第2話 誰に届くこともない走馬灯

足音が遠ざかり、聞こえなくなると同時に檻の隅に身を寄せていたユリとフラムの二匹は盛られた餌の匂いを嗅ぎ、もさもさと食べ始めた。

そんな様子を気にかけることも無く、私の双眸は開いたままの扉に釘付けだった。


夜になり、豚は初めて檻の外の世界へと飛び出した。

満天の星空の下を空舞う鳥と共に、一匹の豚が駆けていた。

その豚は家畜であった。

されど、この瞬間だけは誰よりも自由だった。



私は、息をきらしながら小高い丘を登る。

夜風が私の顔に吹き付け目を瞑る。

風が止み、そして、目を開ける。

雲間から降り注ぐ月明かりは不規則に波打つ草原を照らし出し、遥か先この世の果てまで延びるかのように続く大地がそこにはあった。

心が震わされた。

この日初めて私は、今まで生きていた世界の狭さを、檻の外、世界の広さを知った。

アンソニーは何も知らない内に死んでしまった、という事実に虚しさと悲しさと少しばかりの怒りが胸のうちに火を灯した。


散策を終え、私は檻の近くまで戻り、アンソニーの微かな匂いを辿った。

すると、建物の不用心にも空いたままの扉を見つけることができた。

扉をそろりと潜ると次第に濃くなる香りに私は近づいていることを確信しつつ、建物の中にいるであろうニンゲンに気づかれない様、慎重に歩を進めた。


そこで私は見つけた。見てしまった。

濃すぎる彼の匂いだけを纏う、顔も皮もない、豚の肉塊アンソニーを。

余りに惨たらしい現実に、目の前が瞬いた。

後ずさった拍子に私は何かにぶつかり、それは後背で大きな音を立てて散らばったようだが、私は暫くその場から動くことすらできなかった。

すると、小さな子供を抱えたニンゲンが来てしまった。

そのニンゲンは、私を見るなりため息を小さく吐いた。

「ハルトのやつ、鍵を締め忘れたな。まったく、陛下から下賜された豚が逃げたらどうするんだ」

そう呟くなり私の首根っこを掴み、その足で檻の中へと投げ込んだ。

ユリとフラムは餌を食べ終え、穏やかに眠っていたようだ。

私は投げ込まれた衝撃で正気へと戻ることができた。

そしてゆったりと去来した激情を噛みしめるように、私達同胞の末路に静かに鳴いた。

その日から今日に至るまで、一度たりとも檻の扉が空いたままという日は来なかった。



そして、今、私はその生を終わらせようとしている。


今朝、再び同胞の鳴く声によって起こされた。

嫌が応にも、アンソニーを想起させられた私は、何事かと声のする方を見るとニンゲンが曳く縄を鼻にかけられたフラムが、わけも分からず鳴きながら檻から引きずり出されているところだった。

私はフラムを追いかけようと駆け出したその時、鼻を締め付ける強烈な痛みと共に、歩みとは逆に頭を引かれ、そこで理解させられた。

目を覚ました時には既にフラム同様に、私の鼻にも縄がかけられていたのだと。


私とフラムの二匹は二人のニンゲンに檻から引きずり出され、行き着いた先はいつかにアンソニーの亡骸を見た部屋であった。

既にアンソニーの匂いも姿もなくなっていたが部屋からは、禍々しい程に鉄の香りがした。


二人の内、年老いた方のニンゲンが恐ろしくも美しい手際で二匹の前足二本、後ろ足二本を縛り上げると私達を対面させるかのように、床へ横たわらせた。


大きな鎌をもつ年老いたニンゲンが若いニンゲンをフラムの上に跨がらせると、首の下に盆を置いた。

「まず今から手本を見せよう。その後に、もう一匹の方は、ハルトに締めてもらうからな。よく見ておくように」

「わかりました!」

若いニンゲンは、少し緊張した面持ちでされど笑顔ではっきりと答えた。


フラムは些か落ち着いていた。

私はやめてくれと、思いながら叫んだ。

勿論そんな思いはニンゲンに伝わる訳などなかった、今までもそうだったように。

年老いたニンゲンは「うるさいな」と小さく呟くと、両手に持つ鎌を力いっぱいに振り下ろした。


ダンという鈍い音と共にフラムの首は転がった。

私の眼前は、円らな瞳を濁らせた頭と、別れた体から溢れ出す鮮血とで埋め尽くされていった。

しかし断頭された後になってからその死から抗うかの様にフラムの胴体は藻掻き出した。

二人のニンゲンが暴れる胴体を抑え、最早ピクリとも動かなくなった後、年老いたニンゲンは、ふぅっと息を吐くと今度は慣れた手付きでフラムの皮を剥ぎ取り胴体を肉塊へと変えていった。

途中途中、年老いたニンゲンは若いニンゲンに、語りかけながら、彼ら二人は笑顔でその所業をまるで私に見せつけるかのように肉塊を解体していった。


私は、声なき声を上げながら思った。

何故だ、何故なんだと、フラムがアンソニーが一体全体何をしたというのだ。

与えられた餌を食べ眠るだけの日々を送っていたフラムを殺し、それだけでは飽き足らず皮を剥ぎ、体をバラバラにする。

部屋の匂いから察するに、過去にも同胞を殺し、解体してきたのであろう。

私達は生まれてきただけだというのに、何の恨みがあってこんな凄惨たる殺し方をするのだと。

その疑念に答えるかの様に、肉塊を見る若いニンゲンは呟いた。


「美味しそう――」


そこで私は察する。

私達がこの世に生を受けた理由を。

なぜ今まで生かされていたのかを。

豚という種族の末路を。

だがしかし、そんな事を知ったところで最早どうにもならないのだ。

振り上げられた鎌を見る。

あぁ、この身を焦がし尽くさんと燃え滾るこの憎悪も、私の死と共に消え去るのだ。


豚は自分の無力さに、命運に嘆き絶叫した。

死の間際に、禍々しすぎる祈りを込めて。

そうして、この世から一匹の豚がいなくなった。

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復讐の豚 ―ニンゲンに復讐を誓った豚、ニンゲンに転生す― @tendesu

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