地獄から極楽……いや、地獄?

 土石流を切り抜けた先で出くわしたのは、妖の都に三体いる支配者の中で最も厄介な大天狗こと崇徳すとくだった。

 しかも、ゆっくりと降りてきた崇徳の表情はあからさまに機嫌が悪い。

 誰も、何も言えない。人間はおろか、玉藻を慕う陽毬まで。それほどまでに、今の崇徳は何をしでかすか分からない危うさがあった。

かといって沈黙が最善というわけでもなく。

 ならば適任者は決まっている。

 この場で一人だけ崇徳との面識を持つ冷良は、腹をくくって会話役を買って出ることにした。


「崇徳……様、どうしてこんな所に? 一体何があったんですか?」

「あぁ……?」


 どすの利いた声色と、こちらへ向けられる苛烈な視線。ただでさえ妖を恐れる人間の住人たちが恥も外聞もなく悲鳴を上げた。

 冷良とて崇徳と言葉を交わしたことがあるから平気、というわけではない。ここまでの威圧感をぶつけられるのは初めてだし、しなやかな柳のように受け流すにはまだまだ経験が足りない。

 何故それでも表情を取り繕うのかと問われたなら、こう答えるしかない。意地である。陽毬を始めとした多くの女性が怯えているのだ、今格好つけなくていつ格好つける?


「……女神に付いてた巫女か。山の中で昼寝してたらいきなり地震で叩き起こされたんだよ。挙句の果てに土石流で揉みくちゃにされてよ、折角気持ちよく寝てたのに台無しだぜ」


 つまり先ほどの暴風は、崇徳が土石流から脱出した時の余波だということだろうか?

 人だけでなく妖ですら絶望にたたき落とす災害を、単なる睡眠妨害で済ませてしまう規格外。この大天狗、そして他の二人も、本気になれば災害と変わらない存在なのだと否が応でも理解させられる。

 とはいえ、本人が意図していないところで冷良たちが助けられたのも事実。


「何にせよ、崇徳様のおかげで僕たちは助かりました。ありがとうございます」

「へいへい……ふわぁ〜あぁ~……」


 心の底からどうでも良さそうだ。


「この後はどうしましょう? 今の地震で地盤が緩んだ筈です、住人には一旦都にでも避難してもらった方がいいと思うんですが……」

「好きにすれば良いんじゃねぇか〜?」

「えっと……そうなるとですね、住む所とか色々と手配することがあると思うんですけど……ああそれと、住人から色々と聞きました。ここ最近災害が続いてるのってもしかして霊脈――」

「あーうっせえうっせえ! 寝起きに小難しい話なんてすんじゃねえっつーの! その手の話は九尾のに全部振ってんだ、話すならそっちにしろ!」


 この男は本当に、ただ君臨して好き勝手にやっているだけらしい。その在り方は、ともすれば他の都で祀られる神々と似ているのかもしれないが……咲耶姫や散瑠姫をこの男と同列で語るだけでも虫唾が走る。

 というか、政を全て玉藻に丸投げしているということは、彼女こそが妖の都で一番の重要人物なのでは?

 何にせよ、これ以上の会話は事態を悪くするだけになりそうだ。

 口をつぐむ冷良に鼻を鳴らした崇徳は、乱暴に頭をかいてそっぽを向く。


「あーあ、もう昼寝って気分じゃなくなっちまった。どうすっかなあ……」


 所在なさげに周囲を彷徨う崇徳の視線が、荷下ろしされた大量の食料を捉える。


「お、丁度いいところに食い物があるじゃねえか」


 不意に、崇徳の手に大きな葉が現れた。崇徳がそれを団扇のように振ると強烈な風が吹き、食糧の半分が空中に浮き上がる。

「おう巫女、喜べ、今日もまた宴会だぞ!」

「ちょ、ちょちょっと! それは集落の食べ物ですよ!?」

「いいだろ別に、助けてやったんだから礼くらい貰っても。それに、ちゃんと半分は残してやっただろうが」

「全部でも足りないくらいなんですよ! それを持って行かれたら、本当に飢え死にする人が出ますって!」

「どうにかするだろ。人間の生命力ってなぁ凄えぞ、どんなに潰したと思ってもいつの間にか湧いて出やがる」

「そんなわけ――」


 なおも言い募ろうとする冷良は、その先の台詞を口にすることが出来なかった。


「おうてめぇ、俺のやることに文句でもあんのか?」


 一瞬で目の前に迫ってきた崇徳が冷良の前髪を掴み上げ、苛立ちの形相を間近で見せつける。

 崇徳の不興を買った。あの、傍若無人を形にしたような、神々にさえ迫る力を持つ大妖怪の、だ。

 全身が総毛立ち、今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。返答を誤れば己の命すら危ういことを、理性よりも先に本能が察知していた。

