現実は止まらない

 ――と、ここまでは冷良を取り巻いていた世界の話。陽毬の最期は他者から見ても目を逸らさずにはいられない悲劇だろう。


「あ……あぁ……」


 だからこそ、そこに割り込んだ呻き声は場にそぐわない異音として、周囲の目を引いた。

 視線が集まる先にいたのは、空中で呆然としている玉藻だ。限界まで見開かれた目は陽毬の死に姿を凝視したまま離れず、震える両手は現実を拒否するように顔を覆って――


「あぁあああああああああああああああああああああああ!」


 炎が玉藻の身を包んだ。

 しかし、熱に焼かれる身体はちりになるどころか瞬く間に体積を増し、形を変えていく。

 やがて炎が散った後に現れたのは全身を包む金色の体毛、鋭利な爪をたずさえた強靭な四肢、あらゆる物を噛み千切らんばかりの大顎。そして背後で生き物のように揺れ動く九本の尾。

 そこにいたのは傾国で名を馳せた美女ではない。凶悪で猛々しい獣、災害に等しい大妖怪、九尾の狐に他らない。


『崇徳ぅうううううううううううううううう!』


 陽毬の死に何か大きな意味があったのか、崇徳へ向ける叫びは凄まじい激情に包まれていた。

 玉藻の頭上に巨大な火球が現れ、弾けて割れる。分裂した大量の火球は意思を持つように曲がり、崇徳へ向かって流星雨のように降り注いだ――傍にいる冷良たちや、城を含めた建物のことなど構わずに。


『はっはぁ!』


 とはいえ崇徳が黙って食らってやる筈もなく、強烈な風を吹かせて火球を吹き飛ばしてしまう。おかげで冷良たちは無事だったが、一部残った流れ弾は都に着弾して何もかもを容赦なく焼き尽くす。


『最初からこうすりゃ良かったぜぇ! 気に入らねえ奴はぶっ殺す、それで済む話なんだからよぉ! あっひゃっひゃ!』

『ほざけ! あんたがうちを殺す前に、うちがあんたを殺す!』


 崇徳は冷良たちから興味を失ったのか、怒り狂う玉藻と空中戦を始めてしまった。理性を失っている二人に手加減や気遣いの意識は無く、逸れた攻撃は地上を容赦なく襲う。

 暴風と烈火、怒号と悲鳴が飛び交う様はまさに、現実に顕現した地獄絵図そのもの。しかも都の狂乱に呼応するかのように、噴き出る『悪意』の霧は勢いを増し、耐え切れなくなった大地を次々と食い破っていく。

 もはや都に安全地帯など存在しない。それは人間も、女神でさえも例外ではなく。


「――っ、皆! 逃げてください!」


 焦燥を浮かべた幹奈が凝視しているのは、冷良たちのすぐ近くに開いた新たな亀裂だ。亀裂は案の定あっという間に広がっていき、地上にいる者を見境なく飲み込もうとしている。

 事ここに至っては何もせず大人しくしている方が危険だ。幹奈は危険が比較的小さそうな方向を選び、散瑠姫や部下の巫女、調査隊たちを誘導すると、決死の表情で冷良たちに走り寄る。

 目まぐるしく移り変わる状況の中にあって、彼女は思考を手放さず、やるべきことを実行している。

 それでも、心の底でどうしようもないほどに焦っていたのだろう。

 上空から飛来する火球にも気づかないくらいには。


「あ――」


 単なる流れ弾の一つに過ぎない火球は、幹奈を直接狙っていた訳ではない。それでも、着弾による熱波と爆風は幹奈の身体を押し飛ばすには十分な威力を有していた。


「く……っ」


 不幸中の幸いか、大きな怪我は負っていない。

 ただ、押し飛ばされてから起き上がるまでのごく短い時間は、今この瞬間においてあまりに致命的な損失で。

 幹奈が再び顔を上げたのと、地割れが冷良の倒れている位置まで至ったのはほぼ同時だった。

 遅ればせながら状況に気付いた小雪が慌てて冷良の手首を掴む。

 だが、彼女の細腕で冷良の体重を支えるなど無理があるというもの。支えるどころか逆に引っ張られ、冷良共々地割れに飲み込まれる――直前で、幹奈が彼女の胴を思いっ切り反対側へ引き寄せた。

