コンペ3

「さぁ、手早く掃除だけして、作業に取り掛かりましょう」


「かしこまりました」



 開始された第一会議室の清掃活動。ミオが整理し、伊達がゴミ袋に入れて捨てに行くというシステムが自然と完成され合理的に進んでいく。利益の発生しない労働が行われていると役職を持つ人間が知れば渋い顔をするだろうし、ややもすれば「ちょっと」と止めに入るかもしれないがミオは別であった。

 直属の上司は戸田である。放任主義である彼が部下の一挙手一投足にあれこれ口を出す事は基本的にない。あったとしても、彼の上司にあたる人間に注意されて仕方なく、形だけの叱責に留めるという場合がほとんどである。また、彼に限らず他の部署の管理職でもミオの力を借りた経験が多分にある事から口出すような真似はしない。普段、部署に関係なく数字を上げている彼女についてとやかくいう事はできないのだ。

 その代わり、やはり役職を持たない人間から不当な陰口を叩かれるのであった。掃除中、後ろ指を指しミオをクスクスと笑う人間がいた。聞こえてくる声はいずれも嘲笑的である。「あれ、追い出されたらしいよ」「岩永さんにやられたんだって」などといった歪曲された噂話が俄かに流れ出し、ところかまわず囁かれていたのだ。

 この噂を伊達は耳にする。ゴミを捨てに行く途中、嫌でも耳に入る声量で聞こえるミオに関するある事ない事。内容は事実無根であり、彼女を著しく貶めるものであったが、噂を流している連中にとっては事実などどうでもよく、醜く見える人間を悪し様に評せればよかった。彼ら、彼女らは誰しもミオよりも劣っている事から、彼女を馬鹿にできるチャンスがあれば決して逃しはしない。ここぞとばかりに論っては、さも自分達の意見が正しいような態度を取るのだ。本来そのような下等な行為は成人するまでに卒業するはずであるが、どうしてかこの企業においては歳不相応な慣わしが蔓延っている。伊達はこうした風習において辟易としていたが、彼の性格を考えると悪評を拡散している人間に対して食って掛かる事はできなかった。それどころか……




「おい。ゴミ捨てなんてしてるのか」



 伊達を呼び止める声。彼と同期の男である。



「あぁ、ちょっとね」


「大変だよなお前も。あのブサイクと無理やり組まされてるんだろ? なんかプレゼンの役も下ろされたらしいじゃん」


「え……あぁ……」



 歯切れ悪く曖昧な返事をする伊達。争いを嫌う彼は、他人の言動を否定する事ができない。



「でもスッキリしたんじゃない? あいつ岩永さんにやられたんだろ? いい気味だよ。なぁ」


「あぁ……」


「会議室追い出されて、コンペだのなんだの、往生際が悪いっての。お前も岩永さんのグループにつければよかったのにな。アレと同じ部署だからって、あんまりだよなぁ。しかもやってる事がゴミ捨てとか。金にもなんねー事やってどうすんのかね。同情するよ」


「うん……」


「なんかあったら言えよ。愚痴くらいは聞いてやるからさ」


「……分かった」


「それじゃ」


「……」




 恩人ともいえる人間の悪評を正面から受けても伊達は何も言えなかった。ただお茶を濁すように相槌を打ち、否定とも肯定ともつかないような反応を示す事しかできない。

 一般的な見方をすれば軟弱さを非難したくもなるが、彼とて良心が痛まないわけでもないらしい。その証拠に、ゴミ袋を持っている手が小さく震え続けている。

 伊達にとって争いとは一番に避けるものだった。簡単な討論でさえ、彼は尻込みし言いなりになる場面が目立つ。誰かの意見の反対を述べる事はできないし、誰かの機嫌を損ねる事も恐れている。伊達はどこまでも他人の気分に依存し、自主性を放棄していた。



「情けない」



 それは彼の口癖である。一人でいる時、気分が落ち込んでいる時、必ず彼はそう呟く。

 ビルの廊下、ゴミ置き場までまだ距離はある。進もうにも足が動かない。立ち止まって、固まる。その姿は、彼自身の人生を投影しているかの如く、停滞してしまっていた。これまでずっと他人の顔色を窺って生きてきた、自分の意見を少しも言えなかった、自分の進む道を決められなかった姿と同じであった。




「伊達さん」



 声が一つ。伊達の背後から聞こえた。ミオであった。いつの間にか、すぐ近くまで来ていたのだ。



「あ、すみません。どうなさいましたか」


「いえ、帰ってくるのが遅かったので様子見に。途中でビニールが破れたりしたかもしれないなと思って」



 ミオの笑顔が突き刺さり、伊達は小さくよろめいた。先に悪意を向けられていた、自分が庇えなかった人間が目の前で笑っているのだ。堪えないはずがない。



「大丈夫ですか? まだ風邪が治ってなかったりします?」


「いえ……」



 必死に声を絞り掠れた返事をする伊達だったがどう見ても異常であった。しかしそうなった原因が良心の呵責と自己嫌悪であると誰が分かろうか。心の傷は本人にしか分からないし、誰かに伝えたところで癒えるわけでもない。今日に限らず、彼はずっと自身の惰弱さと軽薄さに苦しんでいた。


「早退しますか? 今日の所は掃除だけにして、明日から頑張る問う形でもいいと思うのですが」


「……いえ、すみません。つまみ食いしたお菓子が喉に突っかかってしまって」



 苦しんでいたからこそ、人に弱みを見せるわけにはいかなかった。真実を語るわけにはいかなかった。もっと傷ついてしまうと、思っているから。



「あぁ、なんだ。心配して損しちゃった」


「すみません。もう大丈夫です。ゴミ捨ててきます」


「うん、お願いしますね」


「はい。任せてください」



 結局伊達は、その場凌ぎの嘘を吐いて誤魔化す道を選んだ。それが、自身の心さえ裏切っていると知りながら。

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