玉藻前 一

 玉藻前という妖にとって、世界は箱庭のようなものだった。

 男も女も、人間は簡単に手のひらで踊る。それこそ人形のように。

 人間の童女というのは、人形遊びを好むものらしい。とある人間からそれを聞いた玉藻は成程と得心した。種族が違えども女が人形に惹かれるのは同じらしい。ただ、愛でる対象が作り物か生物かの違いというだけの話。

 彼女にとっては全てが人形遊び。つい先日城主をそそのかして国を滅ぼしたのも、単に気分がそういう方向へ転がっただけに過ぎない。

 いつの間にか九尾の狐という正体と共に悪名がとどろいていたが、それすらも彼女にとってはどうでも良かった。どの道、彼女をどうにか出来る者などいなかったのだから。

 色香で男をたぶらかして家に転がり込むのが常套手段じょうとうしゅだんの玉藻は、屋内で蝶よ花よと大事にされてあまり外を出歩かない生活を送るのが常だが、この日は今まで根倉ねぐらにしていた国が滅んだのを見届けたばかりであり、有り体に言えば根無し草という状態だった。

 とはいえ、狐である彼女は野で生きることなど苦ではない。次の獲物はどこにしようかと、鼻歌でも歌いながら久しぶりの一人旅を満喫しているような気分だった。

 そんな玉藻の目に一軒のあばら家が見えてきた。


「ふむ……」


 空を見上げれば既に陽は傾いて夕餉時ゆうげどき。宿にするには丁度良い。野宿も別に平気だが、それはそれ、屋根があるに越したことはないのである。


「もし? どなたかいらっしゃいませんか?」


 あばら屋の軒先で声を掛けてみると、中で誰かが動く気配。引き戸を開いて姿を現したのは、いかにも冴えない農民という風体の男だった。

 そんな男には目もくれず、玉藻は素早く家の中を確認する。

 ……夕餉の準備をしていた形跡はあるが、他に家族らしき人間の姿はなし。一人暮らしの可能性が高そうだと内心ほくそ笑む。こういう男が一番ちょろいからだ。


「うち――私は西に向かって旅をしているのですが、路銀を盗まれて宿代もままならず……どうか寝床を貸していただけませんか? 何なら納屋でも構いません」


 楚々そそとした物言いと悲哀を伺わせる態度、ついでに少しの色香を匂わせるのも忘れない。わざと素の一人称を出して言い直すことで、ほのかな高貴さと奥ゆかしさを演出するのが秘訣だ。


「おお、そいつは災難だったな。こんなぼろ屋でよければいくらでも泊まっていきな。男の一人暮らしだから遠慮もいらねえ」

「ありがとうございます」


 言われなくても遠慮するつもりは無いが、そんな内心はおくびにも出さない。

 提供してもらった夕餉は、舌の肥えた玉藻からしてみればあまりに素っ気なかった。




 翌朝、起床した玉藻と男は朝餉あさげを食べながら今後について相談する。


「それで、お前さんはこれからどうするつもりだい?」

「そうですね……」


 玉藻は演技ではなく素で考え込む。

 実際のところ、特に決めていないというのが本音だった。今回に限らず、彼女の行動原理はいつも風の向くまま気の向くまま。

 いっそのことさいでも振って決めてしまおうか、などと考え始めたところで、男が口を開く。


「急ぎの旅でないなら、しばらくこの家にいたらどうだ? ゆっくり考えれば、何か良い案が思い浮かぶかもしれん」

「……よいのですか?」

「構わん構わん、困っている者を助けるのが人の道だ」


 ――身売りか。

 追い剥ぎや身体目的なら夜の間に動いている筈なので、残る可能性は遊郭ゆうかくにでも売り飛ばして直接金にすること。今の玉藻は目立たないよう質素な服装にしているが、その美貌はそんじょそこらの女とは比べ物にならない、身売り金は相当な額になるだろう。

