反転、あるいは取り払われた仮面
向けられた呪詛に瓊瓊杵はしばし無言で足を止めたが、結局それ以上咲耶姫に言い募ることはなく。
「行くぞ、冷良」
「え、あの、ちょっと!」
振り返ることもなくさっさと座敷を後にする瓊瓊杵。力なくうなだれる咲耶姫も気掛かりだが、放っておけば単身でも散瑠姫の元へ行きかねない勢いだった瓊瓊杵を優先して追いかける。
「あの、一体どうなって……っ!」
呼び掛けにも応じない。説明してやる義理はないと言わんばかりに。
神としては別におかしくも何ともない対応なのだろう。良くも悪くも傲慢なのは神々の常だ。
だが、神話における逸話、瓊瓊杵がやって来てから振り回された日々、何より姉の悲報を受けた咲耶姫の痛ましい姿が何度も頭をよぎり、次第に苛立ちが膨らんでいき。
「少しは、待ってくださいよ!」
怒気を孕んだ叫びが琴線に触れたか、瓊瓊杵は一旦足を止めて踵を返す。ただし、その表情は普段の好青年じみたものからかけ離れた、鋭利で寒々しいものだ。冷良は出会ってから初めて、瓊瓊杵に神としての畏れを抱いた。
巫女として危ない橋を渡っている自覚はある。神の性格次第ではこの時点で処断されてもおかしくない物言いだ。
それでも、溢れる激情が冷良に引くことを許さない。
「どうして散瑠姫を殺すなんて話になるんですか。『悪意』に侵されて人が変わったなら、どうにかして元に戻せばいいんじゃないですか?」
「まあ、道理であろうな」
意外な同意に一瞬虚を突かれて――
「時に冷良、草薙剣についてあれだけ詳しかったのだ、
「え? そ、そりゃあ勿論。主神
三貴子の話ということもあり、須佐之男命の八岐大蛇退治は数ある神話の中でも特に有名だ。八岐大蛇とは俗世の民にとってある意味もっとも身近な敵役と言っても過言ではない。
とはいえ、何故今その名前が出てくるのか。
「あれの元の名は
「な……」
そんな話、昔あちこち旅をしていた時も、巫女になって神に近しい立場になった後も聞いたことがない。
もしかして自分は今、神々の機密――俗世の民にとっての禁忌に触れているのではないだろうか。
「かの須佐之男殿でさえ、八岐大蛇との正面衝突は避けた。いいか、当時は愛剣を持っていなかったとはいえ、世界最強の武神が、全力を出せる状態でも、だ。それほどまでに、堕ちた神は手が付けられん」
瓊瓊杵の例えを冷良は正しく理解した。だからこそ、言い返せない。
「それに、相手は荒ぶる神だ。どう対処するにせよ周りに考慮している余裕はない。周辺一帯は天変地異を覚悟せねばならん」
天変地異。きっと冗談でも誇張でもないのだろう。
神々とは自然の権化、自然による暴力それすなわち天変地異に他ならないのだから。各地に点在する村落は勿論、都の一つや二つ、あるいはそんな想像さえ生温い惨劇が広がる可能性すらある。
「理解したか? 散瑠姫が本格的に現世で暴れ出し、禍津神としての神格を確立してしまってはもう手遅れだ。その前に何としても止めなければならん。元に戻すなどと、あるかもわからぬ可能性に賭ける訳にはいかんのだ」
ぐうの音も出ない正論である。無数の人々と主の身内、天秤に乗せたとしても後者へ傾けることは出来ない。理性が理解してしまった。
後に残されたのは、行き場を失くしたやるせない感情だけ。
「……行くぞ。幽世へは境内の参道から出発する」
説明だけした瓊瓊杵はさっさと踵を返して歩みを再開する。口を引き結んで拳を震わせる冷良が完全に納得していないのは一目瞭然の筈だが、特に言及はしてこない。多少縁があった程度の巫女の内心まで気に掛ける義理はないということだろうか?
