現実は奈落のごとく

 巫女たちの話を聞いた冷良と瓊瓊杵は、正門を離れられない彼女たちを置いて全力で境内を駆け抜ける。

 向かう先は幹奈の私室。冷良は矢も楯もたまらず問答無用で入り口のふすまを開いた。


「幹奈様!」


 瞬間、冷良の頬を短刀が掠め、背後の壁に鈍い音を立てて突き立つ。

 部屋の中では布団から身を起こした幹奈が腕を振り抜いていた。


「ああ、冷良でしたか。全く、奉神殿であんなやかましい足音を立てるのみならず、巫女頭の私室に無断で立ち入ろうとするとは何事ですか」


 いきなり短刀をぶん投げるのもどうかと思うのだが。同席している咲耶姫と見知らぬ女性も揃ってぎょっと目を剥いているのだし。


「そんなことより、今は一体どんな状況なんですか? 幹奈様が階段で足を踏み外して危篤きとくだって聞いたんですけど」


 非常事態との知らせを受けていたのであまり怯まない冷良が説明を求めると、ばつが悪そうに顔を逸らす幹奈。


「……どうやら心配をかけてしまったようですね。足を踏み外してしまったのは事実ですが、幸い打ちどころが良かったようで。つい先程目を覚ましたところです」

「受け答えはしっかりしていますし、身体機能にも異常はありませんので、脳震盪のうしんとうとみて問題ないでしょう。とはいえ、二、三日は安静にして様子を見てください。こちらが処方になります」


 巫女たちのかかりつけ医らしい女性は包みを幹奈に渡し、一礼して部屋を後にした。そして間髪入れず、数人の巫女たちがおずおずと廊下からこちらを覗き込んでくる。時間的にまだ今日の仕事は残っている筈だが……まあ、心配で手がつかないのだろう。

 幹奈もそれは承知しているようで、まだ表情に不安を残す部下たちに小さく笑いかけた。


「心配は無用です、早く自分たちの仕事を終わらせるように」


 巫女たちは破顔し、大騒ぎしながら去っていった。じきに他の同僚たちにも安堵が広がっていくことだろう。

 ただし、部屋の雰囲気は安堵して終わりという訳にはいかなかった。

 咲耶姫が小さく鼻をひくつかせる。


「この匂いは……眠りを促進するこうか」


 流石は草花を司る神、包み越しでも匂いを嗅ぎ分けることくらい訳ないということか。


「それに化粧を落としてから気になっていたが、このくま……そなた、眠れておらぬのか?」

「……はい、おっしゃる通りです」


 事ここに至って誤魔化しは無意味と悟ったのだろう、幹奈は大人しく咲耶姫の疑問を認めた。

 ここで冷良の疑問が一つ晴れる。


「もしかして、階段を踏み外したのも……」


 門番の巫女たちから話を聞いた時から不思議には思っていたのだ。

 幹奈は退魔士で武芸の達人である。鍛えられた体幹により身体の重心は常にぶれることなく、速さを重視した立ち回りを支える視野の広さと反応速度も申し分ない。

 つまるところ、幹奈が階段を踏み外し、あまつさえ受け身すら取れず気を失う姿が想像出来なかったのだが、睡眠不足というなら納得だ。

 逆に言えば、それ程までに幹奈の体調が悪いということでもある。


業腹ごうはらですが、認めざるを得ませんね。体調管理をおこたって皆や姫様に迷惑をかけてしまうとは……巫女頭失格です」

「そんなことありませんよ!」

「冷良の言う通りだ! そなたは肉親の離別を乗り越え立派に役割を果たしている、妾にとって良き巫女であるぞ!」

「良き巫女は主に牙を剥いたりはしません!」


 直後、幹奈がやってしまったとばかりに口元を押さえ、顔を蒼白にしながら視線を瓊瓊杵へと送る。

 一拍遅れて、冷良と咲耶姫の顔からも血の気が失せる。

 月代家の前当主である月代梢が咲耶姫に反旗をひるがえしたのは、既に世間でも広く知られていることだが、その中に娘である幹奈も加わっていたことは当事者だった冷良と咲耶姫しか知らない。

