第40話 月明かりの下で

「う……流石に一月の寒さは堪えるな……」


 月明かりに照らされた旅館の廊下を歩きながら、俺は身震いしていた。

 庭には、綺麗に整えられた盆栽や鯉が泳いでそうな池など、和の風景が広がっている。


 ……こんな旅館が俺の住む町にあったのか。


 年中引きこもりなせいで、外の世界を知らない俺にとっては興味深い光景だった。


「……」


 つい足を止めてその「美」を注視する。

 月光を映しながら揺れる水面。

 光と対を成す濃淡さまざまな陰影。

 そのどれもが俺にとって初めての情景なのに、どうしてここまで心を打たれてしまうのか。


 と、まあ無駄に感傷に浸っているところには、


 ――何言ってんだ、相棒。見てるだけじゃ腹は満たされねえ、とりあえず喰ってみようぜ――


 アイツのそんな腹立たしい言葉が返ってくると、心のどこかで確信していた。

 しかし、


「……」


 …………


 …………………………


 ………………………………珍しく、俺の心中は穏やかである。


 逆に気味が悪いな。

 そう思いながら、俺は胸をさする。

 御子柴から産み出された大蛇の一部——言葉通りの"異物"を取り込んでしまった俺の体には今のところ異常は現れていない。

 あのクソ煩悩が俺の思考に干渉してこないなら、それはそれで快適なことこの上ないのだが。


「――何寝てんだよ、クソ煩悩……」


 ボソっと呟いてみた。

 

 だが、それが良くなかった。


「――誰かいるのですか?」


「――ッ?!」


 どこからともなく、煩悩ではないから声が返ってきてしまった。

 声に現れる怪訝そうなトーンに、俺は焦る。


 ま、ままままままままあままずい……ッ


 それまでの思考がバツンと音を立てて途切れる。


 あー、あ……でもあれか! 蓮に連れられてアイツの家に来てるだけだから、不審者には見られないよな、多分。


 あれぇ~? でも俺、蓮の家族とも会ったことねえよな? というか、俺が来ていることを蓮の家族は知ってるのか? ん? んんんんんん??????


 止め処ない不安材料が泉のように湧き出てくる。思考同様に、全身が石のように固まる。

 

「――……あの、どちらさまですか? ご宿泊の方でしたら、すみませんがこちらは従業員専用の通路になっておりまして……お引き取りいただきたく」


 あからさまにこちら怪しむトーンではあるが、冷静に諭してくる声の主。


 いやどちら様というか、こちらこそ俺がどちら様扱いなのか知りたい所存でして……というかここ、モノホンの旅館なのかよ!


 滅茶苦茶声に出したかったが、どう動くのが正解か分からない俺は口元を押さえて出来るだけ息を潜めた。


 壁一枚挟んだ程度の声の通り具合から察するに、声の主は俺がいる廊下の曲がり角を曲がったその先、或いは廊下に隣接した部屋の中に居るようだ。


 別に見つかってマズいことをしているわけでもないが、バレないに越したことは無いだろう。

 ……蓮が家族に黙って俺を看病してくれていた可能性も無くはないわけだし。

 

「あら、もしかして気のせいだったかしら……何か聞こえた気がしたのだけど……」


 先ほどまでの透き通った声とは違う、小さな音量。

 その言葉を聞き逃さなかった俺はそのまま微動だにすることなく、その場をやり過ごそうとした。


 なんとか、なるか……


「―――と、――――――で、―――――あ、あれも―――――」


 聞き取れなくなってしまった誰かの声。

 ゴソゴソと何か衣服のようなものがこすれる音と数歩分の足音。

 しかししばらくすると、それらの音もピタリと止み、廊下には再び真夜中の静寂が戻っていた。


 胸を撫でおろす。


 爆速だった心臓の鼓動が、時間の経過と共に徐々に緩やかになっていく。


 ――良かった、バレずにすn


「――真夜中の解放感サイコーーーッ!!!!!!!!!!!!!!!!」

「!?」


 バンッ! と

 廊下に面した障子張りの戸が勢いよく両サイドに打ち開かれ、

 

 が現れた。

 空色の髪を後ろで一本に結わっている。

 あ、ポニテだよ父さん。


 最初こそ至極満悦そうな顔で、大の字に立っていた彼女だったが、

 当然、俺の存在に気付く。


「…………へ?」

「…………え、あ、そ、お、お邪魔してまs」


「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ変態ィッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「あ、ま、まってこれには訳がぁぶぼらぼえっ!!!!!!!!!」


 強烈なビンタが目にもとまらぬ速さで俺の右頬を襲い、その衝撃的な不意打ちの結果、俺は廊下から吹き飛ばされてしまう。


「――あ」


 激痛の中、吹き飛ばされ宙に浮いている自分を認識する。

 遠ざかるビンタ人間。

 揺れる浴衣は俺と同じ、水玉模様。


 白光に照り映える池を見て美しいと思ったあの感情と同じ何かを、彼女のあられもない姿から感じていた。


 ――美しい


 欲にまみれた俺には手の届かない清廉さと、その清廉さの中に充満する艶やかな色気。


 ―――――これが―――――――美


 と、意味の分からない思考におぼれていくように、

 俺の体は池の中に没していった。

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