 ――同時に、冷良の手首を掴んでいた小雪の手が離れる。


「あ――」


 あってはならない、致命的な失敗を犯してしまった。そんな表情だ。

 別々の方向へ急に大きな力がかかったのだ、小雪の握力では仕方あるまい。当然、逼迫ひっぱくした状況で選択を迫られた幹奈に、その辺の気遣いを求めるのも筋違いというもの。

 つまるところ、この結果にはなるべくしてなったのだ、誰かが悪いという話ではない。


「冷良! 待って! 嫌! 嫌ぁああああああああ!」


 亀裂の縁から顔を覗かせた小雪が、半狂乱になって叫びながら腕を伸ばしてくる。冷良を追って自分まで飛び込みそうな勢いだ。いや、幹奈が羽交はがいめにしていなければ、本当に実行するつもりなのかもしれない。

 そして支えが無くなった冷良の身体は、重力に従って亀裂の暗闇――深淵しんえんへと落ちていく。

 どこまでも、どこまでも深く、遠くへ。



    ◆



「冷良! 冷良! あぁああああああああああああああ!」

「落ち着いてください! あなたが亀裂に落ちても冷良が助かる訳ではありません!」


 冷良の後を追おうとする小雪をなだめる幹奈だが、内心では無理もないと思っていた。

 幹奈自身は小雪とそこまで親しい訳ではない。弟子の身内というのは近いようで遠い距離感だ、顔を合わせたことが無い訳ではないが、表面的な人となりを知っている程度。

 ただ、時折小雪のことを語る冷良の口調からは、血の繋がった姉弟とそう変わらない親しみを感じた。両親を失った幹奈には、今の小雪の気持ちが痛いほどよく分かる。

 そして冷良が、小雪に後を追われるなんて望んでいないことも。


「失礼!」


 幹奈は懐から手拭いを取り出し、押し倒した小雪の口に無理やり押し当てた。


「む~! んんんんんんんんんん……!」


 当然激しく抵抗する小雪だが、次第に目の焦点が合わなくなり、手足からも力が抜けていく。やがて完全に瞼を閉じ、穏やかな寝息を立て始めた。

 ひと仕事終えた幹奈はひとまず大きく息を吐き、複雑な気持ちで手拭いを見やる。


「こんなことで役に立つとは……」


 手拭いには眠気を誘う香をみ込ませてある。散瑠姫と瓊瓊杵の件で眠れなくなった時に処方してもらった物の余りだ。本来は何倍にも薄めて服用する物だが、今回使ったのは原液そのまま、効果は今見た通り。

 本来は何かと物騒な妖の都を警戒して、身体中に仕込んでおいた護身具の一つだが、こんな使い方をするとは思わなかった。

 小雪を背負ってこの場から立ち去る幹奈は、後ろ髪を引かれる思いで一度だけ後ろへ振り返った。

 そこにあるのは放置された陽毬の遺体。彼女も間もなく、亀裂へと吸い込まれて消えてしまった。


「……ごめんなさい」


 助けることが出来なかった冷良と陽毬、大切な人を失わせてしまった小雪に心から謝り、幹奈は駆ける。

 修羅場はまだ終わっていない。守るべき者たちは大勢いる、悲嘆ひたんに暮れている訳にはいかないのだ。

 天には猛り狂う大妖怪、地には次々と開く深淵の口、おまけにこちらを見る住民たちの目は理性を失っており、やたら戦意に満ちているときた。

 それでも、やるしかない。

 悲しみを決意で覆い、幹奈は皆を無事に脱出させる戦いに身を投じるのだった。 



   ◆



 崇徳と玉藻、人型と巨大な獣。体躯たいくだけで言えば圧倒的な差がある妖たちの戦いは、太陽が中天を過ぎ、地平線の彼方へと沈み、月が昇っても終わる気配を見せなかった。

 崇徳が発生させる雷や嵐刃は強固な毛皮に阻まれ、玉藻の爪や牙、狐火は神通力の障壁に防がれる。そして逸れた攻撃が地上に甚大な被害をもたらすのはどちらも同じ。崇徳は元から他者の被害など気にも留めないが、玉藻も今はまともな判断力を失っている。

