……」
当時の懐かしいギターに触れながら、僕はこの世界が夢ではないと思い始めていた。ベッドに横になって、天井のシミをぼんやりと眺める。
「どうやったら元に戻る? 次寝た時には、夢から覚めるだろうか?」
手で顔を覆い、自問自答する。憐の誕生日ももうすぐなのに。
「SFみたいに、夢の中の住人になっちゃったらシャレにならんぞ。何がなんでも目覚めないと。とりあえずもう一回眠ろう。それしかない」
頭の中でいろいろな問いを巡らせながら、僕は目を閉じた。
日が陰り始め、僕はキッチンに立っていた。元の世界の家族のいるキッチンに。仕事が早く終わった僕は、ミネストローネを作っているようだった。野菜を切り、じゃがいもを入れて、コトコト煮込む。
そうこうしているうちに、子どもたちを迎えにいった憐が帰ってきた。それは昨日と同じ光景だった。昨夜、僕が仕事を終えた後の光景に。
「アレクサ。音楽を止めて」
僕は音楽を止めると、
「おかえり」
と、3人に伝えた。
「パパ、ただいまー。お腹すいたよー」
「パパ。明日お婆ちゃんにゲーム買ってもらうんだー」
「智博、準備してくれてありがとう。助かったわ」
みんないっぺんに話しかけてきた。
3人それぞれに返事をしてキッチンに戻る。すると、憐がキッチンにやってきた。
「そういえば、あそこの交差点。事故が多いから行政が対応してくれるみたい」
と言いながら冷蔵庫を開け、オレンジジュースを取り出した。
「智博も飲む?」
と、言いながらコップに注いだ。
「いや、俺はいいよ。ありがとう。そうなんだ。それは助かるね」
「あそこ、いつも心配だから、少しでも安全になってくれると助かる。子どもたちにも本当に注意してもらわないとだし。私もあそこだけは気をつけてる」
僕がミネストローネのついでにパスタを作っていると、憐が横で手伝い始めた。手際のいい彼女のお手並みは鮮やかだった。一通りの準備が済むと、僕は憐にお風呂を勧めた。
「月、星、お風呂入ろう?」
憐がリビングの2人に告げると、2人とも走って彼女に続いた。
3人がお風呂から上がってくるまでの間、僕はテレビでも見ることにした。リビングのソファに腰掛けて、テレビのスイッチをつける。ソファに置かれた新聞の日付は、2020年1月10日金曜日。テレビでは中国の武漢市で、原因不明のウイルス性肺炎が相次いでいることを報じていた。それは昨夜と同じ光景で、同じニュース番組だった。
僕が見ているその光景は、昨日と同じように見えた。しかし、その空間自体は何か違うように感じた。僕以外に誰かがいる気がする。どこかに誰かがいて、泣いている感覚があるのだ。それは、喜びと安堵からくる涙のようだった。
僕の夢を誰かが見ているのか、誰かの夢を僕が見ているのか。それは分からなかったが、そこには確かに誰かがいた。
「まだこの天井か……」
目覚ましの音で目が覚めた。あれから数週間が経っていた。僕は憐の誕生日も祝えぬまま、まだこの世界にいた。これが夢なのか、現実なのか、何も分からないまま。
初日に家族の夢を見て以来、僕は家族の夢を見なくなった。たまに若き日の憐が出てくることはあったが、それは結婚前のものだった。だからだろうか、月や星が出てくることはなかった。
家族の写真もないここは、記憶だけが頼りだ。笑い声。話し方。僕を呼ぶ時の仕草。3人を忘れまいと、僕は毎晩思い出した。そうすることでしか、元の世界とのつながりも、自分の精神も保てなかった。
なんの目的もないこの世界は、無意味なものに思えた。生きていくことへの活力なんてものはなかった。虚無感の中、ただただ惰性で生活しているだけだった。
大学には、何食わぬ顔で通っていた。いや、通わざるを得なかった。寮にいる限り、学校に行かないという選択は難しい。
当時、僕がいた寮はウィルソンズ・カレッジという名前だった。ロータリー・ドライブを曲がったディクソン・プレイスにあり、学校までは徒歩で30分。それも勾配のある登り下りで、ギターを背負っての通学はなかなかハードだった。
大学は昔のままだった。校門に、食堂、校舎、何もかもが昔のままだ。鬼のように怖かった先生も健在だ。
カリキュラムの流れは、元の世界のものと同じようだった。一度やった課程をもう一度やる。それは復習のようで、当時は難しかったことも、今はさほど難しくなかった。
音楽だけが唯一の救いだった。ギターを弾いている時だけが、気持ちを落ち着かせてくれた。不安や絶望も、弾いている間だけは忘れられる。僕は当時と同じようにギターの練習に没頭した。そうやって誰にも気づかれないように、僕はこの世界から隠れた。
僕は孤独だった。この世界の誰とも違う、そう思うと一人ぼっちに感じた。大学時代の体に、元の世界の記憶が転移しているのは分かる。大学生の身体能力に、大人の知識を併せ持つ。それだけを考えれば、こんなに得なことはないとも思う。きっと異世界転生の物語ならば、重宝されるのかもしれない。
またここが、全く知らない世界ではないことも分かる。現実にあったことだし、過去に戻ったということなのだろう。僕の存在自体は、この世界に違和感などないし、話し相手もいる。心臓は動いているし、怪我をすれば血も流れる。人間として生きていく基盤は確かにある。
しかしそれらが一緒で、単純に過去の自分だとしても、僕には知らない世界に等しく感じた。知っているものに囲まれ、知っている人が周りにいる。そんな形だけを繕っても、心が満たされることは難しいのだろう。心は幸せを吸収するから輝く。つまり、幸せを失えば閉じてしまうのだ。僕の場合、幸せとは拠り所であり、それは憐と月と星だった。
僕は酒を飲み、そして吐いた。大学時代の僕は、酒が苦手だった。
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