災厄を割る流星

 都の地面に、巨大な狐が横たわっていた。

 妖しくも美しい金毛は痛々しい血の色に染まっており、吐く息も荒く乱れている。

 それでも、瞳の中でぎらつく激情だけは少しも衰えていない。


『良い眺めだな』


 嘲笑を浮かべた崇徳が玉藻の眼前に降り立つ。


『ずっと鬱陶しかったんだよ。いちいちいちいち俺様のやることに口出ししやがって。何様のつもりだ? おぉ?』


 崇徳はしゃがみ込み、玉藻へ詰め寄るようにがんを飛ばす。


『どうしたもんかと頭抱えたぜ。喧嘩を売ろうにも、てめーは肝心な時にのらりくらりと話を曖昧にして逃げやがる。今考えると、どうして思いつかなかったんだろうなぁ。こうしちまえば済む話なのによぉ!』


 立ち上がった崇徳は思いっ切り玉藻の顔を踏みつけた。一度では飽き足りず二度同じことを繰り返そうとするが、玉藻も黙ってはいない。


『があっ!』

『おおっと』


 足を噛み千切ってやらんとばかりに閉じられた鋭利な牙は、しかし何も捉えず虚しく空を切る。


『残念だった、な!』


 振り抜かれた崇徳の足が玉藻の顎を打ち抜く。崇徳の不自然な強化は筋力にも及んでいるらしい、衝撃は玉藻の巨躯を浮かせ、狂気と殺意に満ちた瞳が苦悶に歪む。

 初めに均衡が崩れてからそう時間は経っていない。朽ちた水門が決壊したように、同格だった大妖怪たちは明確な勝者と敗者に分けられた。

 そしてこの戦いにおいて、敗者が辿る末路は一つ。


『さて、一緒にこの都で頭張ってきたよしみだ、最期くらい苦しまずにかせてやるよ』


 罪人を裁く斬首刀のように、葉団扇が天高く掲げられる。

 長年の知己ちきに対する感慨も躊躇いも無く、崇徳はそれを振り下ろし――


『なーんてな!』


 が、発生する筈の風刃はいつまでも発生しない。文字通り、崇徳は葉団扇を振り下ろしただけだった。


『ひと思いに殺すだけで、俺様が長年溜め込んできた苛立ちが晴れるかってんだ』

『はん、やったらどないするんや。うちが泣いて許しをうまで痛めつけるつもりかいな?』


 暗にそんなことをしても無駄だとあざける玉藻に、崇徳は下衆げすな笑みをもって応える。


『いや、もっと良い方法がある』


 怪訝な表情を浮かべる玉藻を残し、崇徳は空へ飛んだ。それなりの高さまで上がったところで周囲を見渡し、やがて目を細める。


『ははぁ、見ーつけた』


 葉団扇を一振り。発生した暴風は空を駆け抜け、都のとある地点を強襲する。そして勢いが衰えないまま崇徳の元へと戻って来た。

 ――多くの悲鳴を伴って。


「「「「うわぁあああああああああああああ!」」」」

『な……っ!?』


 渦を巻く暴風に揉まれて宙を舞っているのは、決してこの場にいてはならない者たち。


『見てたぜぇ〜? てめー、さっきこいつらのこと気にしてただろ。こいつらを一人ずつ殺していったら、てめぇはどんな顔するんだろうなぁ〜?』

『崇徳ぅ!』


 醜悪な笑みで下衆なことを企む崇徳に玉藻はさせじと駆け出そうとするが、立て続けに雷や風刃をぶつけられて身動きを封じられる。


『さあて、だ・れ・か・ら・・ろ・う・か・な・と』


 ぐるぐると順繰りに崇徳の前を回っていく玉藻の知己たち。やがて回転が止まった時、崇徳の前にいたのは、品物の油揚げを作る親方――陽毬の父だった。


『お~ま~え~だぁ~』

「あ……ぁ……」


 まるで最下位を決めるくじ引きを盛り上げるように、不運な犠牲者を両手で指差す崇徳。例え喜劇のように演出しても、これから繰り広げられるのは決して喜劇ではないというのに。


『やめい! 崇徳!』

『や~めね♪』


 慈悲は無く、敬意も無く、敵意すら無く、ただ享楽のみをもって命が刈り取られる。十も数えぬ間に訪れるであろう惨劇が、玉藻の視界を点滅するように塗りつぶす。

 だからこそ、彼女はそれを目の当たりにしても気にも留めなかった。

 けれど、崇徳の真上に現れた光の点は徐々に大きさを増していき、すぐに気の所為でも見間違いでもないことに思い至る。

 繭を思わせる形になった燐光の色合いは、覚えがあるものだ。閉ざされた空間だと神秘的な光景を織りなしていたが、血と狂騒が舞う戦場で改めて見ると存在感は薄い。玉藻が気付いたのは偶然視界に入ったからで、距離的に近い崇徳は全く勘づく様子も無く。


『さあ、良い声で鳴けや!』


 ただ己の欲望に従い、惨劇の幕を上げようとすると同時、その頭上になった燐光が弾けた。いや、繭が破れたと言うべきか。

 その姿はここにいる筈のないもの。予期せぬという意味ではなく、決してあり得ないという意味で。

 失われたものは戻らない。それこそが、虚ろで無慈悲な現実における真理の一つなのだから。

 だというのに、地割れの底に消えていった筈の半妖は間違いなくあそこに存在する。

 ようやく何かを感じ取ったのだろう、訝しげに頭上を見た崇徳は驚愕し、恥も外聞もなく全力で回避しようとする。

 だが、崇徳は天狗であり、その背中には雄大な翼がある。

 流星のように飛来する巫女――冷良は戸惑わない。刹那の間に崇徳の身体が逸れた、だが代わりに狙える対象がある、それで十分とばかりに。


「いっけぇええええええええええええ!」 


 崇徳の威容を示す翼が、弾け飛んだ。




『ぎゃぁああああああああああああああああああ!』


 翼を持たない冷良は、翼が切り飛ばされる感覚というものをいまいち理解出来ない。しかしまあ、身体の一部が無くなるという意味では、四肢をもぎ取られるのとそう変わりはないのだろう。断末魔のような叫びも頷けるというもの。

