岩永ヒメの受難2
……
風を切るヒメの姿には否応なしに注目が集まっていく。騒がしく歩いているからではない。彼女の姿が目を惹くのだ。
立てば芍薬というが、ヒメはまさしく何をしても花になる質で、しばしば無断で鑑賞の対象となるのだったが彼女がその視線に気づかぬわけはなく、遠慮のない衆人に一層腹を立てて眉間に皺を寄せていくのであった。
また、彼女の神経を逆なでるのは、不躾な視線だけではなかった。
「ヒメちゃん」
ヒールを突き刺しながら歩くヒメの肩を叩いたのは彼女の同僚の一人で、狐目の女だった。
「なんですか」
「新しいプロジェクト、順調なんだってね。羨ましいなぁ。やっぱり、美人の接待って効果あるのかなぁ」
「そうですね」
「なぁにヒメちゃん。素っ気ないじゃない。もう少し愛想よくした方がいいと思うなぁ。顔は可愛いんだから」
「……」
狐目の言葉は至る所に敵意があった。柔和な笑顔に光る牙を隠そうともせず、邪悪な思念を声に乗せてヒメを攻撃し、彼女を打ち負かしてやろうという思惑が感じられる。そのため、二人の間には冷たい空気が隔たりとなって表れていた。
「せっかくあの不細工を追い出せたんでしょう? もっと笑いましょうよ。ほら、にぃって」
「生憎ですけど、鳳さんはまだプロジェクトから外れたわけじゃないので」
「知ってるよぉ? コンペするんでしょう? でも、そんなのもうヒメちゃんの勝ちに決まってるじゃない。今夜、向こうの人とまた接待するんでしょう?」
「……」
「いいなぁ、美人って。それだけで仕事になっちゃうんだもん」
「私は実力で仕事を回しています」
「あ、ごめんなさい。別にヒメちゃんが仕事できないって言ってるんじゃないの。でも、やっぱり実力以上に評価されてるところもあるなぁって思って」
「そうですか」
「気に障ったら許してちょうだいね。でも、私、心底ヒメちゃんが羨ましいんだぁ。仕事もできて美人で、それでいて男の人から好かれて、ねぇ、素敵じゃない。さっきだって皆、ヒメちゃんの方見てたんだから。まるでモデルみたい。あ、そうだ、ヒメちゃん、女優とか目指したらどう? それだけ顔立ちがいいんだもん。天職じゃないかなぁ」
「すみませんが、しばらくこの仕事を辞める気はありません。すみませんが、仕事がありますので失礼します」
「あ、そう。残念。それじゃあね」
狐目は終始笑顔だったが最後だけは冷淡となって獣面を覗かせた。長々と回りくどく話し込んでいたが、結局のところ彼女が言いたかった事は「顔がいいだけで仕事を取ってくる無能のくせにどうして早く辞めないの」というものである。それは当然、妬みが起因となった難癖であり事実ではない。ヒメがその美貌を以てして高い評価を得ているのは間違いではないが、実際業務においても優秀であり、特に事務作業や運営管理には定評があった。彼女が受け持ったチームは悉く円滑に回り、無駄なコストが発生することなく極めて効率的に利益を上げていた。数値だけなら社内トップの成績であり、顔が良いだけの無能というのは的外れな評であるが、彼女を批判する人間はそれを分かったうえで、あえて貶める言葉を吐くのである。
「岩永さん、また接待で仕事取ってきたらしいよ」
「どんな手を使ってるのか分かったもんじゃない」
「あの気取った感じが癪に障るのよね」
根も葉もないどころの騒ぎではない。ヒメを貶める噂は根拠なく伝播していき、嘲笑の種となる。その構図はミオへの悪評と同じだった。美醜の差はあれ、ミオもヒメも、等しく不当な扱いを受けているのである。
「顔なんてどうでもいいじゃない」
他者からの誹謗、あるいは羨望を受ける度にヒメはそう呟く。誰にも聞かれないように、自分に言い聞かせるように。重く、静かに一人語ちるのだ。
「顔なんてどうでもいいじゃない」
自席に戻ったヒメは周囲に漏れないよう小さく声を落とすと椅子に座り、スリープ状態だったPCのロックを解く。デスクトップ通知が一件。チャットで自分へのメンションが飛んでいる。相手は磯貝満。メッセージ内容は……
“続けざまに申し訳ありません。本日、私の他に三ツ谷も会食に参加いたします。既に会場等の設定をしていただいているとは思いますが、一人追加可能でしょうか。もし増席が難しいようでございましたら、こちらで手配いたします。恐れ入りますが、ご確認の程、よろしくお願い致します”
「……ッ!」
ヒメは小さく舌打ちをして眉間を抑えると、しばらくしてキーボードを叩いた。
“ご連絡いただきありがとうございます。三ツ谷様のご参加につきまして、承知いたしました。弊社といたしましても是非お話をお伺いしたいと思っておりましたので、大変嬉しく思います。お席につきましては予め余裕をもってご用意しておりましたので、先程ご共有いたしました会場で問題ございません。こちら、ご配慮いただき、恐れ入ります。それでは本日、お待ちしておりますので、何卒、よろしくお願い致します”
返信を打ち終えると、ヒメは小さく溜息をついて椅子にもたれ天を仰いだ。既定路線とはいえ、精神困憊といった様子である。
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