 ――その本能を理性で抑え込んでしまう者は、もしかしたらまともな生物としては失格なのかもしれない。


「みんなを助けたのは、あなただけの手柄じゃない」


 いや、違うか。

 腹の底で溶岩のように煮えたぎるが、理性なんて上品なものである筈がない。


「土砂が迫ってきた時、僕は咄嗟に氷の壁で防ぎました。最終的には押し切られましたけど、そこまでに稼いだ時間は決して少なくない筈。もし僕がいなかったら、大勢の人が巻き込まれていたかもしれません」


 決して嘘は口にしていない。冷良は素知らぬ顔で法螺ほらを吹けるほど器用な性根ではない。

 ただ、詭弁きべんではあった。

 筈、かもしれない。結局のところ確かめようのない『もしも』の話。むしろこの場合、難癖をつけているのは冷良の方だ。


「ほーう」


 崇徳は顎に手を当てて感心するように唸った。

 ただし、その目はかけらも笑っていない。


「俺様がいなきゃ、てめぇも死んでたんじゃねえのか? お?」


 長く伸びた天狗の鼻が冷良の額を小突く。ゆったりとした感覚で、獲物を追い詰めるように。底の見えない大渓谷で綱渡りでもしているような気分だ。


「死んでません、僕は強いので」


 幹奈がこの場にいたら鼻で笑われそうだ。いや、粋がる弟子の鼻っ柱を折りにかかるかもしれない。彼女はその辺り厳しいのだ。

 それでもこの現実よりは何倍もましなのだが。


「んー?」


 今度は顔を寄せてこちらの顔を間近で睨め付けてくる。

 誰かが倒れるような音が冷良の耳朶じだを打った。あまりの緊張感に耐えられない者が出てきたか。

 それでも、冷良だけは引くわけにはいかない。ここで引けば集落の者に待っているのは餓死という運命だ。それに直観だが、半端な決着が一番ろくでもない結末に繋がっているような気がしてならない。

 どれだけ時間が経っただろうか、不意に崇徳が顔を離して快活な笑みを浮かべた。


「ここまで啖呵たんか切られちゃあ仕方ねぇな! ほら、お前さんの取り分だ」


 浮かんでいた食糧の半分が冷良の前に落ちてくる。


「均等に半分ずつだ、これで文句はねえだろ?」


「はい……まあ」


 本音を言うなら全て返して欲しかったが、それは求めすぎというものだろう。引き際を見誤ってはいけない。


「お前中々やるじゃねえか。俺様にあそこまではっきり物を言える奴なんて、九尾のと酒呑のくらいだと思ってたぜ」

「きょ、恐縮です」


 何だか急に当たりが柔らかくなったような。あれか、自分が認めた相手には親しくするというやつか。物語でよく出てくる捻くれ者みたいな。


「さて、貰うもんは貰ったしそろそろ帰るか」


 終わりを告げる崇徳の呟きに、冷良の胸中が安堵で満たされる。一時はどうなることかと思ったが、なんとか落としどころを見つけることが出来た。

 ――と、崇徳が親しげな仕草で冷良の肩に手を置いた。


「確か……冷良って言ったか? 顔と名前、覚えたぜ」


 耳元で嗜虐心たっぷりの捨て台詞を残し、今度こそ空の彼方へと去っていく。

 緊張から解放された住人たちが次々とへたり込む中、冷良の心臓は未だ早鐘を打ったまま。

 ――玉藻以上にやばい相手から目を付けられた。




「どっと疲れた……」

「あたしはこの後さらに疲れることになるけどね……」


 大豆を仕入れた集落からの帰り道。高速で移動する朧車おぼろぐるまの中、冷良と陽毬は揃って肩を落とし、同時に溜息を吐いた。

 冷良は妖の都でもっとも厄介な相手に目を付けられた先行きの不安から、陽毬は独断専行した大損の取引を身内に説明する億劫おっくうさから。


「良かったんですか? ただでさえ大豆の量が少なかったのに、更に返しちゃうなんて」


 しかも彼女はかなりの食料の奪われた集落に、仕入れた大豆の一部を返してしまった。一応、可能な限りの対価は差し出されたが、妖の都では大した価値にならない物ばかりだという。


