岩永ヒメの受難1
ミオと伊達がグリーングローブ市に到着した頃、ヒメは社内でキーボードを叩いていた。
“それでは本日、よろしくお願いいたします”
チャットに送る簡単なメッセージ。送信相手は磯貝満。グリーングローブ市労働生産性改善プロジェクトにおけるクライアント担当者である。
ヒメは既にクライアントとの顔合わせを行っている。このプロジェクトが受注する際、営業担当と狩谷の三人で顔合わせをしていたのだ。その際に居合わせたのが、磯貝と、その上司にあたる三ツ谷であった。
磯貝については取り立てて語るべき事もない、いたって平凡な人間である。仕事と私生活の混同はなく、熱意や情熱を生み出す哲学も持たない代わりに粛々と業務を進めるタイプで、グリーングローブ市の案件についても事務的に淡々と対応していた。一方で三ツ谷のほうはというと、これが絵に描いたような俗物であり、下等、下劣、下品を煮詰めたような男である。分不相応な権力と金を有し長いものには巻かれて溺れている犬は棒で叩く、そういった人種で、なにより女癖の悪さには定評があった。立場を悪用した不純な関係など数えきれないほど結んでおり、悪評が絶えたためしがない。「女は顔と体と若さ」と公言してしまうモラルの欠如具合に多数の人間から軽蔑の視線を送られている。それはヒメも例外ではなく嫌悪に属する感情しか浮かばない存在であったが、仕事上付き合いは避けられないと、接待の度に笑顔の奥で殺意を込めた呪詛を唱え続けていた。
そしてその呪詛は今夜もまた唱えられる事となる。
「狩谷さん」
立ち上がったヒメは狩谷の名を呼び彼のデスクへと進んだ。狩谷はそっと視線を向け、言葉なく「なんだ」という姿勢を取る。
「今夜、磯貝さんとの接待を確約できました」
「了解。あの豚もくるのかな」
あの豚とは勿論三ツ谷の事である。狩谷は裏でそう呼称しており、チームの人間もそれを承知していた(三ツ谷は別の企業においても豚の蔑称で通っている)。
「磯貝さんは何もいってきませんでしたが、恐らくいらっしゃると思います」
「そうか。君に任せちゃ駄目かな」
「すみませんが、社内規定で上司を伴わない接待は禁止されていますので」
それは不正取引防止という名目だったが、別の意味もあった。引き抜きの阻止やハラスメント防止のためである。特にディベロッパーとパブリッシャーという力関係が明確な場合、後者の重要性は大きい。無理難題を止めるのも、上司の務めである。
「俺の代わりに戸田なんかどうだろう。あいつも担当の一人だし、俺よりも余程向いていると思うが」
「私、あの人嫌いなので嫌です」
「……」
「狩谷さん。お喋りに付き合っている時間はないので、申請の許可だけお願いします。私、まだ仕事があるので」
「分かった、やっておく。あぁあと他の進捗はどうかな」
「全て終わっています。開始前案件も既に整備できています」
「終わっている? まだ仕事があると言っていたじゃないか」
「それはグリーングローブ市のプロジェクトです。二段階、三段階目の資料を作成しておけば無駄な時間も削れますので」
「気が早いんじゃないか? まだ君の企画が通ると決まったわけじゃないだろう」
「決めるために今日、したくもない接待を設定したんじゃないですか」
「なるほど。随分強かな手を使うじゃないか。あれほど豚との接待嫌がっていたのに」
「鳳さんの下で働くよりはマシです。そのためならなんでもしますよ。私は」
「どうしてそこまで邪険にするのかな。彼女、人間的にも社会人的にも文句のつけようがないと思うが」
「……答える義務はありません」
「言いたくないならいいんだけどね。ただ、コミュニケーションも仕事の内だぞ。好きになる必要はないが、嫌いな相手とも上手く付き合うのが社会だ」
「そんな事は分かっています。私だって、あの人以外ならどうだってできますよ」
「だったら今日の接待、戸田でもいいんじゃないか?」
「どうとでもできますが、やりたいかやりたくないかは別です。ただでさえ不快な相手と会うんですから、社内の人間くらいまともな人と一緒がいいですね」
「俺は君の中でまともだと判定されているのか。光栄だな」
「職務中に飲酒をする人と比べたらまだいい方だと思います」
「それはそうかもしれないな」
肩を落とし、皮肉るような微笑を浮かべた狩谷はPCを操作した。クリックとキーボードを静かに動かし、モニターに向けていた目を再度ミオに向ける。
「申請の許可は出した。カードはこちらで持っていくよ」
「ありがとうございます。それじゃあ私は、よろしくお願いします」
ヒメは背を向け、自身にデスクに戻ろうとした。その時
「あ、そうそう」
狩谷が、どこか白々しく呼び留めた。
「なんでしょうか」
「鳳さんね、今日、グリーングローブ市に行ってるそうだ」
「だからなんですか」
「君は行かなくていいのか? 視察も必要だろう」
「このコンペの後に向かわせてもらいます。今は、そんな事をしている場合じゃありません」
そう言い切ると、ヒメは今度こそ自身のデスクに戻っていった。その足取りは美しかったが粗く、怒りの感情が足音に現れ、周りに棘を巻いているようだった。
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