ミルクコーヒー

想空

ミルクコーヒー



 私の将来の夢は小説家だった。


 文字の羅列だけで、ありとあらゆる風景を、人間という複雑すぎるものの感情を表すことが出来る。なんて素敵な仕事だろう、と当時は思ったものだ。


 もちろん今も本を読むことは好きだ。昨日だって、本屋で一目惚れして購入したミステリー小説を片手に、パソコンの画面を開いたまま寝落ちしたのだから。そのおかけで今日の私は昨日の私の分まで働かなくてはならないし、ミステリー小説も読み終わらない。

 これでは仕事の資料は作り終わらないし、物語の事件の犯人はいつまで経っても見つからない。探偵はいつまでも証拠探しの猿芝居を続けなければならない。


 なんて怠惰な生活だ、と昔の私が今の生活を見たら言うだろうか。


 あの頃は大人というものに根拠の無い、理不尽なほどの期待を抱いていた。しかし現実は、田舎の高校生だった私が見ていたのは広い世界の一部に過ぎず、大人なんてそんな楽しいもんじゃなかった。


 随分だらだらと話したが、ここまでが、私が朝ベッドから体を起こしてから、朝のミルクコーヒーが出来上がるまでに考えていたこと。ちょうど今、熱い液体の入ったマグカップが出来上がったところだ。


 猫舌のくせにいつも熱いものを作ってしまうのは、大半がそうしている世の中に少しでも溶け込みたいからか、はたまたぬるいものでは満足して貰えないと思っているからか。


 いや、理由が何にせよ、飲めないものは淹れるものじゃない。分かっているのに結局そうやっていつも後悔しながら、そして舌を少し火傷しながら、熱々のミルクコーヒーを飲むのだ。


 ミルクコーヒーだって、別に特別好きな訳じゃ無い。ブラックコーヒーじゃ苦すぎるし、ただのホットミルクじゃつまらない。かと言ってココアは、私の怠惰な目覚めには些か甘すぎる。


 私には、白か茶かはっきりしない上に、どうやってももう元の色には戻れない、そんなミルクコーヒーくらいがちょうど良い。


 昔から朝は嫌いだ。早起きは三文の徳だとか、勉強は朝型の方が良いとか言うけれど、そんなの結局人の主観だ、どうせは結果論だ。私が一度嫌いだと思ったらそれはもう一生嫌いなのだ。


 今日だって、土曜日だと言うのに何のためにやっているかも分からない仕事をして、何を目標としているのかも分からない社会で生きていく為の資金を調達する。こんな生活もう懲り懲りだと世間の大多数が思っているのに現状が変わらないのは、もうここがそういう国なんだろうか。

 ああ、何だか久々に海外へ行きたくなってきた。価値観にも常識にも囚われず、気楽に生きたい。


 そんな事を考えていても仕事が終わる訳でもなく、ただただ時間だけが過ぎる。現在進行形で過ごしている無駄な時間を目の前に、何も出来ないのが私という存在だ。高校生の頃の私よ、これが大人になった私だ。

 いっそのこと十七歳で人生に失望していたら今はもっと気が楽だったかもしれないのに、そこそこ楽しい青春を送ってしまったせいで、今が余計に虚しい、寂しい。人の温もりが恋しい。


 もう何年、実家にも帰っていないだろう。まあ、帰ったところで持ち帰れるようなものは無いし、紹介する人も居ないのだが。私の部屋は、今どうなっているのだろう。物置部屋と化しているか、客の来ない客室となっているか。おそらく前者だろうな。


 数年前までそこで毎日を過ごしていた、目に馴染みのある一室を思い浮かべる。よくある子供用の勉強机と、途中までしか揃っていない少年漫画、置き去りにされたアコースティックギター。

 何か個性が欲しかった当時の私は、趣味と呼べるものに片っ端から手をつけた。結局どれも飽きて長く続かなかった。


 新年度の自己紹介はいつも「小説を読むことが好きです。何かおすすめの本あったら教えて下さい」とかそんな内容だった。本心でもなんでもないが、それが世間のテンプレってやつだろう。元々他人に勧められた本になんて興味は無いし、それなら本屋にいって本の帯を見ればいい。誰が決めたのかも分からない大賞1位で溢れかえっている、あの文字達を。


