接待3

 一足先に駅へと着いたヒメは券売機の前で路線図を見ながら時間を潰す。ただただ無為であったがヒメはこうして呆ける瞬間が嫌いではない。会社から帰宅してしばらくなにもせずソファに座っているという事もままあった。

 毎日仕事に追われ、良くも悪くも何かと注目を受ける彼女にとって何も考えない、干渉されないひと時というのはストレスの解消に繋がっているのだろう。ヒメのこのスタンバイモードについては丁度彼女がいじめの対象になっていた頃から見られ、学校内でも休み時間中などに一人呆けていたものだからそれも揶揄の対象となっていた(本人は気にもしていない風に、今、路線図を眺める見たく脳の動きを緩めていた)。


 この無為の時間がヒメにとって重要である事は疑いもない。彼女の激情的な性格に精神が追い付かないため、心を落ち着けるルーティンとして発露したと思うえば納得がいく。しかし、往来の中でそれを行うには些か彼女の美貌は目立ち過ぎた。ヒメの周りでは一騒動が起きており、急ぎ足のサラリーマンが目を奪われ壁に激突。ナンパをしていた人間は声をかけた女を忘れじっと視線を送り、カップルの男の方は極力視界に入れないようにしながら握る女の手を強くして自身の潔癖を誇示しようとしている。男の反応は三者三様だがいずれもヒメの魔力に当てられ狼狽。正気を失う。無自覚に男性機能を刺激するヒメが無防備に立っていればそうもなるだろう。余程見慣れていなければ、彼女が持つ天性の芸術性と官能性に意識が傾いてしまうのである。




「何をしているんだ」



 遅れてやってきた狩谷が声をかけるとヒメは我に返った。狩谷の方はヒメの特性においては耐性ができており、いたって普通に対応する事ができる。



「あぁすみません。チャージが終わって暇だったもので」


「気を付けないとひったくりに遭うぞ」


「日本でそんな事滅多に起きないですよ。それより、早く行きましょう。電車何分でしたっけ」


「二十分後だな」


「え? そんなに本数ありませんでした?」


「点検で減便なんだとさ。まぁ時間はまだある。焦る事はない。どこかカフェでも入るか?」


「いえ、そんな気分でもないですね。ホームのベンチに座っていましょう」


「そうか」



 二人は改札を抜け階段を降りプラットホーム端のベンチに腰掛けた。夜風が通るとまだまだ冷える時期。気の早い月が他の星々より早く空に昇って薄く闇を照らすと、空に広がる宇宙の色が際立っていた。喧騒をバックに肩を並べて鉄のレールを見据える二人の間には心なしか気まずさがあるが、上司と部下が酒も飲まずに同じ空間にいればこうなるのも必然のように思える。




「チョコ食べますか」


「いや、いらない」


「そうですか」




 そんなためかたまに出る会話もこの通りぎこちない。正月に年の離れた親戚が二人きりになってしまったかのような空気感が張り詰めている。

 二人は出会って二年になるが未だに壁がある。狩谷は愚痴を吐く癖に普段は寡黙だし、ヒメも上司に媚を売るために猫なで声を出すような女でもない。双方信用はしているものの私人として良好な関係が築けているとはいい難く、明確に業務中でなければ語る話題もないのだった。共通してあるのは同じ企業、同じ部署に所属していると点だけであり、それ以外は何もない。故に、何かを話すとすれば、数少なく狭い共通の認識の中の話題に限られてくる。




「ところで岩永さん」



 狩谷がレールを見ながら一声を発した。蛍光灯の光の中、彼の黒いスーツが際立ち威圧的で、先程愚痴をこぼしていた人間とは思えない様子だった。




「なんでしょうか」


「会社でも聞いたが、何故鳳さんの事を目の敵にするんだ。別段彼女に問題があるわけでもないだろう。仕事もできるし、人格にも問題ない」


「……会社でも言いましたけど、答える必要ありますか、それ」


「ある」


「どういった理由で」


「今は成り行きで別行動しているが、本来は同じチームで協力し合いながら仕事をする想定だった。このコンペでどちらの案が採用されようが、結局は顔を合わせて業務に取り掛かる事になる。その時にまた同じような状況になったら困るからね」


「……」


「それとも個人的なトラブルでもあったか? それなら無理に話す必要はないが……」


「なんでもないですよ。ただ、あの人が気に入らないだけです」


「なんで」


「理由なんてありません。強いて言えば、なんとなくですかね」


「……本当か?」


「はい」


「そうか。なら、解決は難しいかな。嫌いな理由が分からないんじゃどうしようもない」


「前にも言いましたが、私がリーダーであれば別に上手くやりますよ。あの人の指示に従いたくないだけです」


「……」



 会社で交わしたやり取りの繰り返しになる事を嫌ったのか狩谷は言葉なくヒメを見つめた後に「分かった」と小さく呟きまた線路を見た。無言の後、「電車が参ります」とのアナウンスが流れると示し合わせたように二人供ベンチから立ち上る。徐々に車両の音が近付いてくる中、ヒメも狩谷も、重々しく、静かであった。



 

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