「良かあないよ、今だって親父たちになんて説明したもんか悩んでる。けどさ、もし食料が足りなくてこの冬を越せない人が出たら……あたしゃあもう、何食わぬ顔であの人たちに顔を合わせらんないよ」

「困った時はお互い様……みたいなやつですか?」

「そんな高尚なもんじゃないよ。あれは……あたしたちに有り得た未来だったかもしれないんだ」

「玉藻様が店を縄張りにしてくれたってやつですか?」

「そうだよ。聞きたいかい? うちの店が玉藻様に目を掛けてもらう前の話」


 自嘲するような笑みと、仄暗い闇を宿す目。禄でもない話だと察した冷良は、わざわざ気分を悪くする必要はあるまいと首を横に振った。


「結局のところ怖いんだよ、自分と重なる人たちが不幸になるのが。だからどうしても見捨てられないんだ」


 怖いから助けたい。その気持ちは冷良にも通じるものがあった。


「まあ、あたしのことはいいんだ、最悪親父の拳骨食らうぐらいだし。むしろあんたこそ大丈夫なのかい?」

「……どうなんでしょうかねぇ」


 他人事のような言い方になってしまった。というか他人事であって欲しかった。軽く現実から逃げたくなる程度には。

 自分のやったことに後悔はしていない。ただ、待ち構える苦難をどう思うかはまた別の話。

 特に気になるのは花の都の調査隊、引いては散瑠姫への影響だ。自分はともかく、彼女たちが危険に晒されることだけは何としても避けたい。

 陽毬の真似をする訳ではないが、どうやって幹奈たちに報告したものか。そう悩んでいる間に朧車はあっという間に陽毬たちの油揚げ屋に到着した。

 朧車に礼を言って店の中へ。

 と――


「おやまあ、意外な顔がくっついとるやないの」

「げ……」


 店の中でお茶と油揚げを傍らにくつろいでいたのは、会いたくない相手番付で崇徳に次ぐ第二位、九尾の狐こと玉藻前だった。

 その目が、良い玩具を見つけたとばかりにきらんと輝いた。


「『げ……』? 今『げ……』って言うた? この大妖怪を捕まえといて、よりにもよって?」

「あ、いや――」

「もぉーっし訳ありません! この子今すっごく疲れてて、頭が完全に馬鹿になってるんです!」


 何故か陽毬の方が取り乱して冷良の頭を無理やり何度も下げさせる。


「ほんとにもう、戻ってくる途中も『あー』とか『うー』とか『げー』って呻くばかりで、あたしもまいっちゃってたんですよ!」


 どんな呻き方だ。


「うぷ……」


 つっこみを入れたいところだが、何度も激しく頭が上下するものだから次第に世界が回り始め、気分も悪くなってきた。崇徳とめんちを切り合った後にこれは効く。


「あ、ご、ごめん大丈夫!?」


 流石にまずいと思ったらしい陽毬から解放されるも、回る世界の中では足取りもおぼつかない。数歩進んだところで足がもつれてしまったのは、もはや予測されていた未来といえるだろう。


「うわっ!?」


 足元から消える安定感。

 だが、想像していた衝撃はいつまで経ってもやって来ない。

 座布団を何倍も柔らかくした物に飛び込むような感覚。既視感があると思ったら、人を甘やかすのが好きな咲耶姫に抱きしめられた時と同じだ。首を上げてみれば軽く驚いた玉藻と目が合う。