 人の道? 信じるのは余程の阿呆あほか間抜けくらいだ。

 数日待てば男は人買いを連れてくる筈。その時に正体を現して、後悔させながら食らってやるのも一興いっきょうか。


「では、お言葉に甘えて」


 という訳で、玉藻は数日の間ここに滞在することに決めたのだった。


「そうなると流石に互いの名前くらいは知っといた方がいいよな。俺は晴茂はるしげ、あんたは?」

「お玉と申します、これからよろしくお願いします」


 本名は既に広く知られているので、偽名を使うことにした。


「こちらこそよろしく。さて、そうと決まればさっさと朝飯食って作業だ。えーと……」


 椀を置いて立ち上がった晴茂は、部屋の隅に置いてあったつづらをあさって戻って来た。


「ほれ」


 差し出された物を反射的に受け取る。

 随分な年代物の着物だ。色せてはいるが辛うじて女物であることは判別出来る。


「ほい、たすき


 また反射的に受け取る。

 流石に意図が分からず目を瞬かせる玉藻の前で、腕を組んだ晴茂は得意げに言い放った。


「働かざる者食うべからず、居候いそうろうするならきっちり働いてもらうぞ。まずは……そうだな、丁度水瓶みずがめの水が無くなりそうだから、川から汲んで来てくれ」


 一瞬、聞き間違いかと思った。

 働く。それもまつりごとや接待の類ではなく、小間使いがやるような肉体労働。

 重ねて言うが、玉藻の容姿はそんじょそこいらにいる美人とは格が違う。そして質素な服装でも隠しきれない気品が加われば、雰囲気はまさに訳ありの令嬢。身分問わずあらゆる男をとりこにし、蝶よ花よと大切にされ、多くの貢物みつぎものを捧げさせてきたこの自分に、あろうことか泥臭い肉体労働?


「ええと……?」


 何かの間違いだろうと困った笑顔で戸惑ってみせるが、晴茂の態度は変わらない。むしろ早くしろと言わんばかりだが、少し間を置いてから納得したように手を打つ。


「……あ、ああ! そういうことか!」

(遅いわ、この唐変木とうへんぼく!)

「俺がいちゃあ着替えられないよな。先に出てるぜ」


 普段決して崩れない玉藻の笑みが僅かに引きつった。

 晴茂が家を出て、一人残された玉藻は作業用の着物を手に茫然とする。これもまた彼女の長い生では滅多にないことだ。


「ふ……ふふ……」


 やがて漏れ出るのは乾いた笑い声。この場に他人がいたなら、あまりの威圧感に腰を抜かしていたかもしれない。

 玉藻は怒った。苛々とかそんな生易しいものではなく、堪忍袋かんにんぶくろがぷっつんと切れたやつだ。

 百歩譲って? この玉藻前の虜にならないだけならまあ許そう。そういう男も時々はいるものだ。

 ――だが、この女を女とも思わないような扱いは許さん。

 あの男を殺すだけなら簡単だ。彼女にとって人間など大人も赤子も大差はない、ちょいっと手首を捻る程度の気軽さであっという間に壊せる。

 とはいえ、ただ殺すだけではこの怒りは収まるまい。

 傷つけられたのは『女』としての矜持。であるなら、それを取り戻す為の手段も『女』でなければなるまい。

 そう、あの男を自分に惚れさせてやる。そして骨の髄まで依存するようになった時点で放り出してやるのだ。後悔でむせび泣く姿はさぞや留飲を下げてくれるだろう。

 差し当たっては……真面目で健気な娘を演じることからだ。




 そうして三週間ほどが経った。

 ……成果無しのまま。


「何やねんあいつ!」


 誰もいない家で一人、感情のまま床を叩く。

 色々と試してはみた。包丁でわざと指を切って落ち込んでみたり、世間知らずな物言いで令嬢らしさを強調してみたり、軽い接触で初心うぶな乙女のように恥ずかしがってみせたり、ちょっとした成功を褒めさせてはにかみながら笑ってみたり。伝家の宝刀・谷間や太もものちら見せ、間違って他人の寝床に潜り込んじゃった大作戦なども披露したというのに、暖簾のれんに腕押しぬかに釘。もしや僧や男色家の類ではあるまいな、と疑いたくなるほどの無欲っぷりだった。

