コンペ当日1

「おはよう! 今日も私はビューティフル!」



 夜と朝の間、いつもより二時間早く起床したミオはいつもの如く歌いながら朝食を作り胃に収め、いつもと同じように身支度を済ませて部屋を出た。薄黒から紫、そしてオレンジにかけてのグラデーションが空を彩る町並みは静かで、彼女の足音と配送トラック、そして時折通る自家用車の音しか聞こえない。早朝は深夜よりも人出が少なく、ミオは一人、孤独と静寂を纏って、まだ誰もいないオフィスへとやって来たのだった。



「おはようございます」



 鍵を開け、誰もいない執務室で挨拶をして自らのデスクに座りPCを立ち上げてスケジュールを確認すると、『プレゼン』の文字が表示されている。本日はグリーングローブ市における労働生産性改善プロジェクトのコンペ当日である。


 ミオはファイルを立ち上げ最終チェックと読み合わせ原稿を確認し調整をしていった。早朝に出勤したのはこのためである。当該プロジェクト以外にも多数の案件を抱えている彼女が注力するには、早朝か深夜に残業をするしかなかった。




「そんなに肩の力入れなくたっていいんじゃないですか? 社内コンペだし、ポカしても筋がしっかりしてれば問題ないと思いますよ」




 これは早朝残業の許可を得る際彼女にかけた戸田の言葉である。

 彼の言い分は正しく、また現代社会における労働の価値観にも則しているといえる。建前的には残業は悪とされワークライフバランスが重要視される昨今、時間外労働は避けるべきであるという風潮は強まっており、企業としても定時までの間で最大限のパフォーマンスを発揮してもらい長時間労働は控えてほしいという表明をしなければならない(サービス残業をしてほしいなどという本音は口が裂けてもいえない)。そのためいくら本人の意思であっても本来は止めるべきであったが、ミオは頑なに意思を変えずに半ば無理やり承認させたのだった。

 そもそもミオのアサイン自体が想定外であるわけだからそうまでする必要はなく、むしろ、適当にやっつけてわざとコンペに落ち、そのままリリースとなった方が賢いともいえる。それは彼女も承知のうえだ。


 しかし、ミオには仕事を、他人に頼まれた事を半端に投げ出すといった真似はできなかった。他人からかけられた期待を裏切るなど、彼女にはできなかった。

 これまでずっと他人のために動いてきた彼女は、どのような理由があろうとその生き方を覆す事はできなかった。ミオの献身と奉仕は見ようによっては狂気的、病的と捉えられるもので常軌を逸脱している。何を言われようとも挫けずひたすら前のめりで物事に挑む姿勢は他者から賞賛され信用にも繋がっているが、一歩離れた視点から眺めるとその異常性に気が付く。まるで封建社会制度の中で滅私奉公に仕えているようだ。正気ではない。

 果たして彼女がここまでする理由はなんなのか。何を原動力にしているのか。動機は、心境は、機微は。考えてみると全てが不明であり、掴めない。ミオはいったい何を求め、何を欲しているのか。また、彼女の口からそれが語られる事はあるのか。もし語られるのであれば、それは誰に対して、どんな場面で行われるのか。いずれも想像がつかない。彼女の内面は現在、誰一人として知る者がいない。




「おはようございます」




 ミオがキーボードを叩いていると、いつもより早く出社した戸田が声をかけた。




「おはようございます。お早いですね」


「部下が超早朝出勤なんてするものですから、いつも通りに来るなんてできないでしょう」


「申し訳ないです」


「いや、いいですよ。鳳さんの顔を見て目が覚めましたから」


「あ、よかった。美人の顔を見ると、脳が覚醒するですね」


「……コーヒーとクッキーを買ってきたら、よかったら食べてください」


「ありがとうございます」



 戸田は困ったような顔をして差し入れをミオのデスクに置いた。恐らく「不細工だからだよ」とでも言いたかったのだろうが、さすがにプレゼン当日に士気を下げるような冗談を何度も口にするのは躊躇われたのだろう。




「どうですか、順調ですか」


「そうですね。基本的には問題ないと思います。ただ、岩永さんがどれだけの企画を持ってくるかが未知数なので、懸念はありますね」


「……」




 一瞬戸田は黙り込み、ミオから目を背けた。




「どうかされたんですか?」


「いえ、仰る通り、向こうがどんな資料を用意しているのか気になりまして。岩永さんも優秀ですからね」


「そうなんですよ。あの人、やっぱり頭がいいですから。センスもあるし」


「そうですね……」




 戸田が一瞬口籠ったのはヒメと三ツ谷の会食を知っているからである。無論、そこでどのようなやり取りが行われた事も。

 ヒメの根回しにより、ミオがこのコンペを勝ち取る可能性は限りなくゼロに近くなっている。今日、ミオのプレゼンがどれだけ優れていても、結末は覆らず、ヒメの案が通る事だろう。いってみれば茶番であり、ミオの役割が咬ませ犬から変更する目はまずない。


 いっそこの場でそれを伝えてしまった方が彼女にとって幸福なのかもしれないが、先歩通り、戸田は口を噤んだ。真実を伝える勇気や気概がないわけではない。彼の立場がそれを許さないのだ。管理者の一人として、全て包み隠さず部下に伝えるという行為はできないのである。



「まぁいってもキャリアは鳳さんの方が長いし、大丈夫でしょう」


「どうでしょうね。でも、そう言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます」


「いえいえ……」




 軽薄な表情が一瞬曇り、それを隠すように、戸田は自身のデスクに座ってコーヒーを啜った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る