玉藻前 二

 激しい大雨が降っていた。

 晴茂は家にいない。よりにもよってこんな日に村の集会があるのだという。運のないことだ。

 こんな大雨では農業に精を出すことも出来ない。いや、多少雨に濡れた程度で風邪をひくほどやわな身体ではないのだが、晴茂がやたらと心配するのだ。あの男は玉藻が妖であることをちゃんと認識しているのだろうか?

 やるべきことも話し相手もおらず、暇を持て余す。こんなことはいつぶりだろうか?

 元より暇を嫌う玉藻は、しばらく床を転がってからうがーっと吠えて立ち上がった。


「……夕餉ゆうげの準備でもしとこか」


 晴茂が家を出た時は晴れていたので傘は置きっぱなし、帰って来た時はずぶ濡れだろう。身体の芯まで冷え切った人間を温かい食事で迎える程度の優しさは玉藻にもある。

 とんとんとんと小気味良い拍子で材料を切り分けていく。貴人として過ごしていた時は炊事の経験など一度もなかったが、今となっては慣れたものだ。

 不意に、家の外から足音が聞こえて来た。狐である玉藻の聴覚にとって、雨音に混ざる人間の足音を聞き分けることなど容易い。なので家の戸が急に開かれても特に驚きはしない。料理中なのでわざわざ出迎えてやることもしない。


「お帰り」

「……ああ、ただいま」


 声に覇気がない。やはり大雨でずぶ濡れになったのは堪えたか。

 晴茂は奥でごそごそしたと思ったら、玉藻の後ろまで寄って来る。


「なあ、お玉」

「夕餉はもう少しかかるさかい、あんたはとりあえず頭拭いて着替えて大人しく待っとき」

「――玉藻前って知ってるか?」


 握っていた包丁を取り落とし、大きな音を立てた。

 手足の存在を遠く感じる。心臓が早鐘を打ち、胸の奥からは言い知れぬ衝動のようなものが込み上げてくる。玉藻はこの感覚を何と呼ぶのが分からなかった。

 背を向けたまま無言でいるのは不自然だ。だというのに全身は金縛りを受けたように鈍い。軋む人形を無理やり動かすようにして、どうにか振り返る。

 晴茂は玉藻に一度も見せたことのない表情を浮かべていた。けれど何故か見覚えがあると記憶を思い返せば、何のことはない、玉藻がかつて嵌めた者たちと同じなのだ。当たり前だと思っていた平穏が無残に崩れ去る時、人間たちは決まってこんな表情を浮かべていた。


「……ああ、やっぱりお前のことだったのか」


 今更否定することに意味はないだろう。沈黙は時に口よりも多くのことを伝える。


「正直に答えてくれ。あちこちの国を滅ぼしたって噂は本当なのか?」

「…………」


 恐らく、否定すれば晴茂は信じてくれる――そういうことにしてくれる。

 簡単なことだ、玉藻にとって、嘘をつくのは呼吸と同じくらい自然なことなのだから。

 だというのに、いざ喋ろうとしても口が上手く動かない。嘘を滑らせようとする度に、最初の『正直に答えてくれ』という晴茂の願いが頭をよぎる。

 そして開き直って全てを白状することもまた、何故か出来なかった。例え意味のないことだと分かっていたとしても。

 だから、無言。


「どうしてそんなことをしたんだ?」


 楽しかったから。


「直接人を殺したことは?」


 ある。


「……何も言ってくれないのか」


 違う、言えることが何もないのだ。

 血塗られた過去は言い訳のしようもない事実。 


「う、うちは――っ」


 ただ、今の玉藻を満たすのは血肉と欲望だけではない。それだけはどうしても伝えたいのに、想いが上手く言語になってくれない。人間を自在に転がす弁舌が特技だったというのに、何てざまだ。

