霊脈、すなわち無垢なる記憶

 水の中に飴を沈めてみたことはあるだろうか? 氷のようにただ小さくなるだけの様子を想像するかもしれないが、よくよく観察してみれば、透明で少し甘い水の一部となる前の『過程』があることに気付くだろう。

 液体は混ぜた後に時間の経過を待つか、外的要因に攪拌かくはんされないと均一にはならない。その為、個体から液体に変化した直後の飴は、水中を漂うもやのような存在として視認することが出来る。

 その過程は飴がただ小さくなって消えるのではなく、元の形を失って水に吸収されているのだという、知っていただけの原理を確かな事実として実感させてくれた。

 そんな、遠い過去の他愛もない記憶を、冷良は自身の不可思議な現状と結びつける。

 今いる場所は何処なのか、そもそもまともな法則が適用されている領域なのか、まずそこからが疑問だった。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、ついでに味覚。外界を別々の情報に分解し、異なる方法で認識する五感が、一つも機能していない。かといって、それぞれの感覚器が生物的に麻痺した訳でも、ましてや物理的に塞がれている訳でもない。

 そもそも、冷良は別に外界を知覚出来なくなった訳ではなかった。

 ただ、認識の方式が今までと全く違っているだけ。

 言うなれば、五感として五つに分かれている情報がひとまとめにされ、そのまま意識に叩き込まれているような感覚。

 故に、冷良は自分を包む外界のことを知ることは出来ても、得た情報を正確に他者へ伝えることは出来ない。そもそも、合致する言語が存在していない。

 それでも無理やり人間の言語に当てはめるなら、物語で構成された海、という表現が近いか。

 見知らぬ誰かが見た景色を感じる。

 見知らぬ誰かが聞いた音を感じる。

 見知らぬ誰かが嗅いだ臭いを感じる。

 見知らぬ誰かが触った感触を感じる。

 見知らぬ誰かが食べている料理の味を感じる。

 見知らぬ誰かが抱いた想いを感じる。

 見知らぬ誰かたちの歩んだ足跡を感じる。

 それらは規則正しく並んで一つの筋となり、まだ存在しない何処かへと繋がっている。


(ああ、そうか……)


 ここは過去の集積場だ。世界が経験したあらゆる出来事、あらゆる要素が、無形の情報として蓄えられている。

 それは言い換えるなら、『現在』を構成するものの全て。世界の源流。

 霊脈。散瑠姫が語った『世界の記憶』というものを、ようやく理解出来た気がする。

 ――そして、尋常なる生命が触れていい領域ではないということも。

 実際に感じて分かった、霊脈は幽世のような『法則の違う異世界』ではない。紙上で語られる『読み物』と現実で演じられる『劇』のように、在り方の次元そのものが違う。

 恐らく冷良は今、現世で言うところの肉体を失っている。ただし、失われた訳ではなく、実体を持たない情報へ変換されたと言うべきか。だから五感という、肉体に依存した感覚が働いていないのだ。

 さて、これまでの人生全てを足し合わせても及ばない経験を必死に分析していた冷良だが、実際のところ一番の問題はそこではない。

 現在の冷良を構成しているのは、純粋な情報――便宜べんぎ的に情報体と呼ぶことにしよう。この情報体、どうやら現世の物体のように安定しているとは言い難く、流動性のようなものを有しているようだ。

 ここで一つの例えを出そう。あめを一粒、海へ落としたらどうなるか? 決まっている、あっという間に溶けて消えてしまうのだ。

 霊脈も同じだ。尋常な生命の情報体は、より大きい情報群の中で自身の『個』を保つことが出来ない。

 自分を構成するものが飴のように溶けて、周囲と同化していくような感覚。痛みや苦しみは無かった。ただ、あるべきものか無い、欠損した認識だけが確かにある。

 不思議なことに、苦痛どころか不安や焦燥すらも感じない。自身が消えるというよりは大いなる存在の一部になれる認識の方が強く、両親に優しく抱擁ほうようされるような安らぎがある。


(別にいいか……)