 私は、というか人間は、自分の目で見たものしか信じられないように出来ているんだ。どうせ他人のおすすめなんて読み終わっても、自分で傑作を見つけ出して読破した時の感動は感じられないのだ。そんなことは、高校生の当時もよく分かっていたと思う。


 ふと、今まで過去の自分が買い漁ってきた本たちが並ぶ、背の高い棚を眺める。


 とりあえず知名度のある作家の文庫本を好んで読んでいた小学生。夢見る少女と恋愛に全く興味のない少年が恋に落ちる、ありがちな恋愛小説ばかり読んでいた中学生。視野を広げようと古典文学や外国文学、ミステリーにSFといった分野に手を出していた高校生。


 今はというと、純粋に小説を楽しむなんてそんな余裕はなく、いつも何かの片手間で読むしかない。むしろ生きていくことに精一杯。


 やっぱり、これでは過去の自分に笑われるだろうか。どうして夢を追わなかったのかと、どうしてしたくもない事を無理やりして生きる、そんな馬鹿なことをしているのかと、怒られるだろうか。まあ、怒られたところでこの現状は変わらないのだし別にいいか。


 例えどれだけお説教をされたとしても、じっくり文字の世界に浸る為の時間がぱっと出てくるわけでもないし、私が朝に飲むのはいつまで経ってもミルクコーヒーのままだ。


 気がついたら無くなっていたそれのマグカップを横目に、今日もパソコンと睨めっこをする。

 こんなこと、何が楽しくてやっているのか全く理解できない。それでも続けなければ生きていけない人間のか弱さも、心底理解できない。理解なんてしたくない。



 ……なんて。


 全く私は、仕事の資料も作らずに何をせっせと書いているのだろう。


 こんなのただの独り言でしかないし、傍からみたら私はとんだポエマーだ。でも、この小さな液晶画面を見て思うことはいつだって同じ。


 堅苦しい敬語とゼロがとりあえず沢山の数字たちの並ぶ資料よりも、私の頭の中の、遥か地平線まで続く世界のことが書いてあるこの画面の方が、何倍も好きだ。

 朝はどうやっても嫌いだ。それと同じように、物語を創ることはどうやっても好きなのだ。


 頼むから来世は、好きなことを好きと言うことを恐れずに、好きなものを食べて好きな仕事をして生きてほしい。今の若者にも、私みたいになるなと叫んで回りたいくらいだ。


 人生は一度きり、そんなこと言われなくても分かっているようで誰も分かっていない。

 私だって。今日の午後を読みかけのミステリー小説を読むことに使うか、パソコンと永遠に勝負のつかない睨めっこをするかだって迷っている、私だって。


 ……今日はもう、睨めっこはこれくらいにしておこう。


 高校生の自分にも明日の自分にも怒られるかもしれないが、昨日の物語の続きを見に行こう。そろそろ探偵だって証拠探しには飽きただろうし、真犯人が誰かも薄々勘づいているはずだ。それならば早く、一番いいシーンで決めゼリフを言わせてやろうじゃないか。その為に、明日の私には今日の私の分まで頑張ってもらおう。


 こんな怠惰な生活でいいのかなんて別に今考えなくてもいいし、そうだったとしても、ああ、怠惰な生活だったな、でいいじゃないか。

 逃げと言われれば逃げだが、いつも追い回してくる仕事なんて、人生なんて、逃げるためにあるようなものだ。私は正々堂々と逃げる。今日はそれでいい。


 さて、それじゃあページを開いて、私と探偵の彼の推理が合っているかどうか答え合わせを始めるとするか。


 時刻は午後三時半。

 私は今日も、この上なく怠惰で、でも奥底に光り輝く夢を秘めた、見る人によっては美しいこの生活の一ページをめくった。

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ミルクコーヒー 想空 @vivi_0301

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