 晴茂がゆっくりと近付いて来た。腕を伸ばせば抱きしめられるような距離で、互いに向き合う。

 玉藻は逸れそうになる顔を、必死に晴茂の方へ固定した。言の葉を紡げないなら、せめて態度くらいは真摯しんしであろうと。瞳が揺らぐのも、微かに涙が滲むのも、今回ばかりは嘘ではない。

 晴茂は思い悩んでいる様子だった。苦渋の表情で何度も瞑目し、目の前にいる妖を推し量っている。

 やがてその両腕が流れるように玉藻へと伸びた。

 ――背中ではなく、腹に向かって。


「え……?」


 何よりも先にやって来たのは、腹の違和感。

 何が起こったのか咄嗟に認識出来ず視線を下げていけば、傍にいるのが当たり前だった男の手に、見慣れない刃物が握られていて。そこまで確認してようやく、玉藻は自分が晴茂に刺されたのを認識した。

 足から力が抜けて、その場にへたり込む。


「ごめん、ごめんなぁ……俺はお前さんのことを信じたい……過去がどんなだろうが、今のお前さんは悪い奴じゃないって……」


 目の前に雫が落ちる。

 見上げてみれば、晴茂は泣いていた。だいの大人の癖に全身を震わせ、口元を歪めて嗚咽おえつを漏らし、両目からは絶え間なく涙を垂れ流している。普段の快活さが嘘のように、その表情は悲哀で満たされていた。


「けど……俺は決めてるんだ……もう二度と、人を殺めた妖を野放しにしないって……」


 硬い決意の宣言、といった風ではない。むしろ逆、過去のごうに呑まれた罪人の懺悔ざんげ

 晴茂はしゃがみ込み、玉藻の頬を撫でる。大切な宝物を慈しむように優しく、丁寧に。


「俺は弱かった……他の選択肢はあった筈なのに、結局過去から逃げられなかった……弱くて卑怯な男だ……」


 惨めに、卑屈に、晴茂は己の弱さを吐露する。


「無念だよな、俺が憎いよな。けど安心してくれ、ちゃんと落とし前は付けるから」


 諦観していた玉藻の背筋を悪い予感が走り抜けた。

 訳も分からないままとにかく何か行動を起こそうとして、慣れない激痛に意識がかき乱される。

 そうして玉藻が手も足も出せない目の前で、晴茂は刃物を逆手に持ち換えて――そのまま自分の腹に深々と突き立てた。


「ぁ――」


 声にならない叫びが喉から漏れる。

 晴茂は玉藻の膝下に力なく倒れ込んだ。

 何故だ、何故こんなことになっている? 昨日までは何の変哲もない平凡な日々だったのに、どうして――


「……どうして……こうなったかなぁ……ごめん……ごめん……ごめん……」


 うわ言のように、何度もごめんという言葉が繰り返される。それも徐々に力を失っていき――やがて何も聞こえなくなる。

 最後に残されたのは、腹の激痛に弱々しくあえぐ玉藻だけだった。

 ………………。

 …………。

 ……。


「……ほんまに……馬鹿やなぁ……」


 雨音に混ざる小さな呟きが一つ。


「獣の生命力舐めたらあかんて……本気で殺そ思うなら、腹やなくて心臓刺さな……」


 血まみれの腹を押さえ、肩で息をする玉藻は誰が見ても満身創痍。

 だが、死んではいない。


「晴茂、晴茂」


 晴茂の身体を揺さぶる。

 返事はない。

 ただの人間にとって、腹の刺し傷は十分な致命傷になることを玉藻は知っている。

 こうして、玉藻だけが生き延びた。




 後の記憶はぼんやりしている。

 比較的暑い時期ということもあり、晴茂の遺体は二日も経たない内に腐り始めた。死臭を放ち、はえがたかり始めた彼を、玉藻は重傷の身体に鞭打って埋葬した。流石に手では無理なので、神通力を使って。もう神通力の使用を咎める者などいないのだから。