 無害で朴訥ぼくとつとしたあの男の顔が今となっては憎らしい。しかも慣れない肉体労働は想像以上に苛々がつのる。

 歯ぎしりしながら次はどうしたものかと考えていると、所用で出かけていた晴茂が戻って来た。途端、荒ぶっていた悪女が粛々と家主の待っていた淑女に早変わり。これくらい息をするようにこなせなければ、権謀術数けんぼうじゅっすうの中で生きる男共を手のひらで転がすことなど出来はしない。


「お隣さんがおすそ分けしてくれたぞ。都へ奉公に出ている息子が里帰りの土産に持って来たそうだ」


 ちなみに、お隣さんとは言っても農地を挟んだお隣さんなので、家同士は一町(約百十メートル)以上離れている。玉藻も遠目にしか見たことは無い。


「さようでございますか」


 口にしてから頭の中で妙案が閃く。


「晴茂さんは他にご家族などいらっしゃらないのですか?」


 男の一人暮らしとは言っていたが、近しい人間については何も聞いたことが無い。あわよくば付け入れる心の隙でも引き出せれば儲けものだ。

 玉藻の問いかけに、晴茂は困ったように頭をかいた。


「血の繋がりって意味じゃあ結構な数がいる。けど家族じゃない――いや、家族って名乗らせてもらえない。絶縁されてるからな」


 付け入る足掛かり発見! 意識が前のめりになりながらも、淑女の擬態だけは忘れない。


「あの……私が聞いても良いことなのでしょうか?」

「良いさ、いい歳して嫁も取らず呑気に一人暮らし……誰だって不自然に思う」


 そういうものなのか。流石の玉藻も庶民の結婚事情まではよく知らない。


「こう見えて、俺の生家はそれなりに歴史のある家でな。まあ、お坊ちゃんってやつだったんだ」

「まあ」


 とりあえず口元に手を当てて驚いた表情を作っておく。


「生活が変わったのは二十になる手前のことだ。領地にある森を視察していたら鬼を見つけた」

「鬼というと……あの?」

「その鬼だ」


 この時代、人間にとって妖は生活の中で警戒するべき現実的な脅威だった。ただ、大多数の者にとって身近ではない、そんな距離感。

 晴茂は「ただ……」と続ける。


「お前さんが想像してる鬼とは多分かなり違う。俺が見た鬼は子供と変わらない体躯で、退魔士から逃げ延びたのか傷だらけ、俺に気付いた時も怯えて……そう、とても弱々しく見えたんだ」

「それで、どうしたのですか?」

「……かくまって、傷が癒えるまで食料を融通ゆうづうしてやった」


 普通であれば、退魔士に連絡して終わりだ。災いの芽は早々に積むに限る、玉藻ですら理解していることだ。どうやらこの男、人が良いのは素で、しかも筋金入りであるらしい。

 ただ、それを語る本人の表情は苦々しく、後悔に満ちていて。


「何か……あったのですね?」

「俺が助けたその鬼が人を襲った」


 衝撃を受けた表情を作る。


「しかも、俺がそいつと一緒にいる所を領民の一人が目撃していてな。上へ下への大騒ぎ。すったもんだあった末に責任を取って家から勘当かんどうされた」

「それはまた……」

「これでも恩情をかけられた方なんだ。俺を狐憑きと呼び、処分するべきだという声もあったくらいだからな」


 狐憑きとは、狂人を指す蔑称のことだ。狐の霊に憑かれ、精神に異常をきたしたのだと。退魔士がしかるべき処置を行えば元に戻せることもあるのだが、妖についてよく知らない民間では狐憑きを化物と見なして忌避することも多い。

 貴人でも農民でも、愚かなのは同じ。玉藻は新しい学びを得た。


「とまあ、こんなところだ。さあ、つまらない昔話はこのくらいにしてさっさと飯にしよう。爺さんの息子自慢が長くて腹が減った」

「まあっ」


 暗い雰囲気を変えようとしてだろう、ぞくな話題を持ち出した晴茂に合わせて玉藻も茶化すように笑いながら、その裏で得られた情報を吟味する。

 最後に軽い調子で締めたもの、晴茂は過去をまだ吹っ切っていないように思えた。だというのに、性懲しょうこりもなく妖を懐に入れ、今も騙されている。

 学習しない愚者。結局のところ、目の前の男も今まで見てきた人間たちと変わらない、記憶に残す価値も無いくだらないけれど漂ってくるこの香ばしい匂いは本能たる食欲を揺さぶって賢しらな思考などあっという間に吹き飛ばしてしまうのだからたまらない食べたい食べたい早く早く――