 いくら咲耶姫が女神といえども発言力には限度がある、幹奈が世間から大罪人の烙印を押されてしまっては流石に守り切ることは難しい。しかも、擁護した咲耶姫の立場も危うくなる。

 判決が下される直前の法廷のような、重苦しい緊張感が部屋を満たす。

 が、全権を握る瓊瓊杵はどこ吹く風とばかりに含み笑いを漏らす。


「内輪揉めに口を出すほど俺は器の小さい男ではない。世間で語られる事件の真相がどうあれ、咲耶姫が傍に置く巫女に含むところなどないとも。それよりも、色々と溜め込んでいる様子、この際全て吐き出してしまった方が楽ではないか?」


 あっさりと流したのは瓊瓊杵なりの気遣いか、あるいは単純に興味がないのか、何にせよ降って湧いた危機は去った。

 水を向けられた幹奈はしばらく俯いて押し黙っていたが、やがておもむろに口を開く。


「……溜め込む、という表現が合っているのかは分かりません。現状に不満があるわけでも、特段伝えたいことがあったわけでもないのです。我が大罪が姫様にゆるされたあの日から、二心を抱くこともなく、がむしゃらに役割を果たして来たつもりです」


 常に自他共に厳しく疲れも表に出さない、まさに巫女たちの規範を体現していたと言っても過言ではない幹奈。

 けれど心の内は、余裕とはほど遠くて。


「私が瓊瓊杵の代わりに姫様から平手を受けたあの時。姫様の御心は理解しており、特に驚く理由もなかったのに、妙な心地がしたのです。その……腑に落ちたような」

「「腑に落ちた?」」

「心によどみのようなものがあったのです。きっと……初めから。単純に忙しい日々の中で忘れていったのか、あるいは無意識に意識の奥底へ押し込めていたのかは……自分でも分かりません」

「……? ……?」

「それに気付いてしまうと、もう無理でした。どれだけ姫様に尽くそうとしても、いいえ、尽くそうとすればするほど、貴様にそんな資格があるのかと。大罪人の癖にと。私を責め立てる声が止まないのです」

「……? ……? どういう……ことだ?」


 咲耶姫は咲耶姫なりに必死に耳を傾け、理解しようとしているのだろう。だが、幹奈が言語にした内心の核心どころか輪郭りんかくすらも掴むことは叶わず、ただただ右往左往するばかり。

 人はそれを仕方なしと評するか、あるいは未熟と評するか。大切な部下であり友である幹奈の心に寄り添えず、己の無力さに打ちひしがれる咲耶姫の目には次第に涙が溜まっていき。


