ロブ・ロイ1
「本日は貴重なお時間の中お付き合いいただき、ありがとうございました」
ミオと伊達が二人で飲んでいる頃、木曽路の雪の入り口でヒメは深々と頭を下げていた。
「もう一軒行けないのが残念だね。これくらいじゃ飲み足りないなぁ」
三ツ谷は非常に残念そうな声を出した後に磯貝を憎々しく睨みつけた。というのも、一次会でお開きとなったのは三ツ谷達側の都合であって、磯貝が頑なに「本日はこれで」と聞かなかったからである。
いつもの三ツ谷であればどのような理由があれ我を通し積極的にヒメを手籠めにせんとしただろうが、今回に限りそれができなかったのは、磯貝の次の一言が決め手となったからだった。
「明日の朝一の会議なのですが、大臣が秘書方を連れていらっしゃいます」
それを聞いた以上、権力に媚びる三ツ谷はもう何も言えず、また、「大臣の秘書」という言葉も彼を縛るのに大きな役割を持っていた。素行が悪く横柄で横暴な三ツ谷は秘書の筆頭から目を付けられており、事ある毎に口頭での注意、指導が行われるのである。時に助言を求められたり、一部非政治活動における権限の委任が行われる立場であるためその発言力は強く、いかに三ツ谷といえども逆らえないのである。
「このプロジェクトが進めば、またご相談させていただく事もあると思いますので、是非、よろしくお願いいたします」
「そうだね。狩谷君、君もヒメちゃんに負けないように頑張りなさいよ。今回は私の力でなんとかするけども、それだけに私の顔に泥を塗るような真似をしないよう気をつけていただきたいね」
「肝に銘じます。内容につきましては先程お渡しいたしました資料がほぼほぼ完成バージョンとなっておりますので、お時間のある際にご確認いただけますと」
「そんな暇はないんだが、まぁ考えておくよ。磯貝君、君はしっかり見ておきなさいよ」
「承知いたしました」
「私も精進いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「うん、ヒメちゃんも頑張って。何かあればなんでも言ってきなさい。名刺に個人の番号も書いてあるから」
三ツ谷は露骨に不満な態度を取り狩谷と磯貝を威圧していたが、ヒメの前では恵比寿のような顔をするのだった。
「それでは、我々はこの辺りで。三ツ谷さん、どうぞ、お先にお乗りになってください」
「はいはい。じゃ、ヒメちゃん、またね」
「……」
ヒメは精一杯の笑顔を作っていたが、タクシーが見えなくなった瞬間、嫌悪から眉を潜めて唾を吐き捨て、「最悪」と一言漏らした。
「品がないね」
「どうもすみません。我慢できず」
狩谷に咎められても不機嫌なまま応えたヒメはわざとらしく大きな溜息を吐いて姿勢を崩した。「やってられない」といったところだろう。
「言っておくけれども、今回の会食は君が設定したものだからね」
「存じてます。今回はお付き合いいただきありがとうございました」
「そうじゃない。君はこうなる事が分かっていながら根回ししたんだだろう。気持ちは分かるが、そんな態度を取るのは情けないと言いたいんだ」
「……仰る通りですね。すみません」
「君も今後部下を持つ事になるんだ。自分の行動が周りにどう映るか、どう影響するか、考えた方がいいね」
「は。気を付けます」
普段ネガティブな言動をとる狩谷に一瞬「お前が言うなと」とヒメは思っただろうが、内容自体は正論であるためか素直に聞き入れたようだ。基本的に理があれば従うのが彼女のスタイルである。本来、顔合わせの際に見せたミオへの無理筋な対応の方が異常なのだ。
「よろしく。まぁそれは置いておいて、今日の接待は上々だった。まず間違いなく上手くいくだろうから、準備をしておいた方がいい」
「そうですね。朝にも申し上げましたが、その辺りは抜かりありません」
「そうだったね。それじゃあ、俺は帰るから、気を付けて」
「……もう一軒、誘ってくれないんですか?」
「異性の部下と社外で二人になるわけにいかんだろう。それに君、飲み会とか参加しないじゃないか」
「大人数でいるのが嫌なんですよ。二人三人なら大丈夫です」
「そうか。じゃあ、このプロジェクトが一段落ついたら誰か誘って飲もうか」
「戸田さん以外でお願いします」
「君は本当に人の好き嫌いが多いな」
「せっかくなら楽しい会合にしたいと思いますので」
「なら人選は任せるよ。はい、タクシー代。気を付けて帰りなさい」
「あ、大丈夫です自分で……」
「それじゃあ」
最後まで聞かずに狩谷はさっさと歩いて行った。ヒメは渡された五千円を握り、「ふぅ」と吐息を落とすと、スマートフォンを操作した後に歩き出した。足を止めたのは十分ほど道を進んだところにあるテナントビル。ヒメはエレベーターで最上階まで登り、到着したフロアの目の前にある扉を開く。
「いらっしゃいませ」
カウンターからウエストコートを着たマスターが入店の挨拶をすると、ヒメは端の席に座り、「どうも」と会釈をした。
「どうぞ。お久しぶりですね」
「忙しかったもので」
ウェットタオルを受け取ったヒメはその流れで「ロブロイをください」と注文。カウンターに肘を置きしばらく、ステアの様子を伺うのだった。この日彼女は、初めて背中を丸めて身体の筋肉を緩ませていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます