第2話 転移1
「
廊下から呼ぶ声が聞こえる。年が明けて2020年1月11日土曜日、成人の日を2日後に控えた連休の朝。毎年この時期の朝の冷え込みは厳しい。
「分かった」
時刻は8時を回ったところだった。上着をズボンに差し込んで、寒さを我慢しながらリビングへと向かう。
「おはよう。今朝は一段と冷えるね」
そう言って扉を開けると、妻の憐がキッチンに入っていくのが見えた。娘の
「コーヒー飲むでしょ?」
キッチンから湯気の立つマグカップを手に、憐が戻ってきた。大学時代に憐とお揃いで買った、青の刺繍柄のマグカップだ。
「ありがとう」
「朝ごはん用意するから少し待ってて」
「うん」
僕は立ったままで、窓の外を眺めながらコーヒーを啜った。いつもと変わらぬ外の世界は、やっぱり寒そうだった。
「昨日も言ったけど、母に呼ばれてるから行ってくるね」
「うん。わかった」
朝食を頬張りながら僕は答えた。今朝のメニューは珍しく、トーストにサラダとハムエッグだった。あきる野の実家での朝を思い出した。
「月と星もお婆ちゃんとこに行くって聞かないから、3人で行ってくるね。お昼は適当に済ませてくれる?」
「オッケー。お母さんによろしくね」
娘の月は7歳、息子の星は5歳。2人ともお婆ちゃん子だ。
憐と僕は早くに結婚したが、なかなか子宝に恵まれなかった。諦めかけた頃にやっと授かったのが長女の月だった。そして、それに続くように星が生まれた。
「ねー、ママー。早く行こうよ!」
「お婆ちゃんと買い物いくでしょ? 私欲しいゲームがあるんだー」
廊下から子どもたちの声が聞こえてきた。そしてリビングに走りこむと、2人して憐の足元に飛びついた。
「智博、ごめんね。悪いんだけど、食べたら食器洗っといてくれるかな? 私も準備してくる」
「うん。やっとくよ」
若い頃に一人暮らしをしていた僕は、家事をすることに抵抗がない。整理整頓や掃除は苦手だが、それ以外はむしろ好きで、特に料理は得意だった。食器を洗い終えてリビングに戻ると、ちょうど憐もリビングに入ってくるところだった。
「夕方には帰るから。晩ごはん食べたいものがあったら連絡して。材料買ってくる。智博が用意してくれててもいいけど」
憐にそう促され今夜の献立を考えてみたが、食べたばかりなので思いつかない。
「オッケー! 献立はこっちでも考えてみるよ。連絡する」
そんな会話をしながら玄関へと向かう。子どもたちの楽しそうな笑顔と、それを受け止める愛にあふれた優しい目。僕は、憐にはじめて出会った時のことを思い出していた。
憐は二重瞼でその瞳は透き通っていた。それはまるでどこまでも透き通る水面のようで、僕は一瞬にして取り込まれてしまった。
3人が靴を履くのを眺めながら、僕の心は満たされていた。美味しい料理でも作って、この気持ちを返したい。そう思った。
3人が出て行った後の我が家は静かなもので、少し物足りなさが残っていた。子どもたちの残響とともに。
「アレクサ。音楽かけて」
「スポティファイを再生します」
パット・マルティーノが演奏する、小気味よいギターサウンドが聴こえてきた。『Four on Six』だった。ウェス・モンゴメリーの代表曲の1つで、学生時代に好んで演奏した曲だ。僕はギターを手に取ると、パット・マルティーノに合わせて弾き始めた。
今でこそサラリーマン生活を送っているが、僕はプロミュージシャンを夢見て、オーストラリアの音楽大学に通っていた。
憐と出会ったのもちょうどその頃だった。それは僕の一目惚れで、出会った瞬間に恋に落ちてしまった。どこまでも透き通る憐の瞳に、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
僕はバイロンベイという、海沿いの町で憐に告白をした。そこは僕が住んでいたリズモアという町から割と近く、車で40分程度だった。海風を伝って音楽があふれ、美味しい海鮮料理が人々を誘う、身近なリゾート地だった。
食後にビーチを歩きながら告白をし、憐は僕を受け入れてくれた。と、思う。僕はあまりに緊張しすぎて、今でもはっきりと思い出せない。
そうして付き合い始めた僕らだったが、2人で居られた時間は1週間だけだった。ワーキングホリデーで来ていた憐の帰国日は、すでに決まっていた。僕と出会った時点でそれは、残りわずかとなっていた。僕らは付き合って早々に、遠距離恋愛になってしまった。
