崩れども、消えず

 燃えている。

 炎が煌々と夜を照らす。

 費やした時間は瓦礫がれきと灰に。

 積み重ねた想いは泡沫ほうまつの如く。


「…………」


 玉藻は地面にへたり込んだまま、呆然と都の惨状を眺めていた。

 先程まで共に戦っていた巫女――確か冷良と言ったか。彼女はここにいない、はぐれた仲間を探しに、氷の鎧と吹雪を纏って火の海と化した都に飛び込んでいったからだ。

 去り際に彼女は「あなたはどうするんですか?」と問いかけてきたが、玉藻は何も返事をしなかった。

 やるべきこと自体は明確だ。この先どうするにせよ、まずは燃え盛る炎を鎮火しなければ何も始まらない。

 分かっている、分かってはいる。

 だというのに、思考は泥をかぶったように重く、五感は意識の表層を滑り抜けるばかり。

 どうしてこうなったのだろう。鈍くなった意識を占めているのはそんな疑問。

 多くの妖を食わせる仕組みを作った。生産者である人間が割を食う形ではあったものの、最低限の暮らしは維持できるよう目を光らせていた。

 崇徳に酒呑童子という同格の妖まで集まって来たのには頭を痛めたが、上手いこと誘導して大事に至らないようにしてきた。何より、外からの干渉に対する牽制として大いに役立ってくれたのは予想外の収穫だ。

 客観的に見ても、妖の都は多少の歪さこそ抱えていたものの、組織としては順調に回っていただろう。個で動くのが基本の妖が大多数であることを考えればなおさらだ。

 だが、結局はご覧のありさま。

 陽毬――数少ない心を許せる相手の死に晴茂を重ねてしまい、激昂して、守るべきものを巻き込んだ。

 振り撒いたのは幸福ではなく不幸。

 かつてと同じ。人の破滅を誘い、わらい、愉悦に浸っていた毒婦。

 これまでの時間は無駄だったのだと、お前の本質は決して変わらないのだと、運命に嘲笑あざわらわれている気がした。

 だから、もう何も出来ない。もう一度同じことをやる気力など残っていないから。そして全てを捨て、悪逆をたのしむかつての自分に戻るには、積み重ねた想いがあまりに多すぎた。

 何にもなれない、空っぽの抜け殻。今の玉藻を示す単語としてはそれが相応しい。




 炎はそのまま三日三晩、燃やす物がなくなるまで妖の都を蹂躙し続けた。

 後に残ったのは、『凄惨』以外の単語が見つからない痛々しい光景。曲がりなりにも都として栄えていた名残は欠片もない。


「……埋葬せな」


 亡骸が野ざらしにされることの惨さくらいは玉藻も理解していた。

 のろのろと歩いて、瓦礫に埋もれた誰かの亡骸を見つける。

 神通力で瓦礫をどけようとしたが、崇徳との戦いで消耗し過ぎたらしく、瓦礫はぴくりとも動かない。仕方なく素手で瓦礫に触れると、触れた手に痛みが走った。

 当然だ。都を完膚かんぷなきまでに蹂躙した炎はつい先程鎮火したばかり、燃えた物はまだかなりの熱を帯びている。

 だが、玉藻は構わず作業を続ける。今は痛みを含めた全ての感覚が遠く、火傷を気にするのも億劫おっくうだったから。

 どかした瓦礫が地面に倒れ、静寂を破る大きな音が周囲に響く。するとそれを聞きつけたのか、大勢の足音が慌ただしく近付いてきた。


「いた! 玉藻様!」


 先頭を騒がしく走るのは冷良だ。後ろに続く上司や同僚たちの姿を見るに、どうやら目的は首尾よく果たせたらしい。今は火災が収まったのを見計らって、都の責任者を探している最中だったというところか。

 冷良は手早く状況を確認し、目ざとく玉藻の火傷に気付くと血相を変えて駆け寄って来た。


「うわっ!? 酷い火傷……っ」


 そのまま冷気で応急処置してくれる本人には悪いが、玉藻の意識は火傷になど欠片も向いていなかった。

 彼女の意識を引き寄せるのは、巫女達の後ろに続く大勢の妖たち。誰も彼も無傷ではないが、確かに生きている。

 救いようもないのは、生存者がいた事実に自分がどんな感情を抱けばいいのか分かっていないことだろう。

 統治者として考えるならば、生存者の存在は当然喜ばしい。全滅したと思っていたのだからなおさらだ。

 ただしそれは見方を変えれば、彼らの面倒を見る責任が続くということ。今の玉藻には統治者を続ける気力など残っていないというのに。

 生存者たちの不安げな表情が、希望を求める視線が、今はわずらわしくてたまらない。逃げるように視線を落とした先では、おおよそを察している冷良が痛ましそうな表情を浮かべていた。

