蠱惑の狐
建物の中からゆったりと、一歩一歩に
まだ誰かも分からない相手に、調査隊の面々がどよめいたのが伝わってくる。
身に纏うのは色鮮やかな着物。それも冷良が時々小雪から着せられる媚び媚びな意匠ではなく、良家の女性が着ていそうな気品に満ちたものだ。髪は
全体的な姿形は殆ど人間と区別がつかないが、頭の上で
これだけでも花の都の常識で生きてきた人間の目を惹くには十分過ぎる。
だというのに、調査隊たちの頭から油断大敵の心構えを吹き飛ばしたのは、その人間と変わらない
狐のような目はどことなく胡散臭いのに、口元の蠱惑的な笑みには言い知れない引力がある。
警戒はするのに抗えない、胸の内からこみ上げてくる背徳感はまさに甘い毒。
間違いなく、美貌では咲耶姫や小雪に並ぶ。ただ、優しさや活発さを伺わせる彼女らに対して、目の前の女性が纏う雰囲気はどことなく退廃的だ。
「ここはうちが
「なーにが島だよ! 女の癖に一丁前なこと抜かしてんじゃねえ!」
「は――?」
と、女性が目を瞬かせて唖然としたと思ったら、口元に手を当てて笑い始める。
「くふ、くふふふふふふふふふふふふ!」
「な、何がおかしい!」
「いやあ、馬鹿の相手はぎょーさんしてきたけど、女やからて舐められたんは久しぶりでなあ、何やつぼに入ってしもたんよ」
「ば、馬鹿にしてんのか!」
「いや、
「てめぇ!」
あっさりと激高した妖は女性に飛び掛かろうとするが、女性が人差し指をちょいっと振ると、全身が凍り付いたように固まってしまう。
「な、何で……動かねえ……!」
「あんた
女性が手のひらを上にして手招きすると、ゆっくりと妖の身体が吸い寄せられていく。そのままひょいっと放り投げるような仕草をすると、妖の巨躯はあっさりと建物のてっぺん近くまで跳び上がった。
「うおぉおおおおおおお!?」
「ほいっ、ほいっ、ほいっ♪」
女性の細い手首だけで、明らかに彼女よりも重い妖が文字通りお手玉されている。あまりに異様な光景に、誰もが目を離せない。
「これもおまけや♪」
女性がもう片方の手のひらに火の玉を生み出し、お手玉の中に追加する。それを都合五回、妖と合わせて六個の玉が小気味よく女性の手の上を跳ね回る。
「おあぁあああああああああああああ!」
妖からすれば落下と上昇を繰り返しながら燃え盛る火の玉が迫り続けているのだ、生と死の狭間を行ったり来たりしているような心地なのかもしれない。
「もっしもっし亀よ、亀さんよ~♪ 世界のうちで、お前ほど~♪」
一方、女性の方は
悲痛な絶叫とのどかな歌声。決して相容れない音が混ざり合い、鼓膜を震わせている。今認識している世界はちゃんとした現実か? いつの間にか悪夢の中へと迷い込んではいないか? 自分の正気を疑うほどに、この光景は現実味がない。
「はーい、お終い♪」
不意に、女性が妖を受け止めた。必然的に、お手玉されていた火の玉の全てが妖へ目がけて降り注ぐ訳で――
「ぎゃぁあああああああああああああ!」
結果から言えば、鬼が悲惨な目に遭うことはなかった。
殺到していた火の玉が、全て妖の目の前で弾けたからだ。
一応は無傷で済んだ訳だが、恐怖を募らせた精神には止めを刺されたようで、妖は気を失ってしまった。お手玉を楽しんでいるように見えた女性は途端に興味を失い、壊れた玩具のように放り捨ててしまう。
そこへ酒呑童子が近付いた。
「相変わらず迂遠なやり方だな、女狐」
「あんたが粗暴過ぎるんよ、
応える女性は特に
だが、冷良は特に驚いたりしない。