出会ってすぐに離れ離れになる、それはとても辛かった。付き合った喜びもつかの間、離れる悲しみを味わった。しかし今思えば、それも大切な時間だったように感じる。僕はその距離を埋めるように日記を書いたし、それを手紙にして憐に送った。
それは憐のアイデアで、僕は苦手だった漢字をだいぶ覚えることができた。それは、その後の就職にも役立った。僕らは遠く離れていても、文字や言葉を通じて寄り添い、支え合っていたのだと思う。
大学生活はかなりハードで、僕はいつも落第の一歩手前、僕より下手な人はみんないなくなった。途中、大学を1年間休学するといったハプニングや、憐とのオーストラリアでの同棲などを経て、僕は大学を卒業した。卒業後は、2人でオーストラリアをラウンドし、ベトナム経由で帰国。
そしてそのまま僕は就職をした。夢だったプロミュージシャンという小さな可能性と、憐との結婚生活。それを天秤にかけた時、僕に音楽は選べなかった。才能がなかったのもある。しかし憐を手放したらダメだと、誰かに突き動かされた気もした。
大手出版社への就職、プロポーズに結婚と、人並みに予想のできない人生を歩みつつも、僕は幸せにやってこられたと思う。今僕がこうして満たされた日々を送れるのも、あの日に憐と出会えたから。きっとこれが幸せというものなのだ。
ギターを弾きながら、そんなことが走馬灯のように浮かんだ。
気がつけば時計の針は午後1時を回っていた。昼食の準備をし忘れていた僕は、近所のラーメン店に行くことにした。我が家の周りは結構知られたラーメン激戦区で、美味しいラーメンを探すのに苦労はしなかった。
「久しぶりに赤黒坦々麺にしようかな」
そんな独り言をつぶやきながら国道へと向かう。キンと張り詰めた冬の空気が、ニット帽とマフラーの間に露出した頬を刺激する。
「手袋してくれば良かったかな」
そんなことを思いながら、知らぬ間に先ほど弾いた『Four on Six』のメロディーを口ずさんでいた。6本の弦を4本の指で弾くから、『Four on Six』。そんな説を思い出しながら。1つの鍋を4人でつつく。それだと『Four on One』になるのかな。なんて考えているうちに、今夜の献立は決まっていた。3人の賛同が得られたら今夜は鍋にしよう。
「今夜は鍋料理でいかがでしょうか?」
文字を打ち終わり送信すると、間髪入れずに既読になった。
「子どもたちは鍋で賛成みたい。すき焼きが食べたい、って月がはしゃいじゃってる(笑)」
そんな返事が届いた。こちらとしても異論はなく、家族会議はあっという間に終わった。久しぶりのすき焼きを想像したら、寒さも和らいだ気がした。
「オッケー! 材料はこっちで用意するから、そっちは楽しんでおいで!」
そう返信し、ラーメン店へと向かう。見慣れた了解スタンプが現れた。帰りにスーパーに寄って食材を買って帰ろう。新年だし奮発しよう。なんて考えながら。
昼過ぎのスーパーはなかなかの混みようだった。比較的夕方に行く傾向が強い僕には新鮮な光景で、食材も夕方よりは充実しているように見えた。一通り必要な食材をカゴに入れ、憐、月、星それぞれへのお土産を選んだ。憐と月にはアイスクリーム、星にはロボット付きのお菓子にした。
僕はスーパーに行くと必ず、何かしらのお土産を買って帰るようにしている。ちょっとしたサプライズとちょっとした笑顔。そういうことをするのが好きなのだ。
レジで支払いを済ませ、ビニール袋に移し替える。買い忘れがないかを確認しながら。買い物とは不思議なもので、気がつけばいい時間になっていた。
「帰って少し休んだら夕食の支度だな」
そう考えながらスーパーを後にする。外の冷え込みは増していて、
「早く帰ろう」
僕の足を急がせた。駅前のペデストリアンデッキから国道へと降り、歩道沿いに住宅街の路地へと入る。
「ミャーオ」
猫の鳴き声に気を取られながら、足早に小さな交差点を渡ろうとした時、右側から何かが来るのが見えた。とっさにそれが車だとわかった僕は、後ろへ引き下がろうとした。信号のないこの交差点は、小さなこともあり一時停止のルールが曖昧だ。その事を常に気にしていた僕は、すかさず車を避けるために下がったのだった。
