幕間の西川原家

1月11日(水)

第39話 後輩

 朧げな意識の中で、彼女の声が聞こえる。


 ――功善くん


 ――――あなたの全てを、私に頂戴


 彼女の笑顔が、

 

 彼女のぬくもりが、


 彼女の存在が、魂が、


 ――そこにはあった。


 ――ある、はずだった。


「――――――――――――――」


 気付けば俺は暗闇の中で手を伸ばしていた。

 どこまでも遠ざかっていく彼女の幻影に手を伸ばし、そして虚無を掴む。


 俺の手には何も残らない。


 空っぽな世界に、空っぽな俺。

 そうだ。


 あの日。

 煩悩に大切な存在の全てを奪われた、あの瞬間に、

 のだ。 

 

 




―――――功善くん、ごめんね―――――――






「―――――――まいッ!!!!!!!!!」

 

 右手を彼女に伸ばしたまま、俺は目を覚ます。


 誰もいない。


 布団から勢いよく起きただけの、俺がいた。


「…………夢……」


 どくどくと脈打つ心臓の鼓動を感じながら、俺は現実を理解する。

 体育館で御子柴と戦って、それから……どうしたんだっけ?


「……つか、ここ何処だ……?」


 あたりを見回すが、特に手掛かりは無い。

 畳張りの部屋に敷かれた布団の上で、俺は戸惑う。


「……なんだこの服」


 なぜか俺は水玉模様の甚兵衛を着ていた。こんな服は持ってないはずだが……なんだ、まだ夢でも見てんのか?


 そんなことを思っていた矢先、冷たい外気が一気に全身を駆け巡った。 


 ……う、寒ッ!


「ぶえっくしょい!!!!!!!!!!!」


 大きなくしゃみが出た。

 メッチャ寒い。そりゃまあこの時期に甚兵衛なんか来てるんだから当然だが。凍え死ぬんじゃないかというくらいに寒かったので、俺は布団をかぶり直して見知らぬ天井を眺めることにした。