 それは諦観ではなく、やすしに流れる生命のさが。希薄になっていく自意識の中で、自分から剥がれ落ちていく記憶をどこか他人事のように観測する。

 と――


『格好良い男になれ』


 それはずっと冷良の根幹を支えてきた両親の言葉。


『閃いた! 冷良が巫女となればよいのだ!』


 それは冷良を手元に置く為に咲耶姫が閃いた手段。

 思えば気苦労の日々はここから始まったのだが、美しい女神から求められるのは何だかんだで悪い気分ではなかった。


『妖側だけじゃなくて、ちゃんと人の中にも居場所を作って来なさいな』


 それは咲耶姫から巫女として勧誘された日の夜、女装して巫女になるという無茶すぎる難題に冷良が尻込みしていると、小雪が安心させようと背中を押してくれた。

 そうして今、どうにかこうにか奉神殿の面々と悪くない関係を気付けていると思う。


『……小太刀ならどうでしょう?』


 それは実らない努力を続ける冷良に、幹奈が示してくれた提案。

 彼女が師になってくれなければ、今の冷良は無かった。


『……だから、お願い。私を、皆の役に、立たせて?』


 それは姉が妖の都へ行くことを渋る咲耶姫に向けた、散瑠姫のお願い。

『皆』の中には他ならぬ冷良も含まれている。女神らしからぬ物言いであるとは分かっていても、寄せられている善意は嬉しかった。

 こうして改めて思い返すと、半年も経っていないのに色々なことがあった。日常が変わったのは勿論、関わる相手も段違いに増えた。中にはいさかいから始まった者もいるが、誰も彼も傍にいられるだけでありがたくなる素晴らしい面々ばかり。

 彼女たちから向けられる優しさに、自分はむくいることが出来ていただろうか? 傍にいるに相応しい男でいられただろうか? 

 ――少なくとも、消滅を前に抗いもせず諦めるような男は相応しくあるまい。


(ああ、分かってるさ)


 今まで目を向けないようにしていた。

 だって、頑張ったのだ。痛くても、苦しくても、頑張ったのだ。身体がぼろ雑巾のようになるまで頑張ったのだ。ここいらで休んだって誰も文句は言うまい。働きと対価は等量でなければならないのだから。

 だから、消えゆく冷良が、残される者たちの涙など気にする必要は無い。

 ――そう割り切れるのなら、どれだけ楽だったか。


『――っ、づぁ!』


 霊脈は実体の存在しない情報領域だ。現世で完膚なきまでに痛めつけられた肉体も、情報の一部でしかない。

 重要なのは、大量の情報に晒されても見失わない確固たる自己認識。

 ぼやけていた自身と外界の境界を定義し、こぼれ落ちた『冷良』の情報を丁寧にり分けて回収する。

 後は現世に戻るだけ。

 ただし、その言葉が持つ意味は途方も無く重い。

 霊脈とは世界の記憶だ。つまり、ここには世界の全てが詰まっている。

 冷良が物心付いてから小雪と旅に費やしてきた年数はおよそ十年。同年代と比べればかなり見識がある方だが、世界の広さと比べればいかほどのものか。

 しかも、ここにあるのは空間的な広がりだけではない。その時々の記憶、つまり連綿れんめんと続いて来た歴史の長さ分だけ世界があるようなもの。

 さて、よく知りもしない場所へ目隠し付きで放り出され、記憶の情景だけを頼りに目的地へ辿り着ける可能性は一体どれくらいあるだろうか? 具体的な数値は分からなくても、絶望的な字面を予想させるには十分な前提だ。

 それでも、決断してしまったのなら他に道は無い。

 冷良は漂うに任せていた身体を反転させ、情報の大海に着地した。当然感覚的なもので、本当に海の上に立っているわけではないし、気を抜けば自分がその海の一部になることは変わらない。


『ぐ……っ』


 冷良の意識に苦痛が走った。怪我だらけの肉体は情報体に変換されているが、全く影響を与えないなんて虫のいい話は無かったらしい。 

 とはいえ、それも限りなく現実に近い幻痛のようなもの。情報の大海を移動するのに大きな支障があるわけではない。

 冷良は意を決して一歩を踏み出した。

 ………………。

 …………。

 ……。

 さて、決意の一歩を踏み出したのは一体いつ頃の話だっただろう?

