第21話 サンロクのママと洗脳

朝、緊張して7時に起きてしまった。

1DKのボロアパート、風呂場には洗濯機が鎮座している、俺はその横を猫のようにするりと通り抜け、狭い狭いシャワールームに入った。体育座りでしか入浴できない浴槽は1度使って死にたくなってからもう使っていない。熱いシャワーで身を清めた。そうしろと、ママから言われているからだ。ママは今日10時に店に来る。そしてバイクのリアシートにのり、アシカリベツまで送り届ける。それだけの簡単な仕事だ。なのになぜこんなに緊張しているのか。狭い浴槽のへりに腰かけシャンプーで髪を泡立てながら考えた。いつもより、楽な仕事のはずだ。ヤクザやシャブの絡まない、ただ盲目のばあさんを50㎞ほど乗せるだけ。うん、それだけなのだ。


シャワールームを出て、再び洗濯機様の横を通り、乾燥したバスタオルを手に取る。水分はすぐにバスタオルに吸い取られ、俺は冷蔵庫からペットボトルに入った水を飲む。ババアの持ってきた水だ。今日は食事をとれない。水もこれしか飲んではいけない。一体なんなんだ・・・


おとなしく命令を聞いている自分を笑いながら、これまたババアの言いつけ通りクリーニングに出したスラックスとYシャツに着替える。スニーカーとジャケットだけは洗えなかった「ま、それぐらいはイイだろ」とのことだ。フン。


出勤用のゲタバイク、ヤマハメイト、に乗ってEST!まで行く。GSRの後ろに止めてビルの階段を下りる。EST!のシャッターを上げ、中に入った。電気をつけるとババアがすでにいた。


「遅いよ」とババアが言う。

「妖怪か」と俺は言った。


「さんざまよったけど、やっぱりこれだけは伝えておきたくてね、早めに来ちまったが、つきそいの者がシャッターまで閉めちまいやがってね、驚かして悪かった」


鍵はどうしたのだ?と聞こうとしたがやめた。ババアはジジイの知り合いなのだ、しかも今回はクライアントと客関係でもある、そしてジジイはここのオーナーで所有者なのだ。鍵なんてどうにでもなるだろうし、むしろ俺の持ってる鍵がスペアなのだ。


「いいよ、別に、コーヒーは・・・飲めないのか」

「いや、あの水で入れてくれ」

「あの水以外口に入れたらダメなんだろ?」

「そう堅いこと言うんじゃないよ」

「あんたが言ったんだ、あんたが」

「そうだったかい?まあいいさ、ブレンド1つ」


俺はコーヒーメーカーに安豆をひいて入れながら聞いた。


「で、伝えたいことって?」

「まず話しておかなきゃなんないことがある」しわだらけの、ごつごつとした長い指をピンと立ててババアが話し出す。

「洗脳について、あんたは知らなくちゃいけない」

「洗脳」

「そうだ、洗脳っていっても色んなものがある、ブレインウォッシュを直訳しただけだからね、いま重要なのは洗脳ってのは強制的に人を支配して動かすってことだね」


「うん」


それからママは洗脳のテクニック、マインドコントロールについて、リフトンの8つの要素、宗教や会社が行っている洗脳などなどを話していた。


俺は淹れたコーヒーをママの手元までもっていき「どうぞ」と言った。ママはまるで目が見えているかのようにそれを手に取って飲んだ。


「ん、コーヒーは上手いね」

「ども」

「で、問題はあんたにかかってる洗脳なんだけどね」


コーヒーを飲む手が止まってしまった。


「あんたにかかってる洗脳のことさ、それを解かないといけないんだ、かけたのはあいつ、マスター、あんたの飼い主だよ、違うよ、アタシがかけるようなのとは違う、洗脳のタイプが違う、あんたにかかってるのは、あんたを絶望から救い出し、生きる活力をもたらしてくれたものだ、だから悪いものじゃない、だけど同時に限界を決め、縛っている、が、今回の仕事にゃちと邪魔くさいのさ。あんたの、ホントの力が欲しい」


ババアは話し続ける。


「レースで負けて癈人になるまで落ち込んだんだろ?そんなのはバカか天才のしょうこさね。普通は結果を飲み込み、現実として受け止める。だけど、バカでも天才でもいい、使うべき力を使うべき時と所で正しく使うべきだよ」


何を言っているのだ?


「あんた、島木を見つけたんだって?うん、誰もできなかったんだよ。誰も期待していなかった。マスターがあんたを拾ってきたのも、ひょっとしたら…ぐらいの気持ちだったろうさ。だめでもともと、見つからなくても不良物件の管理をさせればいい・・それはおそわってなかったかい?そうさ、あんたは島木のために拾われたのさ」


俺はもう用済みってこと?


「用済み?そうかもしれないね。この店?あんた、この不浄の場所にこだわってんのかい?それともあいつに義理人情でもかんじてんのかい?」


仕事だ、今の俺の仕事はこれ。


「で、食えているのかい?」


なんとかね


「バイクレースにはもう出ないのかい?」


金と時間がないんだ


「ならもっと金がいいか、時間がかからない仕事に変えたらどうだい?」


なりゆきでね、仕事ってそうゆうもんだろ


「本当にやりたいことを我慢してまでやることかい?」


・・・バイクのレースでは負けたんだ


「次はうまくいく、もっと速くなれる」


あんたにはわからんよ、バイクは素人だろ?


「わかるよ、あんたにかかっている制約が見える、それはあんたにはわからない」


はは・・じゃあ、どうすればいいんだ?


「もうね、あと1つだけなんだ、これを伝えたらあんたは自由になれる」


なんだい?


「マスター、あいつから預かったんだ、これをね」


ババアは封筒を1枚とりだした。それを手に取り広げる。



    解雇通知書

              」



なるほど、俺は自由になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る