接待1
日が沈み業務の終わりが見えてくる時間、デスクに向かう者達の様子は三者三様で、早くも今日の勤務は片付いたと言わんばかりに怠惰に耽ったり、逆に残業が確定し死んだ目でマウスを操作していたり、むしろここからが本番とテキパキと作業開始したりと様々である。
そんな中でヒメは化粧室でメイク直しを行っていた。接待のために、日中に崩れた部分の補修作業を行っていたのだ。
好きでもない相手と会うために身形を整えなければならないとうのも難儀な話だが、マナーとして定着してしまっている以上疎かにするわけにはいかない。相手に失礼のないよう美しく化粧をしましょうなどという社会通念がまかり通っている事に対し疑問が過ぎった事がある人間も多くいるだろうが、そういう仕組みになっている以上、一般的な生活を享受するには従う他ないのである(女性の場合好きで化粧をしているという理由も大いにあるだろうが)。
ヒメにおいても例に漏れず既存の慣習に倣いながら淡々と鏡に向かって顔を形作っていた。仕事と同じように、私情の入る余地がない程事務的に各種道具を顔に当てていのだが、ふいに、ふらりとやってきて彼女に声をかける女がいた。
「ヒメちゃんお疲れぇ。接待の準備かしらぁ」
狐目の女であった。
甲高い声と笑った演技が奇怪であり、逢魔が時における怪談の一つに数えても差し支えのない、不気味な恐ろしさがあった。
「そうですね」
「ヒメちゃん、綺麗なんだから化粧なんてしなくてもいいのに。いっそのこと、ノーメイクで行ったらどうかしら。男の人って、案外そういうのが好きだったりするみたいだしぃ」
「私は仕事の話をするだけなので、相手が好きだろうがなんだろうが関係ありません」
「違うでしょう? 媚を売りに行くんでしょう? 貴女は」
「……」
「あ、でも、それも仕事よねぇ。契約もらって数字上げて……あ、あと、個人的にお小遣いとか貰えるのかしらね。羨ましい」
「何を勘違いしているのか分かりませんが、私は仕事以外のお話しはしませんし、金銭の受け取りもした事がありません。言いがかりがやめてください」
「そんなわけないじゃない。だって、今日のお相手って三ツ谷さんでしょう? あの人が何もしないわけないもの。いいのよぉ、隠さなくたって。うちの会社にもそういう関係を持ってる人、いるんだから」
「……」
「特にヒメちゃんみたいに、顔と身体だけが良い子はそうなるみたい。あの人、頭の悪い女が好みなんですって。“女は美人で愛嬌さえあればいい”なんて、昭和みたいな事言うのよ。ヒメちゃん、外面はいいからね? むしろ関係がない方が不自然だなって思うのよぉ。私だけじゃなくて、皆もね、同じ認識だよ?」
「そうですか。事実無根なので、皆さんにそう伝えてください」
「嫌」
「……」
「それじゃあ、私は帰るから、ヒメちゃんも接待頑張って頂戴ね。あ、朝帰りするなら、服は替えた方がいいよ。また、噂になっちゃうから。バイバイ」
用を足すでもなく去っていったところを見ると、狐目はざわざわヒメに嫌味を言うだけのために化粧室け来たようだった。酷く幼稚な行いであり、人間としては間違いなく下等に分類される。しかし、彼女のその嫌がらせは効果的であり、ヒメの手は震えて化粧どころではなかった。平素であれば「いつもの事」と簡単に流していただろうが、多くの人間がそうであるように、彼女にとっても三ツ谷の相手は回避したいところで、どれだけ仕事のたであったとしても可能な限り関わり合いたくない男の一人であったのだった。現に、三ツ谷は過去、ヒメに対して暗に“抱かせろ”と持ち掛けてきた事がある。
「この契約ね。私が君のために一肌脱いでやってもいいんだ。ただ、その分君にも覚悟を持って仕事に挑んでもらわないといけない。口で言うだけじゃ駄目だよ。こういう事は態度で証明しないと。例えば、女だったら男にはできない覚悟の示し方がある。君にそれができるのであれば、私は喜んで協力するよ」
これはグリーングローブ市について営業を行った際に三ツ谷が言い放った言葉であった。この時は狩谷が間に入りなんとか事なきを得たが、彼女と営業の人間だけであったら、もしかしたら計画そのものが潰れていたか、あるいは、狐目の言う通り、彼女の毒牙にかかった一人となっていたかもしれない。この時ヒメは途中離席し、胃に入っていたものを全て外に出した。嫌悪と怒気と、どうしようもない自分に無力感に、生理的な吐き気が催されたのだろう。
「……」
その事を思い出したのかヒメは口を押え手洗い場で屈んでしまった。化粧品が落ちて散らばり、床にパウダーが拡散していった。
「……」
数分の後、ヒメは顔を上げ動き始めた。
間接照明により薄暗く照らされた化粧室でヒメは落ちた道具を拾い、再び鏡に向かった。頬にできた一筋の線を直し美しい顔を彩っていくと、いつものような気高さが完成。化粧室を後にして、狩谷と待ち合わせているビルの出入り口に向かうのだった。
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