真珠と豚3

 制限時間は閉店までの約四時間。ヒメはそれまでに社内コンペをしている事を伝え、自分の企画が通るよう根回しをしなければならない。二次会も考慮すれば終電までの三時間をアディショナルタイムとして使えるが、それは三ツ谷の理性が決壊する恐れがあるのと記憶が飛んでしまう可能性があるため避けたいところである。酔った勢いで強引に関係を持ってしまったり、せっかく約束を取り付けたのに向こうが覚えていなかったといった事態となってしまっては目も当てられない。



「お待たせいたしました。お先にビールを失礼いたします」


「ありがとうございます」



 店員が一言添えて襖を開く。ビールはグラス共々よく冷えており、取り分ける際に触れた箇所に、ヒメの指の形が残った。



「では、お酌いたします」


「あぁ、ありがとうね。それにしても、ヒメちゃんはちゃんとしているね。この前新卒の子にビールを注がしたら、ラベルを後ろ向きにしてドボドボとまぁ乱暴に入れてくるんだよ。今時の子はマナーを知らないからもう困っちゃって。こういう一般常識から教えなきゃいけないから大変だよ」


「そうなんですね」



 マナーというのは本来異なる個体が共存するため不愉快にならないよう設けられた暗黙のルールである。それを考えるとビールの注ぎ方などはそれに該当しないように思える。ラベルの向きがどちらを向いていようが酒が注げる。

 こういった非合理的な解釈については昨今では非難される傾向にあり、推奨する人間の愚かしさなどSNSなどでよく語られるようになっているわけだが、一部の人間は自身の生きてきた環境を世間一般の常識として認識してしまっているから、矯正するのは困難である。



「それじゃあ乾杯しようか。磯貝君。音頭を取りなさい」


「あ、ここはやはり三ツ谷さんの方が締まるかなと思うのですが」


「そうかい。いや、困るね。何処に行ってもこうだ。私は乾杯大臣じゃないんだから」


「いやぁ僕からしたら大先輩ですから、そんな方を差し置いて乾杯の音頭などとてもできません。実績からなにから全然違いますので、色々勉強させていただいている身ですので」


「なんだ、世辞ばかりが上手くなるね君は。ただまぁ、上司を尊重するのも仕事のうちだからね。その心意気に免じて、私がやろうか。じゃ、皆様ご準備はよろしいでしょうか……はい、乾杯」


「乾杯」



 グラスが鳴らされそれぞれが一口目に口をつける。至福の瞬間であるはずだが、三ツ谷以外の顔からはありありと疲労疲弊の相が見て取れた。ここまで一連の流れで皆、大きくメンタルにダメージを負ってしまったのだ。ただ一杯のビールを飲むためだけでこれであるから、この先酒が進んだらどうなるのか。一同の不安は尽きず、三者三様の悩みを抱えている事だろう。



「いや、美味いね。やはり美人に注いでもらうと酒が良くなる」


「ありがとうございます」


「これは本当だよヒメちゃん。どうかな。私の秘書にならないかい? 君みたいに仕事も優秀で気の利く女性に、公私ともに助けていただきたいと思っているんだよ。さっきも言ったけれど、私も忙しくてね」


「そんな、滅相もございません。でももし、今の職場でお払い箱にでもなりましたら、その時はお願いいたします」


「ほほぉ。それは良い事を聞いたな。狩谷君、君、ヒメちゃんをクビにしなさいよ」


「そうですね。弊社としても彼女を失うのは痛いところではありますが、三ツ谷様とは今後も良き関係を続けたいと思っておりますので、現在進行しているプロジェクトが完了しましたら、改めて本人と相談してお返事できればと思います」


「プロジェクトなんていいじゃないか。どうせ天下りの連中が取ってきたゴールあり気の仕事だろう。誰がやっても同じだよ」



 三ツ谷のこの発言はヒメと狩谷への侮辱に等しい失言だったが、二人供張り付いた微笑で受け流していた。商談の席であれば市場価値定時のためオブラートに包んだ反論をすべきであるが、酒の席であるのと、計画を円滑に進めるためにあえて何も言わなかったのである。

 こうした状況において狩谷は自身の事よりもヒメについて心配しており、常に様子を伺ってはフォローに入れるようにしていた。


 ヒメの既成事実獲得について狩谷の賛否はなく、部下のやりたい事をサポートするという立場を取っている。彼はミオの能力を買ってこそいるものの全面的に支持しているわけではないし、ヒメの上司であるが彼女を贔屓するわけでもない。狩谷の仕事における信条は「信頼している人間には立場問わずに協力する」「チームにおいては正当性を遵守する」の二つである。そのため、接待の目論見を聞いた際も三ツ谷への文句はあったにしろ二つ返事で許可を出した。狩谷にとってヒメは、信頼、信用に足る人間の一人なのだ。



「狩谷君、こうしないかい? 今うちで抱えている仕事を幾つか回すから、その代わりヒメちゃんをくれよ。君の手柄にも繋がるし、悪い話ではないだろう」



 下卑た顔をした三ツ谷が冗談半分、本気半分でそんな提案を持ちかけると、狩谷は笑顔を張り付けたまま答えた。



「素晴らしいご提案ではありますが、正直な話、私も彼女を狙っておりまして、今度職権を乱用して食事に誘おうとしております。なので、このお返事もやはりプロジェクトの後にさせていていただきたいと思います」


「なんだ君は、とんでもない奴だな」


「上司の役得です」


 最悪の提案に対して最悪の返答を突きつけ、この話は冗談として処理された。この会話の渦中にいるはずのヒメは一言も発せず、空になった三ツ谷のグラスに酌をして、お面のように口角を上げているばかりであった。

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