「おお、旨そうな油揚げだ。こればかりは爺さんに感謝だな」


 晴茂が頂き物の包みを開いた途端、芳醇ほうじゅんな香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

 玉藻は今まで手間暇かけてぜいを凝らした料理を飽きるほど口にしてきた。それでも、素朴ながら深い味わいのある油揚げだけは別格だった。頭の中で巡っていた思考はあっという間に吹き飛び、純粋な食欲のみに支配される。


「それじゃ、遅くなったけど夕餉にするか」


 そうこなくては。

 大好物を前にした玉藻は普段以上に大人しく晴茂の調理を待つ。

 ほかほかに炊かれた米、根菜の煮つけ、お吸い物が椀によそわれ、遂に油揚げが皿に移される。そうして喜びが絶頂になった玉藻の前に次々と配膳はいぜんされ、待ちに待った油揚げが――何故か素通りしていく。


「……?」


 首を傾げる玉藻の前で、晴茂は油揚げを神棚に置いて柏手かしわでを打つ。そのまま何事もなかったかのように戻って来て玉藻の前に座った。


「それじゃ、いただきます」


 いつもとそこまで変わらない夕餉を美味しそうに食べていく晴茂。

 ………………。

 …………。

 ……いや、油揚げは?


「あの、晴茂様、油揚げは食べないのですか?」

「ん? ああ、丁度良いから神様へのお供え物にする。明日には下げるから、その時に食べよう」


 何と。油揚げは日持ちせず、一日放置するだけでも味が大きく落ちるというのに。

 何より、油揚げが今日の献立に加わると思っていた玉藻の気分は既に油揚げ。今更お預けなんて無理。例え一日でも!

 けれど、既に供えられた食べ物を欲しがるというのは少々意地汚い。最悪、今日まで積み上げてきた印象が崩壊しかねない。

 ……我慢するしかない。

 とは言いつつ、視線は神棚の油揚げをちらちら。

 ちらちらちらちらちら――


「……やっぱり今日食べようか」

「――っ、だ、大丈夫なのですか?」

「まあ、供えてお参りさえしてしまえばな」


 立ち上がった晴茂が今しがた供えた油揚げを下げ、自分と玉藻の前に置く。

 許しを得た玉藻は、早速油揚げを口へ運んだ。

 歯を立て、柔らかい身を裂く。口の中で咀嚼そしゃくすれば、濃厚で爽やかな風味が舌の上で踊った。庶民の土産物として侮っていたが、中々どうして美味い。これは箸が止まりそうにいない。

 そうして三週間ぶりの充足感に浸っていると、こちらを腹の立つ笑顔で見つめる晴茂に気付く。


「……何か?」

「いや、ようやく良い笑顔を見せてくれたなと思って」

「……?」


 笑顔なら何度も見せているだろうに。それも計算し尽くされた、特上のやつを。

 追及しても油揚げが不味くなるだけなので、無視することにした玉藻だった。




 更に三週間が経った頃、玉藻は思った。

 働かざる者食うべからず。この言葉を考えた奴、殺す。


「やってられるかぁ~!」


 脱穀した稲わらとこき箸を地面に叩きつけ、吠える。周囲に誰もいないのは確認済み。

 滞在の長くなった玉藻を、晴茂は段々とこき使い始めた。今は稲刈りを終えて脱穀している最中だ。

 この脱穀がまあ苛々する。稲穂を一つ一つこき箸で挟んで引き抜くことで実を外すのだが、その数が尋常ではない。目算で二万回以上同じことをする必要があると言えば、凄まじさの一端でも伝わるだろうか?