重い足取りで瓊瓊杵の後を追いかけ、参道へと移動する。瓊瓊杵は冷良の到着を待たず幽世へ繋がる襖を出現させ、さっさと向こう側へ行ってしまったので、冷良も慌てて飛び込む。
やって来たのは昨日も目の当たりにした、鳥居がある洞窟の入口。幽世へ踏み入る時は、現世からがらりと変わる雰囲気への戸惑いや感慨があったりしたものだが、今はただただ気分が重いだけである。
「行くぞ。今はまだ縁が濃い、昨日よりは早く辿り着ける筈だ」
そこからの流れは確かに早かった。いや、振り返ってみれば早かったと言うべきか。
本当にあっという間だった。早すぎて都合三回目となる枯木の樹海を目の当たりにしても、気付くのが少し遅れたくらいだ。
実際に通り抜けた領域が昨日より少なかったのはあるだろうが、ずっと考え事をしていたのが大きいだろう。何せ、道中の景色を一つたりとも覚えていない。
「……あれ?」
前回が前回だったので何が起こっても動じないように身構えていたのだが、定位置である枯れた大木のうろに散瑠姫の姿が見当たらない。
別に驚いたわけではない、精々が何処へ行ったんだろうと首を傾げる程度。
ただ、ごく短い時間、冷良の意識にあった『警戒』が『疑問』に上書きされる。
その虚を突くように、冷良の首筋と頬に背後から手が伸びる。
「ひょぇっ!?」
「……あぁ……本当に、戻って来てくれた」
宝物の人形を撫でるように優しく、たおやかに、散瑠姫の細指が冷良の絹肌を這い回る。喜びに浮かれた熱い吐息は、夢へと誘う子守唄のよう。
女顔の冷良とて健全な男子、されど耐性は皆無なので意識も身体も完全に硬直してしまったが、視界の端で枯れ木に捕まった瓊瓊杵が邪魔とばかりに放り投げられていたおかげで我に返った。
「うごっ!」
派手に土が舞い上がったが、野太い呻き声を漏らしているので無事だろう。
「……どうして、逃げていった癖に、戻って来たの? やっぱり、あの女に、嫌気が差した?」
「い、いやぁ、そういう訳では……」
一度逃げたことに怒っている様子はない。有難いと言えば有難いのだが、代わりにねっとりとした喜びを向けられても困る。
と、吹き飛ばされた瓊瓊杵がよろよろと立ち上がる。
「おい、散瑠姫――よっ!?」
「死ね」
怒っていないのは冷良に対してのみ。水が上流から下流に流れていくぐらいの自然さで、瓊瓊杵へは殺意の枯れ木が差し向けられる。
「ま、待て散瑠姫! 今回は渡しておく物がある!」
「……いらない、さっさと、死ね」
「そんなことを言っていいのか? 冷良からの贈り物だぞ?」
猛獣のように暴れていた木々がぴたりと止まる。
「……どうして、お前が、持ってる?」
「折角なので主役に
よくもまあそんなぺらぺらと嘘が出てくるものだ。
だが、生来より純粋なのか、あるいは『悪意』に侵されて判断力が鈍っているのか、あっさり騙された散瑠姫は喜色満面の笑みを冷良に向ける。
「……本当?」
「ほ、本当ですほんと!」
瓊瓊杵の意図は分かる。が、それ以上にこの笑顔を曇らせるのがあまりに忍びない。
「……じゃあ、早く頂戴、そして死んで」
「死ぬのは嫌なので渡した瞬間さっさと逃げさせてもらおう」
「……ちっ」
じゃれ合いのようなやり取りが全て本気なのだからたまらない。
瓊瓊杵は懐に手を突っ込み、ゆっくりと近付いて来る。贈り物が壊れることを恐れてか、散瑠姫も下手に攻撃しようとはしない。