 人間の真似をして、一丁前に墓を作ってみる。とは言っても、名前を書いた木の板を刺しただけだが。

 すぐに後悔した。名を刻まれた墓を前にすると、昨日まで普通に会話していた相手が今は土の中だと実感してしまう。跡形もなく消えてくれた方が、まだ現実味は少なくて済んだのに。

 そもそも、どうして自分はこんなに呆然としているのか。ここに居座っていた目的は傷つけられた自尊心を取り戻す為。結果的にそれは叶わなくなったが、別に大したことではない。ちょっとした失敗の経験として、記憶の片隅に残る程度。傷が治ったらさっさとおさらばして、そこで終わる話なのだ。

 ただ、こんな疑問もある。最後に目的のことを考えていたのはいつだったか? 例えば昨日なんかはどんなことを考えていた? と。

 前者については……驚くことに思い出せない。

 後者については……少し難しい。強いて言うなら、特に何も考えていなかった。ただ漠然と、こんな日が明日も続くのだろうと根拠のない確信があって――不思議と悪い気分ではなかった。


「――あぁ、そうか」


 認めよう。

 自分は晴茂と共に過ごす日々を気に入っていた。自分に依存させると決意した相手に、逆に自分が依存していた。

 何故依存することになった? それもきっと、当初と逆。

 今になってようやく気付く。身近な宝の価値を認識しておくべきだった。終わりをもっと恐れるべきだった。

 晴茂の耳に玉藻という妖の噂が入らないよう気を付けていれば、あるいは早めに全てを打ち明けて話し合っていれば、何かが変わっていたかもしれないのに。

 全てはもう、後の祭。

 離したくなかった手は離れ、既に土の中。


「ふ……うぐ……」


 穴の開いた腹ではなく胸が、じくじくと痛む。同時に胸から顔に何かが込み上げてきて、視界が不明瞭になる。

 この感覚を玉藻は知らない。ただ、思い当たる節はある。人間たちがよく口にしていたその単語を当てはめようとして――途中で止めた。

 晴茂の死に際の言葉を思い出す。

 どうしてこうなった?

 理由などない。ただ、玉藻前が玉藻前であったから。人間をあざむあざむき、わらい、殺め、滅ぼした、稀代きだいの大悪党・白面はくめん金毛きんもう金毛きんもう九尾きゅうびの狐・玉藻前。

 玉藻前という悪者はいつものように不幸をばら撒いただけ。巻き込まれた哀れな被害者が、今回は晴茂だっただけのこと。

 よく考えろ。全ての元凶が、自らばら撒いた不幸を『悲しむ』? 

 そんなの、誰がどう考えても理屈に合わないではないか。


「ぐ……く、ふふ……」


 喉から漏れ出るのは嗚咽ではない。悲しみなどであってはならない。

 で、あるのならば。


「ふふ、あはははははははははははははははははは!」


 笑う。とにかく笑いを捻り出す。笑うしかない故に。

 過去に縛られ、望まぬ殺しをして、挙句の果てに自死した晴茂。

 因果応報という、当たり前のことわりを忘れた愚かな自分。

 そんな自分に振り回される世界。

 滑稽こっけい、全てが滑稽だ。

 滑稽で――もうどうでも良くなってしまった。




 玉藻は晴茂の家に居座り続けた。腹の傷を回復させる必要があるからだが、どちらかと言えば何もする気が起きなくなってしまったのが大きい。

 時々人間が様子を見にやって来る。毎回何やら騒いでいるが、一つも頭に入って来ない。物々しい連中に襲われた時には傷もかなり塞がっており、適当にあしらっていたら勝手に逃げていった。似たようなことを繰り返していたら、そういった連中も来なくなった。