 立ち仕事という訳ではない、そもそも玉藻の体力は人間と比べれば桁外れ。だが辛い、移動すらしない単純作業の繰り返しは身体ではなく精神が削れていく。

 ちなみにこの作業を頼んだ張本人はいない、村の集会に出席するらしい。ぶん殴ってやろうかと思った。


「ああもう止め止め、阿保あほらしゅうてかなわんわ」


 溜息を吐いて椅子代わりのおけにどかっと腰を下ろす……この絵面だけで何だか泣けてきた。あれもこれも未だになびかないあの男が悪い。確実に距離が縮まっているのが唯一の救いだ。

 別に作業を放棄するわけではない。ただ、誰も見ていないのに馬鹿正直に人間の真似をするのが馬鹿らしくなっただけ。

 玉藻は大量に並んだ稲穂の束に視線を向ける。すると稲穂がひとりでに浮かび上がり、勝手に稲わらと実に分かれて所定の入れ物に飛び込んでいく。

 妖狐が持つ神通力、玉藻ほどの妖ともなれば、その強さも精度も段違い。脱穀なんてお茶の子さいさいというものだ。


「ふふん♪」


 憎き稲穂の束が次々と減っていく。ある程度の量さえ処理してしまえば、後は適当に疲れたふりでもして休んでおけばいい。神通力万歳。


「けど、明日はこの手使えへんねんなぁ」


 明日からは晴茂も脱穀の作業に入る。彼が見ている前で神通力を使う訳にもいかないので、またちまちまと手作業で脱穀していくことになる。

 となると、今の内に出来る限り数を減らしていきたいところ。

 これくらい? いや後もう少し。そんなことをだらだらと繰り返していた玉藻に、予想外の横槍が入る。


「お玉……?」


 玉藻の意識が乱れ、浮かんでいた稲穂がまとめて地面に落ちる。

 ゆっくりと振り返れば、そこには村の集会に出席している筈の晴茂が呆然とした表情で立ち尽くしていた。


「は、晴茂様? 集会は……?」

「思ってたよりも早く終わったから、さっさと帰って脱穀を手伝おうと思って……いやそれより、今稲が勝手に動いてた……よな?」


 抜かった、作業に集中するあまり周囲への警戒がおろそかになっていた。この至近距離で目撃されてしまったのなら、見間違いで誤魔化すのも難しいだろう。

 ――よし、殺してしまおう。

 潜む類の妖である玉藻は、引き際をよく心得ていた。自尊心も大切だが、正体が広まることの面倒臭さと釣り合うほどのものではない。

 今からいくばくも数えない内に、この男は妖に怯え、泣き叫んで逃げようと背を向ける。その時が最期だとも知らずに。

 晴茂の身体が僅かに動くと同時、玉藻も勢いよく駆ける。その鋭い爪で柔らかい喉笛を貫こうと――


「ずるはいかんぞ! ずるは!」


 ずるっ! どべしゃっ! 文字にすれば多分こんな感じ。

 頭の中で感情が大混雑を起こしている中、とにかく先に聞いておかなければいけないことを問いかける。


「ええと……ずる、というのは?」

「今のは妖術の類だろう? 効率は高そうだが、まずは米作りの苦労を知らないといかん。でないと恵みへの敬意もへったくれもない」


 違う、そこじゃない。

「私が妖術を使えることに関しては?」

「便利そうだな!」


 眩暈めまいがする。

 九尾の狐・玉藻前の神通力が、便利の一言。威厳の欠片もあったもんじゃない。


「……何やねん」

「ん?」

「何やねんあんたはぁ!」


 ここまでくるともはや理不尽。玉藻は生まれて初めて地団太じだんだというものを踏んだ。