とはいえこれまでの因縁から、互いに警戒心を拭い去ることは出来ないようだ。緊張を高めながら距離を縮める様はまさに我慢比べ。
散瑠姫は言葉通り、贈り物が瓊瓊杵の手から離れた瞬間に殺意全開で葬り去るつもりだろう。
一方、瓊瓊杵はそれを理解した上で、先に仕掛ける腹積もりだ。正面からやり合うのは分が悪いのだから合理的だ。何ならかの須佐之男命だって八岐大蛇退治の際に似たような手を使った。
徐々に近づく距離、張り詰めていく空気。
更に、冷良の中では葛藤が大きくなっていく。
瓊瓊杵と散瑠姫の距離は、そのまま散瑠姫が死に至るまでの距離だ。剣に身体を貫かれて血だまりの中で倒れる散瑠姫と、泣きじゃくる咲耶姫の姿が何度も頭をよぎり、その度にこのままでいいのかと、己の正しさを問う心の声がうるさい程に鳴り響く。
――周辺一帯は天変地異を覚悟せねばならん。
それら全てを、記憶の中にある瓊瓊杵の言葉が無理矢理黙らせていた。もしかしたら、親切心というよりはこの状況を見越して楔を打ち込まれたのかもしれない。
だが、現実の瓊瓊杵尊と散瑠姫の距離が縮まるごとに、意識に響く自分と瓊瓊杵の声が大きくなり、しまいには両方が何重にも重なって聞こえるようになってきた。
あまりに重なり過ぎた言の葉は歪に混ざり、やがて意味すら失って意識をかき乱すだけの雑音と成り果てる。
話し声でもない、雑踏でもない、旋律でもない雑音の反響。それは意識を侵食する凶器に等しく、視界は明滅し、喉元からは吐き気が込み上げる。
一歩、また一歩。決して広くない瓊瓊杵の歩幅によって詰められる距離が短く感じ、あっという間に残り一歩で腕が届く近さに。
「――ぁ」
――何かが砕けるような音を聞いた気がした。
気を狂わせんばかりの音の奔流は理性や迷い、思考の一切合切を押し流す。漂白された意識には正しい倫理観も判断力も残っておらず、ただ冷良という半妖が根底から望む欲求の通りに身体を動かす。
「やっぱり駄目ぇえええええ!」
身体に回されていた散瑠姫の手を振りほどき、瓊瓊杵へと飛び掛かる。
狙いは腰に下げられた草薙剣。後のことは考えていない、とにかく抜剣される前に柄を押さえる、意識にあるのはそれだけだ。
だが、すれ違うように瓊瓊杵の両腕が散瑠姫へと伸ばされる。草薙剣には触れようともしていない。
慌てて振り返ってみれば、瓊瓊杵の両腕の行先は散瑠姫の首元だった。
すわ首を絞めるつもりかと焦ったのも束の間、散瑠姫の胸元に覚えのある物がぶら下がっていた。
――瓊瓊杵がいつも身に着けている勾玉だ。
「
直後、勾玉が眩い光を放ち、散瑠姫の顔が苦悶で歪み、周囲に大量の黒い霧が現れる。
「あ――あぁああああああああああああああああああああああ!」
響き渡る絶叫はまるで断末魔。悶えながら地面を転げ回る様は、直後に死が訪れてもおかしくない悲壮感を抱かせる。
たまらず駆け寄ろうとするが、散瑠姫が大暴れするので手が付けられない。
冷良が歯噛みしていると、散瑠姫の纏う黒い霧が不自然に揺れたと思ったら、ゆっくりと彼女の背中へと集まっていく。
集まった瘴気は球を成して徐々に大きくなり、やがて弾かれるように枯れた巨木へと吸い込まれてしまった。
「あ――」
それが止めとなったように、散瑠姫は意識を失ってその場に倒れ込んだ。
「散瑠姫様!」
もう一度駆け寄ろうとする冷良だが、今度は瓊瓊杵に首根っこを掴まれたと思ったら、そのまま放り投げられてしまった。
「あ痛っ――って、え?」