 天井はいかにも古びた木造建築物、という感じで、かなりオンボロである。


「旅館みたいだな……」


 ゆっくりと意識を辿る。


 ………


「あ、蓮」


 そうだ、アイツと一緒に帰るって話だったはずだが……


 部屋中を見回しても誰もいる様子はない。

 とはいえそもそも畳4畳ほどの部屋に、俺以外の人間が満足して寝られるようなスペースもないのだが。


「―――――――――――――先輩」


「……?」


 そんな時、蓮の声がした。

 近くにいるなのだが、少なくともその姿は見えない。

 部屋に灯りは無く、静寂の夜だけが広がっている。


「――――――――こっちっスよ、先輩」


「いや、どこに居んだよ」


「――ここっス」


「――へ?」


 言って、彼女は突如として俺の前に現れた。


 俺の体に覆いかぶさるように、押し倒すように、


 布団の中から、跳び出てきたのである。


「―――――おわっ!」


「――あ、暴れちゃダメッス! 施術なんスから!」


 ツイスターゲームよろしく、仰向けに倒れた俺の上で四つん這いの体勢になる蓮。


「い、いや、おまえ何してんだよ!」


「せ、施術中ッス!」


「……おまえいつからマッサージ師になったんだよ……」


「一人前のセラピストとして、気配を消して患者に忍び寄ることには定評があるッス」


「セラピストにそんな評価項目はねぇ!!」


「くっ、かくなる上は久利先輩の息の根を止めてでも施術を終わらせるッス」


「施術より先に患者の人生終わらせてどうするんだよアホッ!」


「う……先輩にアホって言われた……もうお嫁にいけない……」


「俺にはお前の情緒が分からねえよ……!」


「何でわかんないんスか、わざわざお布団まで用意してぐっすり疲れを取ってもらおうとおもてなししてるのに」


「おもてなしの項目に寝込みを襲うなんて品目があるのか?」


「あるわけないじゃないッスか! 私の特製っスよ!」


「最悪なオリジナリティ!!!」



 とまあ深夜の喧騒もそこそこに。

 なんやかんやで俺は蓮を無理やり引きはがし、事情を問いただすことにした。



「――で、先輩が気失ったからウチまで連れてきたんス。先輩の家も知らないし、気失った先輩連れて歩き回るわけにもいかないですし」


「……手間かけさせてすまん」


 色々面目ないことをしてしまっていたようである。


「ほんとっスよ。代わりに先輩んチの住所教えてください!」


「……え、なんで?」


「決まってるじゃないっスか! 女遊びしてないかチェックするんス!」


「し、してるわけねえだろ!」


 こちとら万年引き籠りぞ。そしてなぜそれを蓮にチェックされないといけないんだ! お前は俺のオカンか!


「いーや怪しいッス。私の純情を散々弄んでおきながら、住所のひとつも教えてくれないなんて、やましいことがあるに違いないッス。――あ、わかった! 同棲してる彼女の歯ブラシとか日用品を隠せてないから教えてくれないんスね! そうなんすね!?」


「妙に生々しい推理をするな! というか別に俺はお前の純情を弄んだつもりはねえ!」


「弄ぶまでもなかったんスね……私のちょろい純情、略してチョロ情……」


「悲しげな顔でボケるな……ツッコミづらいわ……」


「……むー……」

「……?」


 俺の正面に正座して、ぷくっと膨れた顔を見せる蓮。

 その可愛げな怒り顔に、懐かしい記憶が蘇る。

 

 連は、少し俯きながらそれまでより少し小さな声で、呟いた。


「……ちょっとくらい、良いじゃないっスか……」


「……ん? なにが――――」

「とりゃっ――」

「――がはっ」

 

 揺れる視界と胸に発生する衝撃。


 連からの突撃を受け、またも仰向けに倒れそうになる――が、背より先に肘をついて、ギリギリのところで彼女のタックルを受け止めた。


 ……一本は、取らせねえッ!!


 と謎に柔道ごっこの気分になっていた俺の眼前で、連の顔は少し赤らんでいた。


「ずっと、ずっと……もう会えないと思ってたんス」


 泣きそうな声で、俺の甚兵衛の裾をその小さな手できゅっと握り込んで、


「でも、先輩はまた私の前に現れてくれた、助けてくれた」


「……助けたってそんな大袈裟な――」


「――いいや、助けてくれたんス。先輩がなんと言おうと神様がなんと言おうと、この事実は変わんないっス」


 その声は徐々に俺に近づいていって、気付けば俺は彼女から二度目の抱擁を受けていた。


 俺の心臓の音が聞こえてしまう。

 空っぽの魂がざわついてしまう。


 そんなよく分からない不安が頭をよぎる。


「お、おい蓮、一体これは何の施術だ……?」


「……これは施術じゃないっス。先輩が私の名前を呼んでくれて……こうして……先輩がホントにここに居るんだって実感したいんス……」


「実感って、別に幽霊じゃあるまいし……」


「カッコつけるだけつけておいて、なんも言わずに消えるのが悪いんスよ……功善先輩……」


「……なんでわざわざ名前を……」


「……えへへ、ちゃんと意識して呼ぶとなんか照れるっスね」


「……知るか」


「先輩も照れてる癖に……」


「うっせえ、顔見えんだろが」


「できる後輩は、声だけで分かるんスよ。なんつって」


 そんな胡散臭いセリフは何処かで聞いたことがある。

 良くないところばかり、伝染していくものだな。


「……蓮」


「――もう少しだけ、このままでいさせてください……ダメっすか?」



 おそらく俺を見上げているのであろう連の顔を見返す勇気は、俺にはなかった。




 ――断れるわけが、無い。





「……」

「……」



 静寂が包む夜の和室。

 俺は蓮が寝息をたてるまでの間、天井のシミの数を数えて心を落ち着けながら時間を過ごした。









 シミの数は108つだった。


 その後、ぐっすり眠る蓮を起こさないように布団に寝かせて、俺は和室を出た。

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