 痛みや混乱で神通力どころではなくなったようで、暴風が掻き消え、支えを失った店員たちが悲鳴と共に落下していく。

 実のところ冷良も崇徳が店員たちを捕えているとは思っていなかった。どうにか助けなければと刹那の中で思索を巡らせていたところで、倒れ伏していた玉藻が動く。

 傷は決して浅くない筈、それでも彼女は噴き出す血を無視して全力で大地を蹴った。

 二歩目を考えていない無茶な一歩は、着地すら失敗して無様に地面を滑る。だが、その柔らかい毛皮は、高所から落下した狐の店員たちを間一髪で受け止めた。

 安堵した冷良も氷の坂で無事に着地したところで、衝撃音。翼を失った衝撃から立ち直るのが間に合わなかった崇徳は、そのまま地面に墜落したらしい。

 少し間を置いて、狐の店員たちは自分たちが無事であることを実感し始める。


「ここは……」

「あ、あれ? 私たちどうなって……」

「俺たち、生きてる……?」

「助かった……のか?」

『喜ぶ間も無くて悪いけどな、落ち着いたならどいてくれはる? 今はあんまり悠長にしてる暇ないんよ』


 思わぬところから思わぬ相手の声が聞こえて仰天する狐の店員たちだったが、そこは力が全てを支配する妖の都の住民、相手が玉藻だと分かると、疑問を抱く前にさっさと命令に従う。

 店員たちがそれぞれ毛皮を掴みながら地面に降りていく中、度胸があるのかさっさと着地してしまった親方が玉藻へ控えめに尋ねる。


「あの、玉藻様。陽毬のことを見ませんでしたか? 城へ向かったきりはぐれたままで……」


 玉藻に緊張が走ったのが気配でも伝わってくる。冷良だって他人事ではない、冷良も陽毬の結末を知る者の一人なのだから。

 ただ、幸いと言っていいのか、今は店員たちのことを気に掛けている暇はない。

 崇徳が落下した地点、大量に舞っていた砂煙が一気に弾ける。予め警戒していた冷良は練り上げていた妖力で前方に硬い氷の壁を作りだした。

 直後に割れ物が砕けるような音と共に突風が吹き荒れる。


『この糞餓鬼がぁあああああああああああああああ!』


 咆哮が空気を震わせ、針のむしろとなって冷良の肌を突き刺す。


『殺してやる! 殺してやる! 恐怖だの絶望だの悠長なことはしねえ! 痺れて動けなくして手足の先っちょからひき肉にして泣き叫びながら生まれて来たことを後悔させてやる!』

『はっ! さっきまでうちをおちょくり倒しとった癖に、いざ小娘から不意打ち食らったら怒り心頭かいな! よう分からん方法で強うなっても、香ばしい小物臭は消されへんみたいやなあ崇徳!』

『さっきまで泣きそうだった弱虫がよく吠えやがる! そんなに死にてえなら手前との決着を先につけてやらあ!』


 そう言い放った崇徳は、翼を失ったのに空へと飛んで行った。


「翼は斬った筈なのに……」

『翼やなくて神通力で浮かんでるんやろ』


 玉藻が冷良の前に一歩踏み出す。お前の役目はここで終わりだと言わんばかりに。


『さて、ここまで来たら後はうちの領分や。落とし前は必ずつけさせたる、部外者は大人しく隠れときい』

「嫌です」

『あぁん?』


 当然従うと思われていたのだろう、怪訝さの中に微かな不快感を混ぜた玉藻が冷良を見据える。


『助太刀そのものには感謝しとる。けどな、これは元々うちの喧嘩や。部外者が必要以上に出しゃばるんは筋が通ってないんとちゃうか?』

「先に喧嘩を始めたのは僕たちの方です。それに、これ以上あなたたちが本気で戦ったら都が危ない」


 はっと玉藻は周囲を見渡す。

 瓦礫の山と化した家屋、あちこちで燃え盛る炎。何故か暴徒と化した妖は未だあちこちで暴れているようだが、都そのものが受けた被害の多くは玉藻と崇徳の戦いの余波であることが見て取れる。

 元より気に掛ける余裕が無かったのは紛れもない事実だっただろう。そのことを責められる者もいまい。

 しかし、気に掛けなかったか、気に掛けられなかったか。その些細な違いが持つ意味は大きい。


『……あんたは空も飛ばれへんやろ』

「乗せてください」

『臆面も無く……何があったか知らんけど、ふてぶてしいことで』


 皮肉のような返事をしながらも、声色に不快感は含まれていない。しばし瞑目して首を上げた玉藻が見据えるのは、今倒すべき敵だけ。


『あんたを気遣う余裕は無いで』

「望む所です」

『言うやないの』


 了解の意思と受け取った冷良は身を屈めてくれた玉藻の背中に上る。ふわふわな毛皮は見た目に反して丈夫で、全力で引っ張っても全く揺るがない。落ちないよう握っている分には大丈夫そうだ。

 ふわりと身体が浮く感覚。落ちたことは何度かあるが、空に昇っていくのは初めてだ。

 向かった先に待ち構えるのは、怒髪衝天の崇徳である。

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