「ああ成程、そなたは罰を求めているのか」


 すれ違う主従に訳知り顔で割り込んだのは瓊瓊杵だった。言語化されたことで、曖昧だった幹奈の想いに明確な形が与えられる。


「そう……なのかもしれません」

「罰などと! 梢の件については妾が赦しを与えた! それで終わりではないのか!?」

「咲耶姫よ、そなたの言い分は正しい。ただ、赦しが救いにならんこともある、それだけだ」

「知ったような口を……!」

「知っているとも、少なくとも今のそなたよりはな」

「――っ」


 知ったかぶり、と切り捨てるには説得力がありすぎた。

 別に咲耶姫が悪い訳ではない。当然、幹奈も。そもそもどちらが悪いという話ではない。どうしようもないのだ。

 咲耶姫と幹奈。互いが互いを大切に思っているのに、その心の距離は今、手を伸ばしても届かない程に離れている。

 それが、冷良には悲しかった。


「……妾では、幹奈を労わることすら出来ぬということか」

「あ、咲耶様!」


 吐き捨てるように自嘲する台詞をこぼした咲耶姫は、そのまま冷良の静止も聞かず部屋を飛び出してしまった。

 冷良は後を追いかけようと反射的に腰を浮かせるが、瓊瓊杵が待ったをかける。


「やめておけ、今追いかけても意固地いこじにさせるだけだ」


 確かに、追いかけようとはしたが、何を言うかかまでは考えていなかった。

 機先を制されたのでそのまま腰を落ち着ける冷良だが、気まずさではここも大差はない。

 そして幹奈に投げかけられる言葉も、冷良は持ち合わせていない。自分の無力を嘆くという意味では、冷良の立場も咲耶姫と似たようなものだ。

 冷良の心情をおもんばかってか、幹奈が自室にもかかわらず居心地が悪そうにしている。その気遣いが余計に自らの惨めさを浮き彫りにしているようで、冷良は居たたまれなくなった。


「……僕も失礼します」

「俺も行こう。いつまでも怪我人の部屋に居座るのは無粋故な」


 冷良が退室し、瓊瓊杵が後に続く。

 そうして二人揃って移動して冷良が襖を閉めようとしたところで、瓊瓊杵が今思いついたかのように口を開く。


「ああそうだ、俺もたまには神らしく、迷える民に導きの金言でも授けようか」

「金言……でございますか?」

「『罪には功を』……ゆめゆめ、忘れぬように」


 問答をする気はないようで、幹奈の反応も確認せず瓊瓊杵この場を後にする。冷良は幹奈に一礼だけしてから襖を閉め、慌てて後を追いかけた。


「あの、今の言葉って一体……?」

「ん? まあ、償い方にも色々あるということだ」

「は、はあ……」


 言葉の意味は分かるがその裏にある意図は読み取れない。追及しても教えてくれなさそうだ。


「あ、そういえば散瑠姫様の件……」

「……しまった、言いそびれた」

「至急の用事なんですよね? 咲耶様のところに行きましょうか」


 無力感に打ちのめされたばかりの咲耶姫には酷かもしれないが、事は肉親の一大事だ、知らせない訳にもいかないだろう。

 だが、瓊瓊杵は少し考え込んだ後に首を横に振った。


「いや、少し待とう。今の咲耶姫は何をするか分からん。せめてやるべきことが決まってからでも遅くはあるまい」

「さっき送った書簡のことですよね、誰が相手なんですか?」

「俺たちの盟主だ」

「それって……」


 神話で語られる神々の間に明確な上下関係は基本的に存在しない。例外は主神である天照大神及びその弟たち。彼女らには三貴子さんきしという特別なくくりが与えられている。

 その三貴子でないとすると、瓊瓊杵が盟主と仰ぐような神など一柱しか存在しない。


「この話は他言無用だ。まあ、明日の朝には返事も来るだろう、それまでの我慢だ」

「……分かりました」


 事の大きさを改めて思い知らされた冷良は、先行きへの不安に身を震わせずにはいられなかった。


    






 明くる日の夜明け。僅かに白んだ星空を背に、三股足の鴉が羽をはばたかせて飛翔してくる。


「……来たか」


 瓊瓊杵が予想していたよりも早い鴉の帰還は、それだけ緊急を要する事態であることが伺える。

 鴉を一撫でして労い、書簡を受け取る瓊瓊杵はごく短い、けれどあまりに重い一文に目を通し、長く深い息を吐き出す。

 空に昇る太陽を眺める眼差しは遠い。

 過去にすがるようにも、何かと決別するようにも、覚悟を決めたようにも、悲壮な未来をうれいているようにも見える彼の表情は、普段の軽薄な気配など欠片も宿してはいない。








 瓊瓊杵から話があるらしい。

 そう言われて咲耶姫に座敷へ呼び出されたのは、朝起きて念の為に幹奈の様子を見に行こうとする道中だった。

 こういう時咲耶姫の傍に侍るのは幹奈の役目だが、彼女が寝不足で危ない目に遭ったのは昨日の今日である。少なくとも本日は丸々休ませるつもりらしい。そして代役として冷良に白羽の矢が立ったわけである。