狐のような耳の形、九本の尻尾、屈強な妖すら文字通りお手玉にしてしまう力。ここまで要素が揃ってしまえば、とある名前に辿り着くのは容易だった。
「申し遅れて
分かってはいても、改めて名乗られると唾を飲まずにはいられない。
玉藻前、またの呼び方を九尾の狐。数多くの国を滅ぼしたとされる大妖怪。上品で丁寧な挨拶だというのに、底知れぬ凄みを感じて仕方がない。
「花の都からはるばるようおこしやす。歓待の準備をしとるさかい、今日は旅の疲れをあんじょう癒しよし」
玉藻前がそう締めると、酒呑童子が先頭に戻り、調査隊も歩みを再開した……までは良かったのだが、困ったことが一つ。
「あの……先頭に行かなくていいんですか?」
「先導は呑兵衛がしとるさかい、うちまで出る必要はあらへんよ」
玉藻前は酒呑童子に同行せず、何故か冷良の隣に陣取った。おかげで馬車へ戻るに戻れない。護衛たちには厄介ごとはごめんとばかりに二歩ほど距離を取られた。冷良も護衛の対象内なのに。幹奈が補助のために残ってくれたのが唯一の救いか。
「どうして僕の隣に?」
「なんや嫌そうな言い方やなあ?」
「い!? いやいや! そんなことは!」
「くふふ、まあ、そういうことにしといたろか」
冷良が困っているのを楽しんでいるような気配。この辺は小雪に近しいものを感じる。
「うちはなあ、お喋りが好きなんよ。そこにきて、むさっ苦しい男共の中にかいらしい娘っ子たちが混ざってるんやもん、これはもう是が非にでも話しかけな損ってもんやろ?」
片方は男だが。知ったらどんな反応をされるだろうか?
「まあ、なんで調査隊の中に混ざってるんかは大体予想付くけど。服装からして、木花散瑠姫に付いて来た巫女ってところやろ? で、肝心の女神は、多分さっきから少しずつ離れていってる馬車の中」
「え?」
振り返ってみると、近くにいると思っていた散瑠姫の馬車がいつの間にか後ろの方へ移動していた。
「くふふ、素直やねえ」
「あ……」
瞬時に冷良は自分の失態を悟った。ここで馬鹿正直に振り向いてしまっては、その馬車の中に散瑠姫が乗っていますと白状するようなものだ。
護衛たちに指示を出したのは幹奈だろう。当の本人は企みを見透かされて、素知らぬ顔の中に薄い緊張を漂わせている。
幹奈の内心を知ってか知らずか、玉藻前は楽しそうに彼女の隣へ移動した。
「怖がらんでもええよお、大切な女神様を危険から遠ざけるんは人間としては当然のことやろ? あんさんらにとって、妖の都に住む妖はえげつない悪党やもんなあ」
「そのようなことは考えておりません。馬車を離したのは、巫女の中に妖が苦手な者がいるからでございます」
紅がいるので嘘ではない。が、真実からはほど遠い。それでも、幹奈は毅然とした態度で玉藻前を見返した。
「……ええなあ」
にぃっと、玉藻前は口の端をつり上げた。
「ええなあ、ええなあ! 二人共娘っ子の癖に、うちを相手によう気張りよる。いじらしゅうていじらしゅうて――食べたいくらい」
冷気に慣れ親しんだ冷良の背筋を寒気が走り抜けた。
舌なめずりをした玉藻前の台詞が捕食的な意味合いを持っているようで。そして、冗談ではなさそうで。
「ま、冗談やけど」
だからこそ、両手を開いてにこやかな笑顔に戻られても全く安心出来なくて。
「そもそも霊脈の様子がおかしくて困ってるんはほんまやさかい、あんまり下手なことはでけへんし」
「今、嘘くさって思ったやろ」
もはやどんな反応なら大丈夫なのか分からず、冷良は無言でひたすら首を横に振るのだった。
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