第15話

断章 「忘れ去られた物語」

 窓のない実験室に、円柱形の水槽が等間隔で並んでいる。その隙間を踊るように軽快な足取りで進む少女は、満足そうに小さなガラスケースを抱えていた。ぺたり、ぺたりと素足の足裏がリネリウムの床を叩く。生成りのワンピースの裾が風をはらんで揺れて、少女の長い金髪を際立たせている。

 少女は実家室の最奥まで進むと、真新しい水槽の前で足を止めた。ほのかな光源に照らされた水中にはまだ何も沈んでいない。少女はガラスケースを開き、爪先立ちになりながらその中身を水槽の中へと落とす。

 こぽ、と小さな泡とともに何かが水槽に沈む。それは紛れもなく、人間の脳そのものだった。


 少女が愛おしそうに、まるで恋人と手を合わせるようないじらしさで触れたその水槽には、“財前ユズキ”というネームプレートが掲げられている。


 「お疲れ様。おかえりなさい。辛かったね。苦しかったね。悲しかったね。でも、もう、大丈夫なの」

 少女は笑う。返答する筈もない脳を相手に、それでも芝居がかった口調で語りかけ続けている。


 「終わらない夢をみましょう。誰も知らない夢を。みんなが忘れた夢を。私たちの前線都市を。私たちの物語を。そのために私がいるのだもの。終わらせたりしないわ。大丈夫――外敵が存在する限り、前線都市は終わらない」


 すると、彼女の言葉に応じるように魔力が水槽内を満たし始めた。それは特殊な溶液と混じり合い、水槽の下部に接続されたケーブルを伝って流れていく。

 いくつもの水槽から伸びたケーブルはやがてひとつに束ねられ、その先で不恰好な怪物を形作っていく。

それは魔術師達が、あるいは人間達が、ただ一言『外敵』と呼称する―――


 「終わらない夢を見ましょう。みんなでいっしょに。ずっと、ずっとよ。ねぇ、そうでしょう?あなたがそう望んだのだもの。私は必ず叶えてみせる」

 少女はワンピースの胸元を両手で握り、小さな声で囁いた。まるで、自分自身に言い聞かせるように。


 その少女は、かつて重峰イノリと呼ばれていた。

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前線都市 あふたーのーと @After_Notes

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