第3話 開魂

「で、場所の見当は付いてんだろうな」

『アァ? ついてるように見えるカ? 誰がどう見たって闇雲に校舎を練り歩いてるだけだろうガ』

「訳も分からんまま歩かすなよ・・・」

『この暗闇の中置いていったら、オマエ気付かない間に死んじまうだロ、気遣いダ。デキる煩悩は気遣いを忘れないからナ』

「目はもう慣れた。別に死なねえよ」

 というか、デキる煩悩ってなんだよ。 


 俺はうんざりしながら引っ張り続けてきた煩悩を手で振り払い、だだっ広い廊下で一旦立ち止まった。

 しばらく時間が経ったことで暗闇には目が慣れてきていた。床の色が徐々に視認できるようになる。気色の悪い薄緑色。金魚の水槽の中かよ。


 だが、それ以上に気になるのは、――


「元旦からやけに禍々しいんだな。もっと控えめなもんかと思ってたが」


 玄関から数分歩き続けてきた俺たちの周りを、延々と付きまとう黒紫の気配。煙のような、蛇のような、地を這う空気。

 元旦からこんなおっかな恐ろしい光景を見ていては、今年一年安泰には過ごせなさそうである。


 そんな状況などお構いなし、と言わんばかりに煩悩はケラケラ笑う。


『お陰様で今日はいつにもまして特上の獲物が居そうだけどナ』

「特上の獲物、ねえ・・・」

『なんダ、嬉しくないのか? 質の良い崩魂を喰らえば俺様は強くなれル。そして俺様が強くなるといことはオマエ自身が強くなるというこト。もっと喜んでもいいだろうニ』

「・・・別に、強くなりたくてここに居るわけじゃねえんだよ、俺は」


 そう、俺は別に強くなりたいわけではない。

 何かに立ち向かいたいという気持ちなど微塵もない

 ただ、ただ俺は、――


『ケケッ、やっぱお前は空っぽだナ、ヒキコモリ』

「うるせえぶっ飛ばすぞ」


 宙に浮かぶ煩悩を右手で素早くつかみ、その球体をギュウと強く握りしめた、

 つもりだったが、その瞬間に煩悩は指の隙間からにゅるりと抜け出てしまう。


『おー怖い怖イ、俺様が殺されちまう前に、とっとと用事済ませないとなァ。ま、お前が俺様を殺せる日なんて来なさそうだけどナ!』


 ヒャハハ――とまたも気色の悪い笑い声を廊下に響かせながら、煩悩は薄暗がりの廊下を迷いなくまた進み始めた。

 俺も、煩悩の後を気だるげに追う。


「・・・ムカつくぜ、ホントに・・・」

『なんか言ったかァ?』

「なんも言ってねえよ」


 ――空っぽ。

 何度も向き合ってきたはずのその言葉が、今日はやけに心に突き刺さる。


 そうだ。

 俺は、この空っぽの器に注げるだけの何かが欲しいだけなのだ。

 空白を埋めるための、黒を追い求めているだけだ。

 だから、こんなことに、あらゆることに、意味なんてない。


 窓から見える寝静まった街の風景を見ながら、そんなことを思っていた時だった。






















「は?―――――」


 つま先から頭のてっぺんまでを一本の針で貫かれたかのような感覚。

 字のごとく突き刺すような冷ややかな声が、響いた。


 声の主は俺たちの背後。

 つまり、俺たちが歩いてきた方向からだった。距離は数十メートルくらいだろうか、そう遠くない。


 そう、遠くない、はずだった。


「ねえ?」

「―――――――――――――ッ!」


 二回目の声は俺の真後ろから、ほぼゼロ距離で囁かれる。

 同時に、一瞬にして湧き上がる恐怖と嫌悪感が、固まる体を咄嗟に突き動かし、

 一歩二歩、三歩、飛び跳ねるようにして俺は声の主と距離をとる。


「んも~、なんで逃げるのよォ」


 妖艶な声が耳を溶かしてしまったのかと思うほどの嫌悪。恐怖を喚起させる声、とでもいうべきだろうか。耳がまだ確かにぶら下がっているのを手で確認してから、俺は息苦しさを覚えた。