 ただ、微かに残った理性か、あるいは獲物を狩る獣としての本能か、とにかく何かが彼女に違和感を抱かせた。


『ぐるるぁ!』


 炎を拡散させるのではなく一点集中させて砲のように放つが、障壁で防がれてしまう。爪を構え、渾身の力で引き裂こうとしても結果は同じ。


『がはははは! その程度かよぉ九尾の!』 


 崇徳は余裕しゃくしゃくで更に玉藻を煽っていく。

 ……いくら何でも硬すぎる。普段の崇徳は同格が相手なら攻撃を受け流しながらじわじわと追い詰めていくのが常で、真正面からのぶつかり合いはそこまで得意ではない筈だ。


『そらそらそらぁ!』


 吹き荒れる暴風は目くらまし、顔面を狙ってきた雷を前足で弾く。直撃した箇所は黒く焦げ、自覚できる程度の痺れを感じた。また、身体の数カ所には切り傷が刻まれ、金色の毛皮に血がにじんでいる。

 どれもこれも獣となった玉藻にとってはかすり傷に等しいものだが、決して無視はし得ない。

 ……やはり、威力も上がっている。


『はっはぁ! どうしたどうした九尾のぉ!』


 しかも、それなりの時間戦っている筈なのに、崇徳は疲れる気配を見せるどころかどんどん調子を上げているように見えた。

 何かがおかしい。一度疑問を抱いてしまえば後は簡単だ、何せ異変は一目瞭然なのだから。

 崇徳を侵食している黒い霧。その正体は知らないが、何か関わっているのはまず間違い無いだろう。


『今日の俺は本当に調子が良いな! 今なら何だって出来そうだ!』


 少なくとも当人は『調子が良い』程度の認識らしい。となれば誰かの企みによるものか?

 頭の中に浮かびかけた様々な疑問を、玉藻は咆哮で吹き飛ばす。

 抱いた疑問も、崇徳が強くなっているという事実も、結局のところ渦巻く激情の前では些末事さまつごとに過ぎない。今の彼女にとって優先すべきはただ一つ、眼前の獲物をずたずたにすることだけなのだから。

 ――そう思っていた。少なくとも今この瞬間までは。


「うおっ、やばい! 玉藻様たちがこっちに来たぞ!」

「見上げてる場合じゃないですよ親方! さっさと逃げないと!」

「逃げるってどこに!? どこもかしこも地割れとおかしくなった連中でいっぱいだ!」


 よく知る声たちのやり取りに、激情を忘れ思わず顔を向けてしまう。

 地獄の坩堝るつぼと化した妖の都で右往左往しているのは、狐の耳と尻尾を持ち、揃いの制服を着ている妖たち。玉藻が贔屓ひいきにしている油揚げ屋の店員だ。

 ――そして彼女が守れなかった陽毬の仲間、あるいは家族である者たち。


『――――』


 別に劇的な出来事が起こった訳ではない。見知った者たちがいた、ただそれだけのこと。

 しかし、彼らの姿はいつも陽毬と共にあった。故にいやおうでも陽毬の姿が、その最期が、脳裏に浮かんで、普段であれば決して晒さない隙を生じさせた。


『よう、何か面白いもんでもあんのか?』


 隠形おんぎょうでも使ったのか、音も気配もなく忍び寄っていた崇徳の手が玉藻の首に触れる。

 己の失態に気付いた時にはもう遅い、零距離で入念に練り上げられた風は、頑丈な毛皮をも切り裂いた。

 玉藻の視界に、鮮血の花が咲く。

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