ロブ・ロイ2

 ヒメがこの店に訪れるようになったのは彼女が学生の頃であった。

 丁度容姿についての噂を耳にした時分、ヒメは憂さ晴らすため闇雲にレジャーに赴きボルダリングだのスキーだのダイビングだのを経験していたのだが一向に精神状態は向上しなかった。どれだけ汗を流そうとも、美しいものを見ようとも心晴れる事なく、暗雲がずっと立ち込めていた。爽脳内麻薬の分泌による一時的な爽快感はあったかもしれないが、問題の解決に繋がらない以上それらは逃避行動でしかなく、幾ら一般的な趣味などで紛らわしても彼女自身が納得もなにもできなかったのである。そして遊興に使う金も暇もなくなってくると、今度はやさぐれたように深夜の街を徘徊し、悪戯に男の視線を一身に集めるなどしていた。自身の顔にしか目がいかない人間を嘲笑い愉悦を得るという捻くれた遊びを一時の慰めとし無為な時間を過ごす、極めて露悪的な趣味を持つようになっていたのだ。当然、ヒメに声をかける者もいたが大概が小馬鹿にされあしらわれる始末。誰も彼女の増長と性格の悪化を止める事はできず雄としての自尊心をへし折られていく中、一人の男が彼女に声をかけたのだった。



「あんた、俺の次にいい顔してるね。気に入ったよ。一杯どうだい」



 その軽薄かつ尊大な態度にさすがのヒメも呆れてしまい「はぁ?」と返事をするも男の方は顔色を変えずに「奢ってやるから」とやたらに誘うのであった。当初こそ辟易としていたが、その上から目線とあくまで「自分の次」という評価を下す男に興味が湧いたのか、「少しだけ」と言って連れられてきたのが今いるバーである。この会員制の名もないバーは“RN”と呼ばれており(店内の装いからどこかの気取った客が「Le Rouge et le Noir」と評したのが始まりとの事である)、以来、ヒメは時間を見つけてはこのRNを訪れ酒を飲むようになっていったのだった。NRでは、ヒメは穏やかな顔で酒を飲み、棘のない美しさを見せていた。何も考えなくてもいいこの空間が、彼女にとって最も必要な場所なのかもしれない。




 ただし、彼女がRNを来るのは落ち着きたい日ばかりではなかった。




「久しぶりじゃないか岩永」



 ヒメがカクテルグラスを空にする頃、扉が開き軽薄な声で彼女の名を呼ぶ男が現れた。



「相変わらずうるさいよ。もっと静かに喋って」


「面白い事を言うなお前は、いい男がボソボソと喋ったってしょうがないだろう。俺みたいに顔の言い人間は腹の底からハキハキと声を出さなきゃ」



 店の雰囲気を損ねるか損ねないかギリギリのラインの声量を出しながら男は座り、「ポルフィディオアネホ」と注文。即座にシガーケースから一本取り出し、慣れた手つきでカット、着火までを行った。煙に満ちた店内は甘苦い豊かな香りに包まれていく。上質な葉を使った上等なシガーの芳香である。


 この傍若無人な男の名はエット 羽賀。オランダ人とのハーフで、学生時代のヒメに声をかけこの店に招いた人間である。




「味も香りも分からないくせに」



 ヒメは満足そうにシガーを燻らすエットに向かって悪態をつく。二人の会話は、いつもこうして始まる。



「何度も言うがね。物の良し悪しなんてのは普通の人間が決めればいいんだよ。俺は俺に似合ったレベルの物を嗜むだけ。それがいい男ってもんだ」



 エットは自信満々だった。彼は本気で自分がいい男であり、いい男はそうするべきだと言っているのだ。

 実際彼の顔の作りは良く、女性からの第一印象はおしなべて好意的である。しかし、そのナルシシズムと独善的な自己基準による価値感は頗る印象を悪くし話しをした女性を遠ざけるのだった。例外的に交流を続けているのはヒメくらいなものなのだが、どうしてヒメがエットと交友を持っているのかといえば、それは彼のその独善的な自己基準によるところが大きい。



「お前も俺の次に顔がいいんだから、そろそろもうワンステップ上に行くための行動をすべきだ。習慣から内面を変えないと表情に深みが出ないぞ。いつまでも綺麗なイラスト程度の美貌に満足しているんじゃない。俺を見習え」




 そう、彼は徹底して自己の美貌が一番だと言い張って憚らないのである。

 エットにとってヒメは自分の次に美しいというだけであり、性欲や愛欲の対象ではない。男女問わずに端麗な容姿を持つ者は彼にとって自分に近しい人間であり、また、「あいつは確かに綺麗だが、俺には負ける」という理屈を述べて自身の美しさを証明するための存在として認識しているのだ。美しければ美しい程、彼の眼には女性として映らない。

 このエットの性格は常人からすると忌避するに十分な理由となるが、異様に美しいヒメの場合は違った。彼女はずっと自身の容姿による差別や区別を受けてきたため、エットのような考え方をする人間の方が対等かつ気兼ねなく話しができるのである。友人と言える程仲が良くなく心も許してはいないが、彼はヒメの数少ない、普通の会話ができる人間の一人であった。



「どうぞ、ポルフィディオアネホでございます」


「どうも。それとマスター。ナッツをくれないかい。ピスタチオが食べたい」


「かしこまりました」


「あと、ついでにもう一杯」



 渡されたポルフィディオ・アネホを飲み干したエットはつき返すようにカウンターの奥へとグラスを追いやり笑った。これが彼の流儀である。ヒメはそれを、飽きれたような顔をして見ていた。

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