瓊瓊杵尊
――
げらげらげら、げらげらげら。
新たな夫婦の先行きを
げらげらげら、げらげらげら。
響き渡る笑い声は毒のように意識を侵食し、少しずつ正気を削り取っていく。今すぐにでもこの両耳を切り落してしまいたいくらいだ。
何故、こんなことになってしまったのだろう。
不安も不満も迷いもない、満ち足りた生を送って来た。それはこれからも続く筈だったのに。
調和の取れた美しい世界が崩れてゆく。暗く、醜く、
げらげらげら、げらげらげら。
何故自分は――こんな醜い者共と友誼を結んでいたのだろうか?
「流石に堪忍袋の緒も切れたかな」
現世に置いてきた半妖の少女を脳裏に思い浮かべ、瓊瓊杵は独りごちる。
別れ際に浮かべていた表情は、散瑠姫の始末を宣言した時のものと同じだった。
言うなれば絶望一歩手前。二度もそんな目に遭わせてしまったことは心苦しく思う。そうでなくともこちらの都合で振り回し過ぎた。
多少は事情を説明してやるべきだったか? 脳裏に浮かんだ疑問を即座に否定する。
――瓊瓊杵尊は自分勝手で冷酷で
瓊瓊杵は元々、天地の繁栄という使命を帯びて天津国から現世にやって来た、主神天照大神を祖母に持つ神だ。
大いなる血筋に大いなる使命、それは苦しみも退屈も遠ざける最高の美酒だ。誇りを胸に、悩みも疑問も無縁の、ある意味で充足した日々。
大山津見命の領地・長屋の山に住まう女神に求婚したのも、その美貌に心が惹かれたわけではない。というより、直接顔を見たことすらない。
単に、自分の配偶者となれば誰もが見惚れるほどの美姫くらいしか務まるまいと、半ば義務感によるものでしかない。
されど、悪意があったわけでもない。
故に、散瑠姫を目の当たりにした際、初めに抱いた感想は『醜い』ではなく『釣り合わない』だ。
「木花散瑠姫、そなたは俺の妻に相応しくない」
それは差別でも侮辱でもない、純然たる事実を告げたに過ぎなかった。少なくとも当時の瓊瓊杵にとっては。
この時点で既に、咲耶姫との婚儀中止も視野に入れていた。配偶者という存在はそこまで執着しておらず、姉妹を引き離して得るほどのものでもなかった。
今回は互いに縁がなかった、いずれより良き縁が結ばれることを願う。お決まりの一言を
だというのに、参列した神々は全てをぶち壊した。
瓊瓊杵からすれば、寄ってたかって散瑠姫を笑い者にする神々の方が余程醜かった。
だが、何より衝撃的だったのは、過不足なく調和の取れた美しい世界だと思っていた現実が、吐き気を
自分が今まで見ていたものは何だったのか。
いや、自分は今まで何を見ていたのか。
この時呆然自失となってしまい、周囲を気遣う余裕がなかったことは、客観的に見ても仕方のないことなのだろう。
だが、それがあまりにも致命的な遅延を招いたことも事実で。
「あ、散瑠姉様!」
思考の海に沈んでいた意識を現実に呼び戻したのは、咲耶姫の叫び声だった。
姉を追う直前、咲耶姫が一瞬だけこちらへ向けてきた憎悪に満ちた表情は、この先一生記憶から消えることはあるまい。
「待――」
反射的に引き止めようとして、途中で理性が待ったをかける。
引き止めてどうする? どんな言葉を投げかければいい? この時の瓊瓊杵は、そんな判断すら
根底から吹き飛ばされた価値観をどうにか取り繕い、まともな思考を取り戻した時には全てが後の祭だった。散瑠姫は姿を消して行方知れず、咲耶姫はたった一人で残された。
大いなる血筋? 大いなる使命? 笑わせる、結局生み出したのは悲劇だけではないか。
もはや自分には頭を抱えて時間を無駄にする資格もない。意識を擦り減らしてでも成すべきことを考えろ、そして早急に行動に移せ。
まずは何よりも謝罪から始めるべきか。
「――否」
道理ではあるだろう。
だが、謝ってどうなる?