尻餅をついた先は樹海の柔らかい地面ではなく――硬い石畳の上。
そう、現世にある奉神殿の境内である。
目の前の虚空に開く襖の向こうでは、瓊瓊杵が散瑠姫の身体を持ち上げているところだった。
そしてあろうことかそのまま放り投げてきたではないか。
「そら、受け取れ!」
「いや、無理無理無理無理!」
さて、日々幹奈に鍛えられて確実に腕を上げてきた冷良だが、打刀すら振るのに難儀する筋力の方は、努力の甲斐虚しく改善する兆しが見られない。恐らくは体質によるところが大きいのだろう。
そして当然ではあるが、女性の身体というものは刀よりも重い。弧を描いて飛んでくる衝撃となれば尚更である。
反射的に両腕を差し出す冷良だが、その細腕で散瑠姫の身体を支えられる筈もなく、せめてもの意地で自身を下敷きにしてどうにか受け止めた。
幸いにして、散瑠姫は苦しそうだがしっかりと呼吸はしている。思わず安堵の息が漏れた。
「元凶の『悪意』からは離した、少なくとも今より悪化することはあるまい。この後どうなるかは……咲耶姫次第だろう」
「瓊瓊杵様?」
「とはいえ、散瑠姫の神力はそのままだ、お前たちでしっかりと咲耶姫を守れ」
「あの、何を……」
瓊瓊杵は襖の向こうで背を向けたままで、こちら側へやって来ようとする様子がない。
「
「言伝って……」
まるでこちらへ戻ってくるつもりがないような言い草ではないか。
「後は咲耶姫と散瑠姫に――いや、これはいいか」
途中で台詞を切り、大きく息を吐いて脱力する瓊瓊杵。
冷良の目には、それが重い荷物を下ろして安心する仕草に見えた。
と、襖の向こうで何かが蠢く。
「瓊瓊杵様、今何か動きませんでした!?」
「予想の範囲だ。後始末は我が名に懸けて必ず全うする。お前たちは咲耶姫と散瑠姫のことだけ心配していればよい」
「いや、そんなの無理ですって! せめて少しくらい説明してくださいよ! ほら、早くこっちに――」
咲耶姫と幹奈にしっかりと成り行きを報告する必要があるのだ、尻切れ
手を引いて半ば強引にでも連れ戻そうと、散瑠姫をゆっくりと横たえて神域に戻ろうとする。
だが、途中で振り返った瓊瓊杵の表情を目の当たりにした瞬間、それがあまりに悠長な考えであったことを思い知ってしまった。
瓊瓊杵はこちらの話を聞く気など一切ない。
あれだけ自分勝手に周囲を振り回し、説明不足で放り投げておきながら。
奴の中ではもう終わってしまったのだ。
だから、こんなにも眩しい、やり遂げた顔をしていられる。
「後は頼んだ」
襖が閉じていく。
氷の小太刀を生成して突き出す。
けれど、小太刀に手応えはなく、ただ何もない空を突いただけの虚しい感覚だけが手に残る。
「……何なのさ」
本人は終わったつもりなのかもしれないが、後を任せるなら最低限の説明責任くらい果たすべきではないか。言伝は幹奈にだけ? ふざけている。
今までの血も涙もない言動は何だったのだ。いきなり印象をひっくり返されて、残された側は一体どんな感情を抱けばいい? どこへ向ければいい?
何にせよまずは咲耶姫に報告して、出来れば幹奈も入れて瓊瓊杵の意図を考えなければ。今は混乱して冷静に物事を考える自信がない。
そのまえに一言だけ。初対面から現在進行形で、散々振り回してくれるあのあん畜生な神へ、溜まりに溜まった
「ふざけんなぁあああああああああああああ!」
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