コンペ当日2

 戸田は軽薄だが薄情な男ではない。元来デリカシーなく平気で他人の欠点などを口にするなど人間性に欠陥はあるものの、縁ある者を見捨てたり、助けを求める声を無下にした事はなかった。普段昼行燈で通している姿は彼の一部でしかなく、その芯には他者への思いやりが見られるのだ。一年前、水害で陸の孤島となった川垣に乗り込み陣頭指揮を執ったのは、仕事というよりも彼自身の為人によるところが大きい。彼は誰よりも早く現場に到着し、誰よりも多くの問題を処理していた。食事も寝る間も惜しんで、より迅速に、より多数を救うべく動いたのだ。川垣の一部住民から心無い言葉を投げられもしたが、戸田は文句も言わず深々と頭を下げ、「申し訳ございませんでした」と謝罪を述べた。恐らく、「ありがとう」の言葉よりも批判や誹謗中傷の方が多く寄せられただろうが、それは彼が望んだ事であり、また、そうなるよう進めた。彼は部下に集まるはずのヘイトを一身に受けたのだ。

 そうして彼が得られたものは、僅かな手当と代休二日だけだった。端から見れば泥しか被っていないのだが。戸田は「これで飲み歩ける」と言ってヘラヘラと笑うばかりで、愚痴や不満などは一切出さなかった。



 その戸田が今回、ミオのために動かぬはずなく、彼はヒメと三ツ谷の会食が行われた翌日に狩谷へと詰め寄り公平なコンペを行うよう訴えた。が、結果がは覆らなかった。



「クライアントの意向に沿うのが仕事だ」



 狩谷の答えは冷淡であり正論だった。反論の余地もなく、引き下がる他ない。結局、戸田は何もできずにミオが負ける過程を眺めているしかないのだ。その無力感と怒りがどれほどなのか想像するのは難しい。何故なら、戸田の顔はいつもと同じく、締りなく弛んでいたのだから。





「おはようございます」



 出勤時間の三十分前、伊達が出社し挨拶をする。ミオと比べると遅い出勤だが、それは彼の仕事は何もないからである。資料作成期間はサポート等に回り連日残業をしていたが当日はお役御免。発表からなにから全てミオが対応するため、彼は議事録の作成係に任命されたがそれまでは手持無沙汰となっていたのだった。




「鳳さん、手伝いますので、何でも言ってください」


「ありがとうございます。でも、だいたい大丈夫なので、議事録の方を頑張ってください」


「……」


「どうかなさいましたか?」


「いえ、結局最後まで任せてしまいっぱなしで、情けないなと。最初の発表からなにから全部お願いしてしまって……」


「まぁ次の機会に生かしてください。それに今回、得たものはあったんじゃないですか?」


「そうですね。現地視察や仕事へ挑む姿勢など勉強になりました」


「そうですか。では、それらをレポートにまとめて提出してください。形式はなんでもいいですけど、docかワードがいいですね」


「あ、僕、パワポの方が得意なんですけど……」


「ナラティブな文章作成ができると色々活用できますよ。通常業務優先してもらっていいので納期は任せますが、来週頭までにはできるといいですね」


「……頑張ります」


「あと、戸田さんと狩谷さんにも読んでいただく予定なので、そのつもりで」


「え? それはちょっと……」


「レイヤー高めの方の意見ってあんまり聞けないから、貴重な機会ですよ?」


「……はい」




 伊達は肩を落として猫のように丸まりながら自席へと向かって歩いて行った。彼については成長こそしたものの、根本的な部分での脱却ができずにいる。反論や文句は出るようになったが気の弱い部分が相変わらずで、今一つ迫力が出ないのだ。中々、新たな自分というのは発芽しないものである。


 しかし、個人が持つ本来の性格や性質、思想、価値観等はそう簡単に変わるものでもない。ある意味で伊達は健常であり、また普通なのだ。本や映画の宣伝でよく「人生を変えたとか」といったコピーを見るが、あんなものは偽りか勘違いである。変わったのはその場の一瞬、僅かな間だけで、心そのものが変身するわけではない。人間の本質を変化せしめるには、より強力で持続的な負荷を加え、自我の深くまで影響を与える必要がある。


 例えば、ずっと醜いと言われていた人間がストレスから逃れるため、「自分は美しい」と暗示をかけ続け、美人なのだから周りの人間がやっかみや妬みを言ってくるのは仕方ないと思い込むようになるといったように。






「鳳さん、忙しいところごめん。資料のチェック頼める?」


「分かりました」


「鳳さん、この前頼んだレポートできてる?」


「本日中には納品できる形に整えます」


「すみません鳳さん。請求ファイルってどこのディレクトリに格納されてる感じでしょうか……」


「チャットで送りますね」





 始業後、朝礼を終えるとミオは人に囲まれ、自分以外の仕事を処理していく。次から次へと降りかかるタスクと通常業務を並行して対応していかなくてはならず、もはやグリーングローブ市のレポートなど手につける暇などない。社内社外問わず、実に数多くの依頼が彼女の元へとやってきて、休む暇さえ与えないのだ。


 それでも彼女は笑っている。自分が美しいと思う顔で笑っている。

 彼女の笑顔はここ数十年で崩れた事はない。誰もが皆、鳳ミオは笑顔であると認識している。

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