「――ッ・・・―――――――・・・・・・・・っ」


 あまりに突然の出来事に、息をするのも忘れてしまっていたのだ。


『大丈夫カ』


 俺なんかよりよっぽど落ち着いた声の煩悩が傍で囁く。

 嫌悪は無い。


「――ッ、はー・・・・・・あぁ、大丈夫だ。ちょっと久々だったから驚いただけだ」


『アレが、今回の親玉ダ』

「あぁ、分かってる。あんなヤバいの親玉以外の何物でもねえよ」


「なぁにぃ? 私のこと話してくれてるの? 嬉し」


 ずっと漂っていた黒紫の空気が、ソレの周りをグルグルと廻っている。


 ――ああ、そうか、こいつのか。


 人の声を、姿を、言葉を騙る、ヒトならざる者。

 俺たちの獲物。


 ――崩魂くずれたま


「ねぇ? 先生とイイことしない? 嫌なことも何もかも、全部全部忘れられる楽しいこと。生きてるよりも心地よくて、気持ちいいこと。しようよ、ね?」


 タイトなビジネスシャツとスカートを纏う禍々しいソイツは、真っ赤な瞳を暗闇でぎらつかせてこちらを見ている。

 人の形で、人の声で、明らかに人ではない世界へと俺を誘おうとしている。


「ほら、こっちおいでよ。私と遊んでくれたら、一生一緒だよ。ゲンキゲンキしてあげるよ?」


 はだけた胸元をさらに二本の指で広げて。


「溜まってるでしょ? 高校生だもの、当然よ。ね? だから、先生と、イイこと、しましょ?」


 欲望の具現、溜まり渦巻く煩悩の実体化。

 積み重なった煩悩が、人の魂を苗床に成長し、そして魂そのものを化物に変容させてしまう。そうして出来上がるのがこの崩魂。

 ――とはいえ、こいつは高校生の欲求、にしては少しばかり特殊な気もするが。


「準備は?」


 自力で、なんとか心を落ち着かせる。

 幸い、この崩魂はいきなり攻撃を仕掛けてくる獰猛なタイプではない。

 相手を惑わせ、誘い、おびき寄せてきたところを一撃で仕留めるタイプだろう。

 いうなれば、カウンター型だ。


『万端ダ』


 煩悩の声もいつの間にか真剣な声色になっていた。

 こいつも俺と同じで、普段は虚勢を張っているだけなのだろうか。


「・・・珍しいな、いつもならサボってそうなもんなのに」

『言っただロ、腹が減って仕方ねえんだッテ。とっとと喰わせロ』


 違ったらしい。


「なら黙って力貸せ、クソ煩悩」

『イイカ、毎回言ってるが力の使い方はウゲッ――』


 何か言いかけた煩悩を乱暴につかみ取って、そのまま自分の左胸に叩きつける。


 叩きつけるように、叩き潰すように。

 煩悩も、俺の体も、砕くように。


「――ッ!!!」

 

 小さな破裂音が体の中心から音を広げていく。 


 破裂音が響き、そしてまた小さな破裂音を呼び、その音が更なる破裂音を呼ぶ。


 俺の全身が、小さな爆発を幾重にも起こしていく。


 体の隅々が、節々が、


 全て壊され、0から作り変えられていく。


荒魂装纏アラタマソウテン――羅刹ラセツ


 そう、これは、

 魂自体を書き換える行為。

 人の魂を別の魂でそのまま上書きする、非人道的な戦術。

 空っぽの俺にだけ許された禁忌。


「ア・・・アァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

『ギャハハアハハハハハハハハッハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』


 全身が何重にも破壊と創造を繰り返し、出来上がるのは

 もはや俺ではない、ヒトの形をした何か。


 崩魂ではないが、人間でもない。

 荒魂あらたまと呼ばれる、魂に欠陥のない異形。

 人の力を超越した、均衡のとれた、正真正銘の化物。


『「テメェの煩悩、喰らい尽くしてやるよ」』


 ――これは、空っぽの俺の戦いだ。

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