どれだけ咲耶姫に罵詈雑言を浴びせられ、何なら大山津見命に殺されるようなことがあっても、散瑠姫は戻って来ない、二人の気が晴れることはないのだ。あるのは『自分はちゃんと謝った』という事実に対する自己満足のみ。
そのような惰弱を認める訳にはいかない。もう二度と見苦しい様を晒すわけにはいかないのだ。
――ならば
「決まっている」
贖罪だ。
――何を以て?
単純明快だ、失われたものを取り戻す。
そうでもしなければ、己を許すことなど出来はしない。
「ああ、やってやるとも」
そして瓊瓊杵は己に誓うのだ。
――今この時より、
――瓊瓊杵尊に在りしはただ一つの目的のみ、他のあらゆる一切合切は不要である。
――許しも、同情も、慰めも、親愛も、何もかも。
瓊瓊杵の眼前で大量の枯木がうごめき、枯れた巨木に絡まって一つになってゆく。
「主を失ったというのに元気なことだ」
神域とは神々が所有する箱庭であり、持ち主の意思によってある程度は自在に操ることが可能だ。
だが、逆に言えば主がいない限りは何の変化も起こらない筈である。
少なくとも、主である散瑠姫とは別の意思が介入していると見て間違いないだろう。
巨木と一つになった大量の枯木は両腕のような部位を構築し、本体の巨木には目と口を思わせるうろが空く。見た目は枯木の人形、いや、人面樹と言った方が近いか。
「
木霊は木々の意思が具現化した存在で、人間や神々の良き隣人であるが、目の前の巨大枯木は見るからに敵意剥き出しだ。
禍木霊が当然のように左腕を変形させ、鞭のようにしならせながら薙ぎ払ってくる。
瓊瓊杵は跳んで避けようとして、不意に身体から力が抜ける。視線を落とせば足首に木の根が巻き付いていた。
「うぉあっ!」
咄嗟に行動を切り替え、真正面から腕を切り飛ばす。
「二番煎じを……っ」
足元の根に剣を刺して毒づきながらも、瓊瓊杵は冷静に状況を分析していた。
切った腕はすぐさま元に戻っており、特に堪えた様子はない。ちょっとやそっとの斬撃では傷にもならないということらしい。
そして地面から次々と生えては襲い掛かって来る木に、触れると生命力を奪う特性。少なくとも、先程まで散瑠姫がやっていたことは禍木霊も出来ると思った方がいいだろう。
全力の散瑠姫と同じ能力に、途轍もない耐久を持つ本体。
有り体に言って、負け戦である。
そもそも瓊瓊杵は武神ではないし、他の国津神と同じく『悪意』の封印に神力の多くを割いている。まともな戦いになった時点で不利なのだ。
――だが、そんなことは最初から分かっている。
瓊瓊杵は『あの時』に誓っているのだ、もう二度と己を見誤らないと。
「剣よ、我武神に
瓊瓊杵は知っている、己の無力さを。与えられた神器に宝以上の価値はなく、真価を発揮させることなど出来はしないことを。
「汝は武具に非ず、主神より賜りし宝具
それでも足掻いた。分不相応を求める自分ではなく、己の無力すら知らなかった自分を嗤(わら)いながら。
「されど今
結局辿り着いた場所は元の持ち主――須佐之男命の足元にも及ばない。彼の武神の全力は勿論、息をするように放つ普通の斬撃に並ぶかも怪しい劣化再現。
――それでも、世界最強の武神の斬撃である。
「原初の姿をここに、汝が銘は――
天叢雲剣――その身は
八岐大蛇の前身は伊吹大明神、蛇の姿を取る水神だ。
すなわち、その剣に宿るは水神の暴威――嵐である。
剣閃より発生するは暴風と呼ぶにもおこがましい破壊の奔流。大地を
瓊瓊杵の神格では全身全霊でなおその一片を再現するのが精一杯、けれど決して広い訳ではない周辺一帯を更地にするには十分だった。
「ぜーっ……ぜーっ……」
代償として瓊瓊杵は立つのも辛いほどの疲労に見舞われるが、その眼差しはまだ目前を鋭く見据えている。
禍木霊がいた場所に、人の頭程度の黒い穴が空いていた。穴からは少しずつ『悪意』の霧が溢れており、見るからに不吉だ。
「……やはり……『悪意』の領域に繋がっていたか……」
いくら散瑠姫が深い恨みを抱いていたとしても、内的な要因だけで引っ込み思案な彼女が妹神の咲耶姫すら
現世や幽世に満ちていた『悪意』の殆どは、国津神たちが総出でとある領域に封印している。
考えられるとすれば、『悪意』の領域と散瑠姫の神域が偶然重なり、直接繋がってしまったか。幽世は形も概念的な位置も流動的なものであるので、全くあり得ない話ではない。
かといって、よくある現象でもない。それがよりにもよって傷心の神が引きこもる神域と『悪意』の領域という組み合わせとなると、一体どんな確立だ?
