彼は異世界から来たと言った

直木美久

第一章 夏緒1

第1話 その日

 その日、辻夏緒は昼ご飯を買うためによれよれのユニクロのTシャツにカーゴパンツ、サンダルをひっかけ、スマホひとつで家を出たところだった。

 家から出たくなんてなかったけれど、開けた冷蔵庫のまばゆい光の中、その存在が認められたのは缶チューハイ三本とチーズだけで、朝ごはんなんてもちろん食べていないし、キッチンに放り出してあった食パンにはカビが生えていた。

 二十二歳。

 うら若き乙女のワンルームにしては絶望的な部屋。

 キッチンに立ち、ふと振り返った彼女の目に飛び込んできたのは起きてそのままの乱雑にちらかったベッドと、脱いで放り出してあるパジャマ代わりのスウェット(出かけないのにちゃんと着替えているところは評価してほしい)、テーブルの上には飲みかけの爽健美茶とポテトチップスの袋、もちろん開封済みで中身もちゃんと入ったままのものだ。

 袋を閉じるパッチンすら無く、というか正確には見つからず、明日には湿気っているかもしれないと思いながらもそのまま。


 自分がそんな女になるなんて、想像もしていなかった。


 夏緒はため息をついて、とにかく昼ご飯くらい食べようと思ったのだ。


 無職だって、腹は減る。


 太陽は頭上でギラギラと燃えていて、一歩出ただけで後悔したくなるほど強烈な日差しだった。

 帽子か日傘、と思ったけれど、面倒くさくて、やめた。

 日焼け止めなんてもちろん塗っていない。


 本当なら今頃、きちんと化粧をして、着替えて、パンプスを履いて毎日会社に通っている、はずだった。


 頭を軽く振り、その考えを追い出す。伸びっぱなしの長い髪がゆらゆらと揺れた。

 狭い路地を曲がると、すぐに並木道に出る。歩いている人は殆どおらず、今日が平日だと知る。

 サンダルは、はだしの足の裏にぺたんとくっついては離れる。繰り返す。

 降るように響くセミの鳴き声。うるさいと思うより、自分がここにいることを不適切だと感じる。


……そうだ、場違いなのは、私だ。


 毎日のように歩いた道。現在住んでいるあのアパートから、毎日大学に、バイトに通っていた。


 長くまっすぐ伸びる川沿いの遊歩道。

 春になれば満開の桜を見に、多くの人々が集まってくることも知っている。

 右手に見えるは東京から電車で20分、郊外の少し古いが洒落た閑静な高級住宅街。

 両親がまだ健在だったころは、夏緒もそこの住人だった。

 中学時代、高校時代、制服を着て、もうすこし先の道からこの遊歩道に入って、駅を目指していた。

 ほんの数年前の出来事と言われればそうなのだが、今ではそれが自分の経験したことだとすら思えない。


 胸の奥からぐぅっと込み上げてくる、塊がある。もう何年も取れない。息を止め、それが出ていかないように、こぼれないように、夏緒はぐっと喉の奥を締めた。


 そうやって、ほんの一瞬歩みが遅くなった、その、瞬間。


 ——目の前に光の塊が現れた。胸の高さ。両手を組んだくらいの大きさの、光。

 輝いている“それ”は眩しいと形容するのに申し分ないのだが、目が痛くなるような光ではなかった。


 夏緒は完全に足を止め、じっと見入った。

 喉の塊はびっくりして、どこかに消えてしまったようだ。

 光はどんどん大きくなっていく。

 丸く膨れていったが、だんだんとその丸は形を上下に細長くしていく。

 あたりを見渡すこともできず、声をあげることもできない。

 圧倒する、何かがあった。

 怖いとは思わなかった。

 光があまりにきれいだったからかもしれない。


 真っ白な光。


 こんなに純粋な白を見たことがないと思った。

 光は縦に長く伸びていき、大体160センチの自分の身長を越した。楕円は徐々に四角く広がっていく。

 何かの入口だと、思った。そして、それは魅惑的な入口だった。

 どこに行けるのか、ではなく、ただそこをくぐってみたい、そんな思いが夏緒を支配する。

 暴力的な支配だ。


 ——夏緒はそっと手を伸ばし……


 息をのむ。黒い影が飛び出してきた。

 伸ばしていた手にぶつかり、思わず夏緒はそれを掴む。そして、一緒に倒れた。抱きとめたという形のまま、ひっくり返った。

 背中は痛むが、頭を打たなかったのは不幸中の幸いだ。

 夏緒の体にはその黒い影の正体、「人」が乗っていて、重い。

 何が起こったのか。

 自分を押し倒しているその人が見ず知らずの男性(のはず)だと認識したにもかかわらず、彼を払いのけるでもなく、声をあげるでもなく、夏緒はただあっけにとられ、ひっくり返っていた。


 あまりに空が、青かった。


 こんな風に空を見上げたのは何年ぶりだろうか。

 突然、目が覚めたような気がした。

 視界はクリアになり、暗くて長いトンネルから出てきたような気がした。

 長いこと自分の体に、心に、まとわりついていた影みたいなものがふっと消えて、自分自身が返って来た、そう思った。


 その人はゆっくりと体を起こした。それで夏緒もようやく視線を空から、その人へ移した。

 短く揃えた明るい茶色の髪。白い肌。彼は軽く頭を振り、伸ばした腕で体を支え、依然押し倒したような状態のまま夏緒の目をじっと覗き込んだ。

 緑色の瞳。

 彼は微笑み、何かを言ってから、ゆっくりと起き上がって、手を伸ばした。

 夏緒はその分厚くて、大きな手を、握った。

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