真珠と豚2
「お世話になっております。本日はご足労いただきまして恐れ入ります。磯貝様もご対応いただき……」
「磯貝君はそれが仕事だから気にしなくてもいいよ。なぁ」
磯貝は返事の代わりに「ははは」とあからさまな愛想笑いを浮かべた。よく見ると目に生気がない。余程三ツ谷が苦手なのだろう。
「それにしても、疲れたよ。会議の連続でね。いやぁ、私がいなくても回るようにしなさいと言っているんだけど、中々どうして下が育たない。ヒメちゃんみたいな優秀な人間がうちにいてくれるといいんだけどね」
今度はヒメが「ははは」と愛想笑いを浮かべる。心の中で「お前はいない方がいいぞ」と舌を出しているのが分からないのは三ツ谷本人だけであろう。もっとも、数多くの人間から同じような対応を取られている彼にしてみれば、分かったうえで気にならないのかも知れない。厚顔無恥と無神経を極めた人間は、他者からの侮蔑など取るに足らないのだ。
この三ツ谷という男は昔から変わらず、好意的に取れば揺らぐ事のない鋼のメンタルを持っていた。国会議員の息子に生まれた彼は幼少期から厳しく育てられたのだがその甲斐もなく親の権威を自分の力だと勘違いするようになる。これは、父親以外からの大人が彼を持て囃し甘えさせていたのと、父親も父親で最終的には我儘を飲んでいた事が要因かもしれない。自分は何をやっても最終的には許されるという歪な精神構造が完成してしまっていたのだ。
そんな三ツ谷だったが上に取り入る能力は格段に高く、学校では教師や上級生に好かれていた。権力を笠に着ているためか、虎の威を借りる事が彼にとっての生存戦略であると理解していたのだろう。高校大学で所属していたレスリング部で人望がないにも関わらず部長を務めていたのは抜きんでた
大学卒業後は父親と同じく政治家の道を志すも、自分より下と判断した人間に頭を下げる事ができず断念。大学時代に築いたツテを頼り、国営の都市開発機構に所属するようになる。そこで三ツ谷は媚び諂っていくと同時に部下や後輩ができると彼らの功績を自身のものとし出世していった。年功序列制度が色濃く残っていた組織内において実績も付加されてしまうと三ツ谷の力は絶大なものとなり、物言える人間はおらず暴走していたエゴイズムは更に加速していったのであった。
現在三ツ谷は同機構の執務長を務めており、実質的な組織のトップに立っている。彼を制止できる者などもはやなく、横暴がまかり通る現状において、あえて接触しようとする人間は少ない。女であれば歯牙にかかる可能性があるし、男であれば容赦のない罵詈雑言の他、功績の盗奪に遭うためである。
ヒメにおいても例外ではなく、三ツ谷を相手に接待をするなど可能な限り拒否したいと思っていたのだが、社内コンペで勝ちを取るには必要不可欠な存在というのも理解していた。もし仮に三ツ谷が来なかった場合、既にできあがっている案について磯貝に説明し、この通りに進めると説明。既成事実を作ってしまうという腹であった。クライアントの特性上、初期構想と異なる進行は受け入れられない可能性が高いため、この場で納得させてしまえば後はどうとでもなる。しかし、磯貝が「任せる」といって明確な許可を出さない場合や決定を渋る事も考えられる。磯貝の性格上、自身に責任が及ぶような真似は極力避ける傾向にあるから、むしろそうなる公算の方が高い。
一方で三ツ谷はそもそも自分で責任をとらないため、自身の機嫌や損得での決定を考えなしに行う。彼にとって仕事とは自動的に自分を愉快にさせてくれる社会概念であり、責務などとは縁遠い遊びの一種でしかないのだ。客観的に判断すればゴミと断じても差し支えない思想、価値観であるが、その軽薄な社会意識の低さがヒメにとって都合がよかった。
だが、社会意識が低い故に話が進まないという点も十分にあり得る。
「それでは、早速業務の進捗状況をご説明したいと……」
「何を言ってるんだヒメちゃん。そういう固い話は後。まずは乾杯をしよう。私は仕事が終わって疲れているんでね。まずは一杯飲んで、一旦リフレッシュしてからじゃないととても頭に入らないよ」
そう、このように三ツ谷は、本来の目的を二の次、三の次、あるいは先延ばしにしてしまう事が往々にしてあるのだ。このクズにどうにかして仕事の話をさせない限り、ヒメの計画は成就しない。
「分かりました。最初はビールでよろしいでしょうか」
「あぁ、いいねビール」
「ジョッキと瓶、どちらになさいますか?」
「そうだねぇ……」
本来会食の場であれば何も言わずとも瓶ビールが出るようセッティングするのであるが、かつてそのようにしたところ「私はジョッキがいいんだと」と大層ご立腹になった事があるため、三ツ谷を相手にする際は自ら選ばせる事が慣習となっている。
「今日は瓶にしようかな。ヒメちゃん、酌をた頼みたいんだが、いいかな」
「はい。私でよろしければ」
作り笑いで答えたヒメは襖を開けて、廊下で待機している店員を呼んだ。
「瓶ビールを二つ。グラスは四つで。それから、料理の方も出していただけると」
「かしこまりました」
予め注文している料理のオーダーはあえて少なくしている。これも、後程三ツ谷が所望するものを用意するためである。
何から何まで忖度されたこの状況も三ツ谷の言質を取るためである。ヒメはコンペを勝ち取るために本気で根回しをしようとしているのだ。彼女の戦いが今、幕を開けた
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