 冷良としてはいよいよといった感想だが、何も知らない咲耶姫は発起人ほっきにんが瓊瓊杵だからか不安を隠しきれていない。幹奈が傍にいないのもあるだろう。

 実際、話の内容は身内が豹変してしまったという重すぎるものである。ただでさえ精神的に参っている咲耶姫がこの凶報を受けてどんな顔をするか、胃の痛い話である。

 そうした冷良の心配を余所に、瓊瓊杵は淡々と告げた。


「この度、木花散瑠姫の討滅が決まった」


 第一声は耳を素通りした。

 何せ脈絡が全くない。この場はあくまで事実を伝えるだけで、むしろどうやって咲耶姫をなだめるが本題だった筈だ。

 普段の何倍もの時間を掛けて台詞を咀嚼そしゃくし、ようやく意識が内容を理解しても、やはり現実味に欠ける。有り体に言えば冗談という可能性を一番に思い浮かべた。

 そもそも、今まで冷良は瓊瓊杵から一度もそんなことを聞いていない。精々、散瑠姫の豹変には原因があり、それが大事であることくらいである。


「先日、俺は偶然が重なって神域に引きこもる散瑠姫との接触に成功したが、散瑠姫は『悪意』に侵され我を失っていた」


 けれど、こちらの理解を待たず、粛々と事実を口にする様が、嫌でも話に現実味を与えていき、同時にとある事実を思い知らせて来る。

 ――神が民草に事細かく事情を説明してやる義理などないのだということを。


「そして散瑠姫は俺たちと違って『悪意』の封印に関与しておらず、本来の神力を保持したまま……咲耶姫、お前ならこの意味が分かるな?」


 咲耶姫はゆるゆると首を横に振った。

 それは意味を理解していないというより、理解することを拒んでいるかのようで。


「……さい」

「既に我らが盟主、大国主おおくにぬしにも確認は済ませてある。これは大国主の指示だ」

「……うるさい」

「もう一度言う、散瑠姫は討滅――」

「うるさいうるさいうるさい! うるさぁああああああああああい!」


 両耳を塞ぎ、瞼を閉ざし、咲耶姫は駄々っ子のように泣き喚き、髪を振り乱す。そのままうずくまり、泣き声とも呻き声とも取れる声を漏らし始めた。向き合い難い現実から、必死に目を逸らすように。

 だが、瓊瓊杵はそれを許さない。耳に伸ばされた咲耶姫の腕を無理矢理捕まえ、いっそ暴力的なまでに容赦なく現実を叩き込む。


「討滅には今から俺が向かう。その際、散瑠姫の神域までの道標として冷良を借り受けるぞ。一度直接出向きはしたが、やはり加護の方が縁としては強い」


 咲耶姫の視線が冷良へと向く。散瑠姫の加護を報告しなかったことへの非難……ではない、もっと悲壮な……そう、すがりついて何かをおうとしているような……。


「念の為に言っておくが、そなたにも冷良にも拒否権はない――諦めろ」


 何かを察したらしい瓊瓊杵が釘を刺す。最後の一言が抵抗する気力すら奪ってしまったのか、咲耶姫は全身を脱力させ、虚ろな目で畳を眺めるだけになってしまった。

 伝えるべきことは今ので全部だったようで、瓊瓊杵は踵を返して座敷を後にしようとする。


「……何故、散瑠姉様なのだ」


 呟いた咲耶姫の視線は動いていない。誰に向けた訳でもなく、ただやるせない想いがそのまま口をついて出たようで。


「散瑠姉様は悪いことなど何もしていない。ただ一方的に衆目に晒され、笑い者にされ、心に深い傷を負い、神域に籠らざるを得なくなった。全ては貴様の所為なのに」

「その通りだ。だからこそ、俺自身の手でけりをつける」


 責任を取る。行為自体は間違っていない、上に立つ者として相応しい姿勢と言えるだろう。

 けれどそれは、淡々と何の悪びれもなく主張していいものなのか?


「……お前なんて、初めからいなければ良かったのに」


 心優しい女神の口から吐き出された呪詛は、汚泥のような執着を宿し、いばらのように鋭かった

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