 ここまではいい。いや相手を考えると決して良くはない状況なのだが、まだ既知の範囲内だ。

 しかし、両手から伝わってくる感覚は本当に未知だった。例えになる物すら思い浮かばない。瞬間的に浮かんできた感想は『とにかく柔らかい』だった。

 視界の具合は不良。彼女が身に纏う鮮やかな着物に大部分を占領されているからだ。

 一口に着物といっても、模様が違えば着こなしも千差万別。例えば咲耶姫も幹奈も身体の凹凸は激しい方だが、二人共着物はきっちり着こなす部類なので、人前では随分と着やせして見える。

 一方玉藻の着こなしは非常に緩い。おかげで咲耶姫に並ぶ豊満な身体の線が惜しげもなく衆目に晒されている。冷良の視界を占領しているのは、彼女の胸から隠されることなく突き出た二つの大きな山だ。

 ――ちなみに冷良の両手が掴んでいるのが、その双子山だった。


「――」


 冷良の意識が真っ白に漂白される。

 既に崩れかけた身の安全を木っ端微塵に粉砕するような不始末。そこから溢れる悪感情の奔流すら一掃してしまうほどに、指から直接伝わってくる感触は生々しく、強烈だった。

 顔から血の気は引くどころか全身の血をかき集めたかのように火照り続け――


「あ――」


 声を上げたのは玉藻だった。少し遅れて冷良の唇に鉄錆てつさびのような味の液体が触れる。

 口元を拭ってみれば手元は真っ赤に染まっており、その衝撃で彼方に跳んでいた意識がようやく帰還する。

 そして自分が鼻血を流していること、色んな意味でまずいを通り越して絶対絶命の窮地に立たされていることに気付き、顔に集まった血があっという間に引いていく。

 興奮して鼻血を流すなんていつの時代の大衆小説だ。

 いやそれよりも、貴人の胸を揉むなんて同性であっても無礼すぎる。ましてや異性とくれば、果たして下手人だけの首で済むかどうか。


「も、申し訳ありませんでした!」


 即座に身を離して地面に額をこすり付ける勢いで土下座する。


「あ、あたしの所為です! 大恩ある玉藻様になんてことを……!」


 隣では間接的な原因になった陽毬も全く同じ姿勢で土下座をした。

 玉藻は黙して喋らない。耳に痛い沈黙の中で、彼女が煙草たばこの煙を吐く音だけが耳朶を打つ。


「花の都の巫女、こっちに来やれ」

「え? ええと……」

「来やれ言うたんよ」

「はい、ただいま!」


 意図がどうあれ、今の冷良に大人しく従う以外の権利はないのである。

 来いとしか言われなかったので、ひとまず玉藻の足元で下を向いて跪くような格好に。

 すると彼女の尻尾が意思を持つように伸びてきて、冷良のあごを持ち上げた。

 さて、ここで不思議なことが一つ。傾けられた首の角度が甘く、冷良の視線は玉藻の顔ではなく胸の谷間を直視することに。

 いけない、これはいけない。咲耶姫や幹奈の身体だってこんなにじっくり見たことはないというのに。

 また顔に血が集まってくる気配。意のままにならない身体が今度はどんな反応を示すやら。首を動かすと玉藻の意に反しそうなので、視線だけを限界まで上に持ち上げて無理やり彼女の顔を見る。傍から見れば今の冷良はこの世のどんな男女よりも不気味だろう。


「くふっ」


 だというのに――玉藻は笑った。今まで見たどんな笑顔よりも楽しそうに、最高の玩具を見つけた子供のような目で。


「くふふふふふふふふ! 男を転がしたことはぎょーさんあるけど、女を転がしたことは一度もないなぁ! 愉快、愉快!」


 他の尾が冷良の身体を持ち上げ、今度こそ玉藻と正面から、それも鼻の先と先がくっつきそうな距離で見つめあう。


「なああんた、うちの物にならへん?」

「……一応聞きたいんですが……何故に?」

「気に入った、それ以外の理由がある?」


 単純明快である。

 ただ、胸を揉まれてそうなった経緯が解せない。


「悪いこっちゃあらへん思うで。あのお真面目そうな巫女頭の下やと、溜まるもんあっても発散できひんやろ。うちならたぁっぷり可愛がったるで? 

「……」


 つまり、玉藻の中ではこういう結論になったわけだ。

 ――冷良は女だが、女のことが好き!

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