それに小さな穴とはいえ、封印内部の『悪意』が外に漏れていること事態が問題では? 他の領域で同じ現象が発生していたら? 与える影響は?
様々な疑問が頭を過ぎるが、それぞれを深く掘り下げているほどの余裕も今の瓊瓊杵にはない。目の前の障害に対処するだけで精一杯だ。
半ば身体を引きずるように長い時間をかけて穴の傍まで移動し、右手で印を結ぶ。
散瑠姫を狂わせた元凶の排除、ここまでが瓊瓊杵が自分に課した使命だ。幸い相手は空間に開いた小さな穴、これなら手持ちの宝物を要にすればどうにか封印で対処出来る。祖母の七光りと皮肉ってきたが、今ばかりは物が集まる環境にいたことを感謝する。
見覚えのある木が、腕に絡みついていたからだ。
「な……っ!?」
直後、足元から新たな木が生え、蛇のように瓊瓊杵の全身へ巻き付いた。疲労していたところに不意を突かれ、腰の剣を抜く暇もなかった。
力が抜けていく。先程消し飛ばした禍木霊の能力だ。
撃ち漏らした? しかし劣化再現とはいえ、最強の武神の一振りは決して伊達ではない。いくら生命力が強い植物とはいえ、あの一撃をまともに食らって無事で済むとは思えない。現に周囲の樹海は根こそぎ消滅している。
……根こそぎ?
「本体は地中か!」
植物の生命力を侮っていたのはこちらだった。葉を飛ばされ風雨に揉まれ地面を塞がれてなお、根さえ無事なら新たな芽を生む、それが植物だというのに。
後悔しても後の祭り、既に地中の本体をどうにかする力など瓊瓊杵には残っていない。
かくなる上は――
「せめて封印だけでも……!」
どうにか要の宝物を取り出そうとする瓊瓊杵だが、それを反抗の意思と受け取ったのだろうか、巻き付く木が一気に身体を締め付けてきた。
「ぐ――ぁああああああああああああああ!」
巨人に握り潰されるかのような圧力が全身を襲う。
足から嫌な音が聞こえた。折れたのか潰れたのか、どちらの足なのかあるいは両方か、もはやそれすらも分からない。
既に痛覚以外の感覚は消し飛んでいる。激痛が意識を侵食し、外界との境すら曖昧になってきた。
――それがどうしたと、瓊瓊杵は吠える。
長い時を、後悔と自責に費やしてきた。自己否定に塗れた追憶を止めることが出来ず、自分の首に手を伸ばした日が何度あったことか。今更身体の痛みなど何するものぞ。
「ぐ……がぁあああああああああああ!」
途切れそうになる意識の糸を必死に繋ぎ止め、痛覚の塊となった腕に意思を宿す。
既に己への誓いは果たした。故にこれは責任であり意地だ、この結末を選んだ神としての。
瓊瓊杵が身体的な責め苦では折れないと判断したのか、禍木霊は手段を変えた。地面から次々と追加の木が生え、繭でも作るかのように上から巻き付いていく。閉じ込めてゆっくり生命力を吸い尽くすつもりなのか、数を束ねて一気に圧殺するつもりなのか。
「諦……めん……!」
どのような意図があろうとも、瓊瓊杵の心を折るには足りない。
例え残された右腕と顔まで取り込まれ、完全に視界が閉ざされてしまったとしても。
諦めない。
諦めない。
諦めない。
……諦……らめ……ない……
……あき……
………………
「――着き――うわ、何――これ――」
沈みゆく意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
「――もし――あの中――」
「――行き――」
声は二つ。両方とも聞き覚えあるような?
不意に、暗闇へ一条の光が煌めいた。目の錯覚かと思ったそれはいつまでも消えず、やがてゆっくりと横へ広がっていく。
「いました! 瓊瓊杵様です!」
光の向こうからこちらを覗き込むのは、大切な役目を託した筈の、美しくも情に厚い巫女だった。
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