 不意に、無遠慮な何者かが背後から玉藻の肩に手を置く。

 馴れ馴れしい。不快感から振り払おうと視線を向けて――一瞬だけ呼吸を忘れる。

 長い農作業で荒れ、日に焼けた無骨な肌。何の変哲もない、ありふれた手相。

 けれど玉藻はこれを知っている。脳裏に深く刻まれた光景を。何十、何百年経とうとも決して色あせない思い出の一片を。

 恐る恐る、震えながら振り返る。

 いる筈のない人間が――そこにいた。


「……晴茂はるしげ?」


 ――遂に幻覚まで見るようになったか。

 彼女は知っている。現実は絵物語のようなご都合主義ではなく、福も禍もただ因果によって回っていることを。

 だが、傍にいる冷良や他の者たちも、目の前にいる人影に訝しげな視線を向けている。少なくとも玉藻の妄想という線はなくなった。


「また霊脈から……でも、何で農家さん?」


 冷良の口振りは、人物についてはともかく、現象については何か心当たりがあるかのよう。

 では何か、目の前にいる人物は、妄想でも幻覚でもなく、本当に晴茂であると?

 いやいやそんなまさか、まだ何かしらのまやかしである可能性の方が高い。少なくとも死んだ晴茂本人ではない。

 ない……筈なのに――


『お前を殺さなくて良かった』


 たった一言。たった一言で、意識が勝手に反応してしまう。身体のあらゆる感覚が過去に戻ってしまう。

 晴茂と二人、ぼろっちいあばら屋で暮らしていた、あの頃に。

「……何やねん、自分で殺そうとした癖に、失敗して良かった? あんた昔っからそうやな、頓珍漢とんちんかんなことばっかり言うてからに。うちがどれだけ振り回されたか……っ」


 一度溢れ出した言葉は止まらない。勢いに後押しされて、せき止めようとしていた感情も堤防を押し破る。


「ほんっまに、何やねん!」


 まるで悲鳴のようだと、自分でも思わずにはいられなかった。長年の恨みつらみを吐き出したつもりなのに、一体どうしたことだろう?

 いずれにせよ、精魂尽き果てた身で大声を出すのは流石に疲れる。息切れで二の句を継げなくなると、機会を見計らっていたように晴茂が片膝を付く。


『色々あってな、今ここにいる俺は、お前さんが今日までやってきたことを知ってる。都を作るなんて凄いじゃないか。あの時お前さんを殺してたら、こんな未来はやって来なかった』


 知っているという言葉に嘘はないのだろう。玉藻が妖の都を作り上げたことは、あの日死んだ晴茂が本来知りえないことだ。


『多分、俺が原因だろ? 本来のお前さんは、集団の頭なんて柄じゃない筈だ』


 唐変木とうへんぼくの癖に、そんな所ばかり察しがいい。

 悪辣あくらつだった狐は、妖を助けた晴茂の真似をして、妖を助けてみようと思った。

 けれどそれは決して、贖罪しょくざいの為ではない。神や人が作った刻印を勝手に押し付けられてたまるものか。

 彼女はただ、何かを変えたかった。今までの自分と違うという証を立てたかった。その証――具体的な終点が何なのか自分でも分からないまま、がむしゃらに進み続けた。


『だから、俺は誇りに思うよ。俺の影響を受けたお玉が、色んな奴に手を伸ばして、ここまでの都を作り上げた。ろくでもない人生だったけど、俺はこの為に生きてきたんだって思えた』


 今でも終点の正体は曖昧なままだ。あるいは、そんなものが本当に存在するのかすら。

 けれど今確かに、彼女は報われた気がした。ここまで頑張って来て良かったと思えた。

 晴茂に抱きしめられる。夢幻ではありえない温もりが、張り詰めた心へゆっくりと染み渡る。


『ありがとう。俺と出会ってくれて、本当にありがとう!』


 もう無理だ。これ以上は張りぼての外面すら保てそうにない。弱気という名の本音が漏れ出てしまう。


「でも、うちは結局自分で都を壊してもうた……」

『それは……こう言っちゃ悪いが、仕方ないことだ。生きるってのは失敗と後悔の連続だ、俺だってそうだった。大事なのは今だ。ほら、お前の助けを必要としてる奴が大勢いる』