 時間を測る行為に意味は無い、情報体に一般的な疲れという概念が発生することも無い。

 ただ、意識の芯に蓄積されていくものはあった。

 それは度重なる幻痛だったり、音もなく心を侵蝕する不安の類だったり、見知らぬ誰か達の悲痛な体験であったり。明確な何かをされる訳ではないが、見えない粘液がのしかかるように、ゆっくり確実に、冷良の足取りを重くしていく。

 多くの記憶に触れた。

 自身と外界の境界を維持するのは容易なことではない。恐らく、既にある程度の『冷良』を失い、関係の無い情報を取り込んだだろう。

 今の自分は『冷良』であると言えるのか? こんな有様では、もう現世に戻っても意味が無いのでは?

 意識の中で何度も弱気が木霊こだまし、時には自己すらも曖昧になりながら、歩みだけは決して止めない。

 分かっている、正義や意志なんて耳触りの良い理由からではない。

 結局のところ、怖いのだ。恩を仇で返す自分が、努力を諦める自分が、期待に応えられない自分が、異性を泣かせる男らしくない自分が、何者でもなくなった自分が。

 だから、突き進む。

 ………………。

 …………。

 ……。

 恐怖はあらゆる生命体に宿る、最も根源的かつ強大な原動力だ。

 ならば見方を変えれば、恐怖とはうまく利用すれば永久機関足り得るのではないか?

 ――否だ。長い酷使は、生命の根源たる恐怖すら摩耗させる。


『…………』


 歩みが半ば無意識になりつつある冷良は、既に諦める恐怖すらも擦り切れようとしていた。

 何故自分はこんなにも必死になっているのか、それすらも曖昧になって。平地で転がした球が止まるように、歩みも止まりそうになる。

 それでも、記憶の彼方にある何かだけは諦めきれなくて、情報体の腕を未練がましく伸ばし――何かに触れた。

 数ある世界の記憶ではない。もっと生々しい、現世における物質のような。不思議と、懐かしい想いが込み上げてくる。


『意思生命体の接触を確認。個体情報検索――完了。識別番号、三一一〇四〇四七〇一五三三二八。雪女の半妖、雄、個体名・冷良』


 込み上げてきた想いに引っ張られるように、忘れかけていた様々なことを思い出す。

 そうだ、戻らなければ。


『入力を確認、実行工程――失敗、座標未入力。接触者より情報取得――完了。該当座標、三五〇〇四二・一三五四六〇五・六三七六〇一五四・二三九五四二八八二一』

『接触者の下位次元体仮想構築ーー完了』

『第四座標の連続性確認工程にて異常発生、詳細検索開始』

『警告、直近の情報変化が閾値いきちを超過。下位次元体構築にて重大な障害の恐れあり』


 霊脈に触れて様々な変化があった。

 それでも、元いた場所に戻りたい。


『工程続行。下位次元体の構築開始』


 そういえば、現世は今どうなっているのだろうか? 妖の都は? まだ崇徳と玉藻は暴れているのだろうか?

 ……どうにかしなければ。

 特に、崇徳の様子が異様だった。元より他者の命を何とも思っていない暴君、あいつだけは野放しにしてはいけない。


『座標変更申請。絶対座標より相対座標へ。原点対象、識別番号一四七三六三一九六四、天狗、雄、個体名・崇徳。指定座標、〇、〇、一〇』

『下位次元体構築完了、排出開始』


 何かに引っ張られるような感覚。今まで認識していたものが意味を失い、目で見えるただの燐光に変わっていく。

 現世に戻った時、一体自分はどうなっているのか。

 分からない。

 ただ、やるべきことならある。

 なら、今はそれだけを胸に刻みつけておこう。

 そう、決めた。

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