 静かに、無意味に、時が過ぎていく。何度も陽が昇っては沈んでいるが、数えるのも億劫おっくうだ。

 傷が完全に癒えた頃には、村から人間がいなくなっていた。強力な妖に居座られ、放棄するしかないと判断したらしい。まあ、どうでもいいことだ。

 次に変化があったのは何日……いや、何週間か、何ヶ月か、あるいは何年か。近くの山で食料を調達する時を除き、日がな一日ただぼーっと空を眺めているだけなので、時間の感覚が曖昧だ。

 その日は一体の妖が迷い込んで来た。とはいえ、世間で恐れられる凶悪な妖の類ではない。他人を少し化かすことが出来る程度の幼い妖狐だ。

 妖狐はこっそり家に忍び込むつもりだったようだが、玉藻に見つかった瞬間びくりと身体を震わせる。


「安心しい、うちもこれや」


 狐の耳と尻尾を出して同族だと示すと、妖狐は安心したように溜息を吐いた。と思ったら、隣にやって来て何か言いたげにこちらを見上げ始める。

 そう間を置かずに響く、小さな腹の音。当然、玉藻のものではない。


「妖が甘えなや。自分の腹くらい自分で満たしぃ」


 冷たく突き放すが、妖狐は悲しそうに玉藻を見続ける。腹の音も時間を追うごとにどんどん大きくなっていき――


「……ああもう! やかましいなぁ!」


 根負けした玉藻は、家の中から燻製くんせいにして日持ちさせた肉を持ち出して放り投げた。

 途端、目を輝かせて燻製肉にかぶりつく妖狐。味も塩分も濃いので一気食いは辛いはずだが、意に介さず次々と胃に送り込んでいく。そうして欠片の肉も残さず完食した後で、味の濃さを思い出したように乾いた咳をする。


「……はぁ」


 どうせ乗りかかった船である。しかつらで溜息を吐いた玉藻は、神通力で水瓶の水を妖狐の口元へと運んだ。

 しばらく嬉しそうに水を舐めていた妖狐は、ようやくひと心地着いてから改めて玉藻の顔を凝視する。


『あの、あり……がと……』


 喋れることに驚きはしない。妖狐とはそんなものだ。


「満足したならさっさと帰ってくれはる? うちはしばらく一人でいたいねん」

『……どこに帰ればいい?』

「元いた場所は?」

『人間に追い出された……』

「何かしたん?」

『食べ物、一杯並んでた。くれるのかと思って取ったら怒りだして……』

「あー……」


 人間社会に疎い妖が時々やることだ。商売の概念すらよく理解していないから、人間から見たら頓珍漢とんちんかんなことをやってしまう。


「あんたが取ったんは売り物や。この……お金ちゅうものを渡さなあかんねん」


 懐から通貨を取り出して見せてやる。

 妖狐は通貨の臭いを嗅ぐが、よく分からないのか首を傾げた。


『お金……どうやって手に入れる?』

「色々や」

『色々って?』

「色々は色々や。はいもう終わり、いちいち説明してられへん」


 しっしっと手を振って追い払うが、妖狐は動かない。

 面倒なことになった。再び大きな溜息をつく玉藻だった。




 やはりというべきか、妖狐は居付いた。

 どれだけ口で言っても聞かないし、実力行使して晴茂の眠る場所を血で汚したくはない。

 結局、嫌々ながらも面倒を見る羽目に。

 更に、噂でも広がったのか数奇すうきな運命の巡り合わせというやつなのか、居場所をなくした妖が一人、また一人と集まっていき、気が付けば集落と呼んでも差し支えないほどの数に。

 自分は何をやっているんだろうと、玉藻は考える。そして、きっと晴茂を真似ているんだと結論付けた。奴ならきっとこうする。その想いによる行動が、晴茂の痕跡を感じさせてくれるような気がして。

 悪逆非道と恐れられた玉藻前が何たる様か。惨めであり、滑稽である――が、止めようとは思わなかった。

 振り撒いた不幸の分だけ、幸福を振り撒く。

 それでこそ、帳尻ちょうじりが合うというものだ。

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