到着

 川垣町川垣はグリーングローブ市随一の集落である。

 人口はおよそ千二百となっているが、山間部であるため居住区は点在しており、幾つもある小さな区画に少人数の世帯が入り込んでいるといった構造となっている。が、例外もあった。それがミオ達が向かっている鮎川である。

 鮎川は平坦な地形が続いているため家屋や畑が多く、市内に三店しかないコンビニと、二店しかないスーパーが建てられている中心地だった。各集落の中間に位置する立地も相まって比較的人の出入りがあり、一個の町として認識出る程度には栄えているのだが、鮎川へは山道を経由しなくてはならない。この山道が、大きな鬼門なのである。





「……」


「大丈夫ですか伊達さん」


「……」




 ミオが呼びかけるも伊達に返事はない。青い顔と虚ろな瞳が、声を出す余裕すらない事を物語っている。

 彼は数十分ビニール袋を口元に準備し、いつでも粗相ができる状態になっていた。つい先程まで喫茶店で大盛のカレーを頬ぼっていたのが嘘のように焦燥しきってしまっている。車酔いだ。伊達は山道で車酔いとなってしまったのだ。硬いサスペンションから伝わる容赦のない振動が胃を揺らし内容物を攪拌すると、吐き気、頭痛、手足の痺れに見舞われ動く事もままならなくなってしまう。この道を通る者は直前に食べたものなどすぐに吐き出してしまって、酷く後悔するのだ。




「あ、水は飲まない方がいいですよ。呑み込めなくって吐き出しちゃいますから」


「……」



 ドリンクホルダーに置いたミネラルウォーターに伸ばした手を引っ込め、伊達は再び硬直。幸いにして乗客は二人だけであり誰に憚る事なく窓を開けていられるわけだが焼け石に水であり、湿った土や木々の香りも胃のむかつきにかき消されてしまうのである。



「あ、トンネルですね。窓閉めますよ」


「……」


「このトンネル抜けたらもうすぐですからね。あと少し、頑張ってください」


「……」



 トンネルに突入。ミオの言う通り、ここを抜ければ川垣の中心地、鮎川まで目と鼻の先となっていて、もう少し我慢すれば醜態を晒さずとも済むのだが、土地勘のない伊達からすれば気休めに聞こえてしまうというもの。それどころか、自分を落ち着けるため虚偽を言っていると勘ぐり、逆に精神を擦り減らしてしまったかもしれない。その思考の乱れが、脳裏に浮かぶ懐疑心が、ピンと張った緊張の糸を揺さぶり、伊達の唇が小刻みに震え始め微動に開閉を始めた。前兆、逆流の気配。喉元までせりあがっている吐瀉物の影が見える。車窓は閉ざされ景色は暗黒と、オレンジのライト。遠方を眺め気を紛らわす事もできず、走馬灯のように、されど永遠のように過行く残光を追いかけるだけ。いつ終わるかも知れない、長い長い道のりの中、伊達の臨界点は限界の所まできている。いつ出すのか、ぶちまけるのか。小さな体躯で一分一秒を耐え、社会的地位と自己の尊厳を守らんとする姿は感動的ですらあった。迎える佳境、クライマックス。結末は大団円かトラジティか。「間もなく鮎川」トンネルを通過し流れるアナウンス。ミオの言葉が真実だと分かった伊達は真一文字に唇結び目を閉じる。研ぎ澄ませる集中。既に死に体であったが精神力で補おうとしているのだろう。減速するバスはガタゴトと揺れながらハンドルを切り本道を逸れ、停車。白と緑のマークには鮎川の文字。小さく簡素で、寂れた待合室が置かれた停留所が、伊達を迎えたのだった。



「大丈夫ですか? 立てます?」


「……」



 立ち上がり、ゆっくりとよろめきながら歩きだす伊達。依然手にはビニール袋。降りるまでがバス。油断は即死を意味する。



「あ、お客さん、お金……」


 発生するアクシデント。支払いを忘れていたのだ。伊達は歩を止め財布を出そうと試みるもビニール袋を手放す事ができない。今無用な動きをすれば確実に終わる。



「あ、私が払いますから。伊達さん。早く、外に行って」



 ミオに救われ、伊達はようやくバスのステップを降り外へと出た。Congratulation.無人の野に喝采はないが、やりきったという結果は残った。伊達は見事、バスの衛生環境と尊厳を守り切ったのだ。これだけの偉業を成し遂げたわけであるから、直後に待合室の裏に行き、大変聞き苦しい音を立てた事は不問となろう。






「お疲れ様です。どうぞ、お水飲んでください」


「……」



 伊達は無言で水を受け取って口に含み、そのまま影に吐き出してくたびれたベンチに座った。まるでラウンドの終わったボクサーだ。すっかりとグロッキーとなっている。



「わざと黙っていたんですね」



 第一声はミオを非難するものだった。

 伊達は、彼女がこうなる事を知っていたと理解したのだ。



「ごめんなさい。騙すつもりはなかったんだけど、戸田さんに言われてるんですよ。“初めてここに来る人間には、めい一杯飯を食わせてやりなさい”って」


「……趣味悪いですね」


「違うんです。これにはちゃんと意味があるんですよ」


「意味」


「はい、世の中、こんな目に遭わないとたどり着けない場所があると身を以て知る事が大切だって、戸田さんが言っていました。私も最初、伊達さんと同じようになっちゃったんですけど、その言葉を聞いて納得したんです。だから、心苦しいですが私も戸田さんに倣って今回洗礼をさせてもらったというわけです」


「……大変素晴らしい教訓だと思いますが、今の僕には受け入れられません」



 そう呟き項垂れる伊達は水を片手にしばらく動かなかった。風に漂い嘔吐物の臭いが辺りに漂う。ここはグリーングローブ市川垣町鮎川。豊かな自然が残る僻地である。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る