 一方、晴茂の方は何だか戸惑っている様子。


「な、何だか雰囲気が違ってないか?」

「被ってた猫取ったんや! それくらい察し!」

「ああ、猫又の類だったのか」

・や! うちをそこいらの木っ端と一緒にすな!」


 どすどすと晴茂の額を小突く。

 痛そうに額を押さえる晴茂は、けれど嬉しそうな笑みを浮かべた。


「けどまあ、あれだ」 

「あん?」

「こうして遠慮なく接してくれる方が、俺はありがたいな」


 もう訳が分からない。

 肩を落として溜息を吐く玉藻だった。




 正体がばれても、玉藻は晴茂の家に居座ったままだった。女としての自尊心を取り戻すという目的がまだ済んでいないのもあるが、急いで離れる理由がなくなったのが大きい。

 晴茂の態度も変わらない。貴人を貴人と思わない雑な扱い、しかも神通力は禁止ときた。おかげで延々と続く脱穀作業に心が泣いた。

 玉藻に任せておけばあっという間に済む話なのに、何故わざわざ面倒を背負うようなことをするのか。収穫したばかりの米を炊いた食卓で、ふと気になって尋ねてみた。


「そりゃああれだ、自分の手で汗水垂らして頑張らないと、感謝の気持ちが薄れるからだ」

「感謝?」

「土、山、川、他にも俺を生かしてくれる恵みの全てに。というか、毎日言ってる『いただきます』は何の為にあると思ってるんだ」

「呪文みたいなもんやと思ぅてた」

「んな訳あるか!」


 なお、正体がばれた際に勢いで素を出してしまったので、猫を被るのは止めている。


「ほら、面倒くさがらずに、ちゃんと感謝を込めて言うんだぞ」

「はいはい、分かっとる分かっとる」


 お互いに手を合わせて、同時に一言。


「「いただきます」」




 季節が巡り、冬になった。

 家の中にいても隙間風が容赦なく吹き付け、晴茂は火鉢の傍から離れられなくなっていた。


「さ、寒い寒い寒い寒い!」


 その情けなく寒さに翻弄ほんろうされる姿は、普段こき使われている玉藻の留飲を僅かに下げた。


「……何だか馬鹿にされてる気がする。お前さんは平気なのかよ?」

「はっ、うちを誰やと思ぅてはるん?」

「……化け猫?」

「いつまで引っ張っとんのや!」


 そういえば、妖であることはばれていても、何の妖であるかまでは教えていなかった。

 玉藻は普段見えないようにしている狐の耳と尻尾を表に出した。


「おお、狐か!」

「ふふん、獣からしてみればこの程度の寒さくらい屁でもないわ」

「まじか。いいなぁ~」


 晴茂の羨ましそうな視線がたまらない。権力者に取り入った時などは、こんな視線を山のように浴びていたものだ。

 しかも何やら、話が終わった後も晴茂の視線はちらちらとこちらを向くではないか。それも、初めて見る物欲しげな――情欲がこもった視線。

 ――まじか。おのれ、獣が混ざった姿が好みなんか、変態さんめ!


「な、なあ、少し触ってもいいか?」

「え~、どないしよかな~」

「頼む! この通り!」


 快感の波がぞくぞくと背中を駆け抜ける。

 そう、これだ。ただ殺すだけでは得られない、心を含めた他者の全てを手に入れたかのような征服感。傷ついた自尊心を補って余りある甘美な蜜。心が折れそうな作業の毎日も、今となっては旨味を引き立てる香辛料。

 本当に、頑張って良かった。これでようやく――

 ようやく……何だろう?