 晴茂が視線を移した先にいるのは、事情がさっぱり分からないまま成り行きを見守る生き残りたち。親しくしていた油揚げ屋の店員たちもいる。


『だから、もうちょっと頑張れ』


 直後、異変が起こった。

 普通の人間と遜色ない姿を保っていた晴茂の身体が、急に透け始めたのだ。

 晴茂はばつが悪そうに頭を掻く。


『あー……奇跡は長く続かないか』

「待ちいや晴茂! もしかしてこれで終わりなん!? まだ全然――」


 どうにか引き止めようと伸ばした手は晴茂を通り抜けて空を掴む。

 唖然とする玉藻に、晴茂は快活とした笑顔を向けた。


『じゃあなお玉。信じてるぞ、俺が惚れた女は強い女だって』

「は!? え!? ちょい晴茂! 今のもう一回――」


 台詞を最後まで口にする前に、晴茂は消えた。

 あっさりと。何の余韻も残さず。

 情緒じょうちょなんてあったものじゃない、あまりにあっさりとした幕切れだった。

 夢から覚めて、身体から力が抜けてしまった玉藻は、がっくりと肩を落とす。


「……何やねん。最後まで一方的に好き放題言いよって』


 玉藻の消沈ぶりがあまりに酷いからだろうか、ずっと傍で口を閉じていた冷良が気づかうような表情を浮かべている。


「玉藻様……」 

「なあ小娘、いや、冷良。うち、そんな落ち込んでるように見える?」

「はい、そう――あれ? 落ち込んでるというより……むしろちょっと怒ってるような?」


 怒っている。形容し難かった胸の内が、すとんと腑に落ちた。


「なあ冷良、酷いと思わへん? これまで散々気張って、全部崩れて泣いとる女にあの男、まだ気張れってのたまったんやで?」

「は、はあ……」


 冷良の表情が困惑しているのは、晴茂を責める台詞と態度が合っていないからかもしれない。

 実際のところ、怒っているのは本当である。あの能天気な笑顔に平手の一発でもかましてやりたいくらいには。

 けれど、今はやるべきことがある。


「――さて、待たせたなあんたら」


 玉藻は立ち上がって、成り行きを見守っていた生存者たちに顔を向けた。

 人のことは言えないだろうが、誰も彼も酷い顔をしている。都を立て続けに襲った異変で心身が疲弊しているのもあるだろうが、生活基盤が物理的に壊滅してしまったことによる不安が大きいだろう。放っておけば数日で野垂れ死にしてしまいそうだ。


「どいつもこいつも酷い顔やな。うちに何か言いたい奴もいそうや」


 別に詰問している訳ではない。被害の何割かは玉藻が与えたもの、むしろ全く恨んでいない方がおかしい。それに、晴茂との会話で見せた弱々しさに疑問を抱く者も多いだろう。自分たちはこの女に付いて行って大丈夫なのか? と。


「色々あった。崇徳は倒れ、酒呑童子は行方不明。都は壊滅、死者も多数。今まで静観を決め込んでた外の連中も、ここぞとばかりに茶々入れてくるかもしれんな」


 改めて並べてみると、先行きの暗さに辟易してくる。少なくとも、今までと同じ生活は望めまい。


「――けど、それがどうしたん?」


 それでも、玉藻は全てを一笑に付して捨てる。


「どうしても不安な奴はうちに付いてい。うちが守ったる」


 傲慢に、凛々しく、玉藻は示す。お前たちの主がここにいると。

 彼女は理解していた。生存者たちの望みが、しおらしい謝罪などではないことを。

 妖の都は力が全て。故にこそ、必要なのは絶対的な君臨者。変わらずに在る、妖の都の象徴。

 彼女は己の過ちを決して忘れない。だが、殊更ことさら表に出す必要はない。そうすれば刹那的な妖たちはいずれ不安を過去へ置き去りにし、目の前の平穏を謳歌おうかするようになる。

 それは傍から見れば脆く危うい幻想のようなものかもしれない。

 けれど玉藻が今日のことを覚えている限り、幻想は現実と何ら変わらない。

 初めに駆け寄ったのは油揚げ屋の店員たちだった。彼はまだ陽毬の死を知らない、玉藻共々試練はこれからだ。

 他の妖たちも一人、また一人と玉藻へと歩み寄っては、従順の意を示していく。

 ――今回、都を構成していた建物は殆どが瓦礫や灰となって消えた。

 それでも、妖の都は今確かにここに在る。そう思えた。

 ふと、視界の端に晴茂を見つけた気がしたが、視線を向けてみてもそこには誰もいない。単なる見間違いか、あるいは残していった相手が心配でもう一目だけ見にきたか。

まあ、どちらでもいい。今の心は晴れやかだ。

 ――玉藻前は天下の大妖怪、過ぎたことにいつまでもくよくよしないのだから。

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