しかし、後ろから自転車が勢いよく来ていたことに気づけず、背中からの衝撃と正面からの衝撃をほぼ同時に受けた。
少しシミのある白い天井に、赤レンガ造りの壁。見覚えのあるギターのポスターが2枚貼られている。スティーヴィー・レイ・ヴォーンのストラトと、ブライアン・セッツァーのナッシュビルだった。
そこは僕が青春時代を過ごした大学の寮にそっくりだった。オーストラリアの音大で課題に追われていた当時の部屋に。
そこが夢の中なのか、現状が把握できないまま起き上がり、窓の外を眺める。今朝の見慣れた景色はそこにはなく、古い記憶にかすかに残っていた田舎町の風景があった。凍てつくような寒さもそこにはなかった。
「大学の寮? 夢?」
僕は、少し緊張しながらドアを開けた。薄暗い廊下に6つの部屋と、その先のリビング。その内の1つのドアが突然開いた。僕が驚いて息を呑むと、
「ヘイ、トム」
懐かしい声が廊下に響く。
「グッダイ、マイッ」
懐かしい発音は、そこがオーストラリアであることを示していた。シェアメイトのアーロンだった。
「グッダイ、マイッ」
僕は、混乱していることを隠すように平静を装った。アーロンは用事でもあるのか、そそくさと廊下を進み、寮を後にした。きっとフットボールをする約束でもあったのだろう。
僕は急いでシャワールームへと向かった。鏡で自分の身を確認したかったのだ。シャワールームの電気をつけると、洗面器が3つ横並びにあった。その周りには、多分アーロンのものだと思われるカミソリと歯ブラシ。やっぱり知った光景で、当時と何も変わっていない。
僕は恐る恐る鏡の中の自分を覗き込んだ。
「うわ! 若っ! しかも痩せてる!」
何十年ぶりかの自分との再会。それは、写真の中の自分と同じだった。若返ることに悪い気はしなかった。むしろ、懐かしさに浸っていた。
キッチンへと向かった僕は、やはり懐かしの光景に息を飲んだ。大学の寮そのものだった。何か飲もうと冷蔵庫を開けた。
僕の住んでいた寮は、6部屋6人で1つのキッチンを共有するシェアスタイルだった。当然、冷蔵庫の中も混雑している。まあ、中身の大半はビールなのだが。そこに見覚えのあるオレンジジュースが入っていた。僕がいつも買っていたブランドのものだ。
誰のものか定かではなかったが、黙って頂戴することにした。コップに注ぎ、一気に飲み干した。
「ふー。冷えてて美味しい」
コップを軽く水で洗う。
「これが大学の寮だとして、大学時代のいつなんだろう?」
すっかり馴染んできた僕は、部屋に戻りカレンダーを確認することにした。カレンダーは、1999年3月となっていた。
「ふるっ! だとすると、大学2年の1学期かな。ファンクのセメスターか」
当時のカリキュラムを思い出す。壁にはサークル・オブ・フォースの懐かしい手描きの張り紙と、週のスケジュールが貼られていた。
「なつかしいなー! あん時、ファンク弾きまくってたもんな。カッティングが楽しくて」
他の大学から転校してきた僕は、最初こそ苦労したものの、この時期にはここでの生活に慣れていた。
僕が過ごしたこの小さな田舎町にあるサザンクロス大学は、オーストラリアでは珍しく『現代音楽学部』を持つ学校だった。カリキュラムは3年間の二学期制で、1年生の前期は基礎となるスケール各種の習得、後期はブルース、2年生になると、前期でファンク、後期でジャズ。そして、最後の3年生では前期でフュージョン、後期では自由研究となっていた。
新入生は30人程度で、毎期ごとに5人くらいずつ落とされていく。最後に残るのはおおよそ5人と決まっていた。
夢ならいつか覚めるだろうと高を括っていた僕は、思い出に浸りながらベッドに横たわった。少しシミのある白い天井。ビクターの黒いコンポ。積み上げられたCDとテープの山。
すると突然、体に電気のような痛みが走った気がした。僕の体はショックで跳ね返り、そのまま固まってしまったように思えた。深い海に沈みゆくように、なすすべなく意識と感覚が消えていく。
「あれ? 体が動かない……。指も動かせないや……。これじゃギターが弾けないじゃないか……」
僕は目を閉じて少し休もうと思った。救急車のサイレンが聞こえた気がした。
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