「それじゃあ遠慮なく」


 不意に立ちはだかった意識の空白に戸惑う玉藻を余所に、晴茂が行動を起こす。

 農作業で硬くなった無骨な手が、玉藻の柔肌を恐る恐る撫でる。

 これが太ももや胸元だったなら、盛り上げるためにつやっぽい声の一つでも出してやるところだ。

 ――だが、腕を伸ばした先が情事とは無関係な、狐の尻尾だった場合はどう反応すればいいというのか。


「おお……温かくてふわふわしてる……」


 ……何か違う。


「…………」


 浮かれていたのが馬鹿らしくなってきた。

 とりあえず、この唐変木は叩いておいた。尻尾で。思う存分もふもふを味わえてさぞ嬉しかろう。

 高揚していた気分が一気に萎えた。

 よく分からない戸惑いも余韻よいん余韻よいんの欠片だけが残り、それも間もなく記憶ごと消えてしまうのだった。




 季節が巡り、年が巡っても、玉藻は晴茂の家から出て行かなかった。


「ようし、今日からまた米作りだ!」


 春は米作りが始まる次期。すなわち、またあの泥臭い日々が戻ってくるのである。玉藻は去年のことを思い出してげんなりした。

 とはいえ、初っ端から大変な作業というわけではない。まずは種もみの選別からだ。


「育てるのは塩水に浸して沈んだ方の種もみだ。重くて中身が沢山詰まってるってことだからな」

「へぇ、そんなことしてたんや?」


 たかが米、されど米ということなのか。身近な食料の意外な豆知識に、玉藻は素直に感心した。

 選別した種もみは一週間ほど水に漬けておく必要がある。この間は流石にやることも無いので、晴茂も玉藻も揃って縁側えんがわで休んでいる。

 晴茂は煙管きせるを吸っていた。時間に余裕が出来た頃から時々見かける姿だが、庶民には似つかわしくない豪勢な造りであり、以前から気になっていた。

 玉藻がぽかぽか陽気を堪能しながら何の気なしに煙管を眺めていると、晴茂もその視線に気付く。


「ん? この煙管がどうかしたか?」

「それ、結構な値打ち物やろ?」

「分かるか? 死んだ爺様から譲り受けた逸品でな、家を追い出された時、こいつだけはどうにか持ち出したんだ。食うに困ったら売るつもりだったが、どうにかこうにか農業で生計を立てられてる。ありがたいこった」


 晴茂は空に向かって感謝を捧げるように片手を立て、煙管を吸って煙をぷかり。並以上には重い過去を抱え、決して余裕があるとは言えない生活に身を置きながら、その表情はこちらが眩しくなるほどの幸福感に満ちている。

 奸計かんけい我欲がよくを友とする玉藻にはいまいち理解し難い感覚だ。一体何がそんなに楽しいのか。


「……ん? 何だ、お前も吸いたいのか?」

「そんなわけあらしまへんやろ。着物に臭いが移ったらどないすんの」

「え、そんなぼろぼろなのに今更臭いを気にするのか?」


 言われてはたと気付く。今玉藻が着ているのは汚れても構わない色褪せた古着だ。

 肉体が強靭とはいえ、汚れやすい作業には相応しい服装というものがある。そして作業が毎日続くなら、その服装を選ぶ割合も増えていくのが道理。

 だが、今の服装を意識しなくなるほどこの古着に馴染んでいたという事実は、玉藻の自尊心に小さくない衝撃と屈辱を与えた。

 そもそも、玉藻が何日も古着を着る羽目になったのは、晴茂が遠慮の欠片もなく毎日農作業をやらせたからだ。

 とりあえず、元凶は尻尾で殴っておいた。痛がっている、いい気味だ。

 ……最初の頃ほど気分が苛ついていないのは、何故だろうか?




 初めに転がり込んでから一年が経った。

 まだ玉藻は晴茂の元にいる。


「晴茂、きびきびやりや。ちんたらしてたら日が暮れてまう」

「おうおう、やる気だなあ」

「面倒ごとは早めに終わらせるんがうちの流儀や。そもそも、あんたが神通力を禁止するからこんな苦労する羽目になっとるんやけど?」

「おっと、藪蛇やぶへびだった」

「まったく……」


 溜息を吐いて田んぼの雑草を抜く。

 ……近頃は農民としての日々に対する違和感が薄れつつあった。

 



 季節が巡り、いくつもの命が散ってはまた芽吹く。

 過ぎ去った日々を数えることも、自分がここにいる理由を考えることも、既に大きな意味を持つことはなくなってしまった。

 かといって毎日が虚無であるかといえばそうでもない。

 与えられた義務を全力で果たす。ただそうしているだけで、長大な寿命を持つ玉藻が驚くほどに日々は早く過ぎ去っていた。


「まさか夫婦と思われてるとは」

「ほんまや、誰があんたみたいな唐変木を婿に貰うちゅうねん」

「酷い言われようだ……」


 夕日で染まった地面に伸びる二つの影は、仲睦なかむつまじい夫婦のそれと何ら変わらなかった。

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